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蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 十五 旅のつれづれ / あとがき

2010/05/13 09:28
「旅のつれづれ」
 一

 水泥五千キロの旅での移動では、空路、鉄路、陸路と三種類の交通路を利用した。一回の移動に要した時間は、最長は広州ー茂名間の列車の約八時間で、最短は済南ー博間のマイクロバスの約二時間である。

 私は、日本国内の旅行で、何度も往復したところは別にして、新しく利用する路線の場合、それが空路であっても、鉄路であっても、努めて外の景色を眺めることを常としている。

 今回の旅でも、この習慣を踏襲し、努めて周囲の景色を観察し、なにがしかの知見をうることを怠らなかった。

 旅の目的が、セメント工場の省エネルギーにあったので、列車ないしはマイクロバスの車窓から、コンクリートの使用状況を知ることを第一にした。だが、車窓から目に入る周囲の景色は、中国を知る上で貴重な多くの情報を提供してくれた。

 コンクリートの使用状況については、道路、橋梁、送電線の支柱などに重点を置いて、その現状を知るようつとめた。

 道路については、旅行中高速道路を除いて、アスファルト舗装の道路を目にしていない。「中国分省公路交通地図冊」では、アスファルト舗装の道路を、油面道路と区別して記載しているが、地図に記されているほど、アスファルト舗装は、多くないという印象だ。 

 中国の道路でのアスファルトの使用が少ない理由については、第四節で供給量の制約にあると指摘したが、その結果として、中国の道路の整備は、専らセメントに依存することになり、セメント生産量の異常な拡大の一因になっている。

 道路に次いで目につくのは、橋梁である。

 昨今の日本の橋梁は、鉄構構造物といってよいが、中国の場合、一般の橋梁は未だに鉄筋コンクリート構造が全盛といった感じだ。

 そのため、橋脚もいきおい太いコンクリートの柱であり、上部構造物も無骨なコンクリートで作られているので、鉄構構造物の橋梁のような優雅さはない。

 例外的な橋梁として、南京の長江大橋がある。長江に架かる三番目の橋として、一九六八年に完成したこの橋は、九本の橋脚により支えられた鉄構構造物である。

 旅の途中、この橋を渡る機会があったが、逞しさを感じさせる巨大な姿は印象的であった。

 橋といえば、北京郊外の瑠璃河水泥廠へ行く途中、日中戦争発端の蘆溝橋を望見する機会があった。

 瑠璃河水泥廠調査の二日目の朝、マイクロバスが永定河に架かる橋の上を走っているとき、隣の席に座っていたR女史が、上流側二つ目の橋を指さして、あれが蘆溝橋であると教えてくれた。

 座席と反対側の車窓から、重厚な造りの蘆溝橋が望まれた。一瞬写真に収めようと思ったが、疾走する車からのシャッターチャンスは失われていた。

 そのとき、帰路には写せるだろうと思ったが、瑠璃河水泥廠での調査に手間取ったため、永定河を渡るときにはすでに日没をすぎており、残念ながら蘆溝橋を写すことができなかった。

 次に、送電線の支柱について、触れてみたい。

 日本で、送電線の鉄塔を見慣れている目には、中国の送電線の支柱は奇異に映った。中国の新しい送電線は、コンクリート製の支柱によって支えられていたのだ。

 日本の場合、長距離送電を別にすれば、東電管内では、二十五万ボルトの送電線をメインとし、そのサブとして十五万ボルトの送電線が架設されている。これらは、いずれも鉄塔により支えられている。

 中国の送電線は、高さなどから推定すると、送電電圧は高いものでも十五万ボルト程度のようである。

 これらの送電線のほとんどは、二本のコンクリート製の支柱の上部に渡された鉄製のアングルの上に固定されている。支柱がコンクリート製のため、鉄構構造の送電塔に比べ、重厚さはあってもスマートさは感ぜられない。

 これらの送電線が、広い大地の上に張り巡らされており、若干見た目には目障りの感じだが、鉄鋼の生産量が相対的に少ないので、やむを得ない光景のようだ。

 コンクリート製といえば、テレビ塔もコンクリート製だ。日頃鉄構構造のテレビ塔を見慣れている目には、テレビ塔までコンクリート製とはと、意外な感じで受け止めた。

 北京のテレビ塔、それは、街の中心部より北西の位置にある。瑠璃河水泥廠へ往復には必ずその前を通る。そのたびに巨大なそのコンクリート構造物は驚異として目に映る。初めてその偉容に接したとき、マイクロバスの隣に座るR女史に、「現代の万里の長城だ」と問いかけると、あまりいい顔をしなかった。

 その真意は、どこにあるか明らかでないが、万里の長城を愚挙のようにいう見方が頭の中にあって、それと同等に扱った私の見方に対する無言の抵抗であったのかもしれない。

 南京でも、テレビ塔を遠望する機会があったが、これも同様コンクリート製だ。おそらく、中国全土のテレビ塔は、コンクリート製と見てよいものと思うが、この面でも、鉄鋼の供給不足を見て取ることができる。

 このような情景を目にしながら、旅の途中、私の心の中に、「煉瓦の文化」から「セメントの文化」への流れを鉄道の沿線風景から読みとれないかとの興味が芽生えた。



 前回の旅では、飛行機が北京空港へアプローチしているとき、地上に広がる耕地の中に煉瓦工場が点在する光景を目にした。それらの煉瓦工場は、ごく小規模のもので、農家の庭先に窯を造り、煉瓦を焼くといった感じだ。

 当時は、北京で高層アパート群の建設がようやく始められた時期で、言うなれば、まだ煉瓦の文化が栄えていた時期といってよいだろう。

 地上を這いずり廻るような今回の旅でも、多くの煉瓦工場を目にした。広々とした耕地の中に、煉瓦造りの煙突が一本突出するような形で立っているので、煉瓦工場の存在はすぐ確認できた。おそらく、郷・鎮以下の集落単位に一つくらいの割合で、煉瓦工場があるようだ。

 煉瓦の焼成は、のぼり窯を使っているが、細かく見ると、地上に窯室をもつ形式と、地下に窯室をもつ形式の二つ形式があるようだ。前者の場合でも、窯室の高さが低いので、遠望すると煉瓦の煙突だけしか見えない。

 見かけられた煉瓦の煙突は、いずれも黒く煤けたような外観をしており、新設された工場ではないと思われるので、セメント文化の移行の影響は、煉瓦工場にも及んでいると見て取れた。

 これに対して、セメント工場の新設は、経済開発区周辺の地域で、活発に行われていた。

 中国のセメント生産は、新旧様々な焼成炉によって行われており、その生産量の八十パーセントが、小工場の竪窯形式の焼成炉によって行われている。

 これに対して日本のセメントの焼成炉は、第一次石油危機以前の段階で、プレヒータ付を付設した焼成キルンに置き換わり、中国に多い竪窯形式の焼成炉は、廃棄されているので、竪窯形式のセメント工場の外観は、南京の栖霞山水泥廠で初めて見るといった有様であった。

 旅のはじめは、各種様々な形式の中国のセメント工場を遠望しても、それがセメント工場と判別する眼力は備わっていなかったので、北京より瑠璃河水泥廠の往復に、竪窯形式のセメント工場があったとしても見落としている可能性がある。

 南京以後の旅では、栖霞山水泥廠の知見があったので、注意して見ると、列車あるいはマイクロバスの車窓から、諸処に、竪窯形式のセメント工場の存在が確認できた。

 長江以北の江蘇省、安徽省、山東省などでは、二・三十キロに一つぐらいの割合で工場が存在し、郷・鎮単位で一つの工場があるといった感じで受け止めてよいようだ。

 それらの工場を近くで見た訳ではないので、それが新設間もない工場か否かの判別まではできなかったが、過去十年のセメント生産量の増加から判断すると、これら工場の三分の二は、新設されたものと見てよいだろう。

 広東省の場合、その地域が経済開発区であり、広州ー茂名間で利用した鉄道は、一九九二年に新設されたものなので、約八時間の旅程の半分は、その沿線が新興工業地区といった感じであった。

 鉄道の駅は、真新しいコンクリート造り、その周囲に点在する工場を含めた建築物も、コンクリート造りと、まさにセメントなくしては、その成立すら考えられないほどの世界だ。

 そのためでもあったのか、セメント工場は、鉄道の沿線近くにあちこちに存在していた。いずれも、比較的新しい竪窯形式のセメント工場で、中には、建設中のセメント工場も二・三散見された。

 要は、新興開発地区では、煉瓦のかけらも見かけられない。真新しい鉄道の駅、沿線に建築中の建造物、諸処に見られる住宅群、いずれを見ても、コンクリートの固まりだ。

 この光景は、改革解放の経済政策のもとで、煉瓦の文化は、セメントの文化へ、移行していることを裏付けていると見てよいだろう。

 このように、近代文化は、二千年以上に続いた煉瓦の文化を後ろに追いやり、セメント文化の繁栄を招いたのだ。



 次に、「南稲北麦」の境界線が、どの辺にあるのかも興味の対象であった。

 この言葉は、稲作が水利に依存することからみて、「南船北馬」の語とも共通する側面をもつ言葉である。

 今回の旅では、南京ー徐州間を列車で移動することになっていたので、その境界が、どの辺にあるかを見極めることができると期待した。

 勿論、一つの線上での推定なので、厳密な意味で言い切ることはできないが、大凡の傾向として位置づけられたらよいとの判断だ。

 南京の栖霞山水泥廠への往復で、豊かな農村風景を目にした。この付近は稲作農家で、農家の庭先で、日本の農村と同じように、収穫の終わった稲の脱穀を行っている姿なども目にした。このことからも、南京付近は稲作地帯であることが明らかだ。

 また、日中戦争初期に上演された「麦と兵隊」と題する映画の主題歌の歌詞に、「徐州徐州と人馬が進む、・・麦畑」とあるように、徐州付近は、麦作地帯であることも明らかだ。

 したがって、徐州ー南京間に、「南東北麦」の境界線があると見て差し支えないと予想して、徐州に向かう列車の車窓から、田園風景の変化の観察を怠らなかった。

 列車は、南京浦口駅をでて、間もなく安徽省に入り、嘉山、ワーフー蛙埠、宿州と停車を繰り返す。

 この間、はじめは、水田主体の景色が車窓から眺められたが、列車が蛙埠を過ぎるあたりから、水田が少なくなり、徐々に麦作地帯になって行き、次の停車駅の宿州では、水田は完全に消えていた。

 地理的に見て、蛙埠は、海岸から約三百キロほど入った内陸部にあり、ほぼ北緯三十三度に位置しているので、一応、内陸部の「南稲北麦」の境界は、北緯三十三度あたりといって差し支えないのではないか。

 これより北は、麦作地帯で、耕地が延々と広がる。車窓からその情景を眺めながら、「徐州徐州と人馬が進む、・・」の歌を口ずさむと、果てしない大陸を汗にまみれて、黙々と歩く陸兵の姿が二重写しのように頭の中に浮かんた。

 この間の農村風景で、所々の丘に、松などの針葉樹が無作為に生えているにの気がついた。植林したというよりは、自然に生えたという感じで、国土を有効に利用している日本人の感覚からすれば、勿体ない土地の利用の仕方だ。

 北京で、国家建築材料工業局を表敬訪問したとき、科学司長の陶明さんが、中国は木材の供給が少なく、建築関係の資材として木材を使うことができないので、必然的にセメント依存の体系ができていると述べていた。

 安徽省のような温暖な地域において、計画的な植林が行われていないことから考えて、現在の中国に、果たして木材の供給を増加させる政策が採られているのか否か、はなはだ疑問に感じた。

 平地は、農作物の耕作に、耕作に適さない丘陵地等は、植林を行うことにより、木材の供給源にする思想はないものだろうか。

 もっとも、植林してから、木材として利用できるまで、最低五十年の年月が必要だ。その間は、労力の投入だけで、金銭的なリターンは一切ない。目先の利に目を向ければ、植林などを行う者はでてこないだろう。

 日本の現状も若干これに似た現象がでているが、それでも、丘陵地を含め山岳地帯は、緑に覆われ、計画的な植林の努力が認められる。

 中国の現在のような姿が、何時頃から定着したのだろうか。秦の始皇帝が、万里の長城を建設するとき、大量の土煉瓦を焼くのに、木を伐採し、それ以降中国から緑が消えたとの説がある。この説の真否は別にしても、このような説が流布されていることを考えると、中国において、植林という概念は、伝統的に低いと見てよいのではないか。

 飛行機の機中からは、時間と天候関係で、地上の風景を観察することは、難しかった。

 その中で印象に残るのは、北京ー南京へのフライトで、北京空港を飛び立った直後、限りなく続く地平線の彼方に沈む、夕日を遠望することができた。

 表日本に住む日本人にとって、水平線から昇る朝日を目にすることは珍しいことではないが、夕日は山に沈む光景しか見ていない。逆に裏日本に住む人は、太陽は、山から登り、海に沈むことになり、日本に住む限り、限りなく広がる地平線に太陽が沈むのを、見る機会はない。

 その意味において、地平線に沈む夕日を見ることは、私にとって貴重な経験であった。これも、旅のつれづれの中で、周囲の景色を眺める習慣の余得といえるのかもしれない。


*  *  *

「あとがき」

 今回の中国訪問は、約十年の空白期間をおいた訪問であり、かつ、改革開放を標榜する経済政策が強力に推進されている過程であったため、北京空港におりたってから、最後の広東空港を飛び立つまでの二十五日間は、「中国は変わった」という言葉を検証する毎日であった。

 北京空港から市内までのアクセスは、牧歌的な雰囲気が漂う並木道から高速道路に変わり、市内に入れば、車社会への仲間入りを象徴するような交通渋滞に何度も遭遇した。

 車社会への移行の影響は、大都市の大気汚染を引き起こしており、北京の空も、初秋にもかかわらず、澄み切った秋空という表現からかけ離れたものとなっていた。

 鉄筋コンクリート製の巨大なテレビ塔、都市計画の一環として建てられた高層アパート群などは、古来からの「煉瓦の文化」から「セメントの文化」への移行の象徴として目に映った。

 今回の旅が、インフラ整備に不可欠なセメント産業のエネルギー使用状況を調査することを目的としたため、経済開発区ないしはその近傍にあるセメント工場を訪問する機会に恵まれた。そのためもあって、急激に変わろうとしている中国の一側面をつぶさに観察することができた。

 また、全行程に約三十五パーセントが、鉄路、道路を利用する移動であったため、点と点を結んだ線として観察する割合が多かったことも、変わり行く中国についての知識の収集に大きく寄与しており、私にとって幸いであった。

 さらに、この数年、「孫子」についての研鑽を積み重ねており、それに関連して、中国の春秋戦国時代の歴史を紐解くことが多かったのも、団長として、訪問先の幹部との相互理解を深める上で、役立ったと自負している。

 先に述べたように、出発前、訪問先の選定、それに伴うスケジュールの設定等に手間取ったが、北京入りしてから後は、非常にタイトなスケジュールであったにもかかわらず、諸事万事順調に推移し、予定通りの調査を終えることができた。

 これも偏に、省エネルギーセンター始めとする日中の関係機関の支援と、中国における詳細なスケジュール作成に当たられた日中経済交流協会の協力、さらには調査に当たった団員の努力とこれを支えた有能なる通訳の協力の賜であり、これら関係者に深く感謝する次第である。


(「中国水泥の旅」 了)

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蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 十四 おしん

2010/05/06 09:18
 訪問先の会食などの席で、中国女性の話がよく話題になった。その際、必ず男性の口からでる言葉は、「中国女性は強い」という言葉である。

 解放後の中国女性というと、追放された四人組の一人である江青女史が、裁判の場で大きな声でがなりたてている姿を連想し、私の頭の中には自己主張の強い女性像が形成されていたので、中国男性の言葉の裏の意味が一応理解できるような気がした。

 戦前の中学で習った東洋史の教科書の中には、中国女性の纒足(注一)についての記述があり、纒足をしている女性は、一人歩きができないという説明を受けたことを覚えている。

 当時の中国女性がすべて纒足をした訳ではないだろうが、比較的富裕階級に属する女性には、その習慣があったのは事実であり、一面からみると、この習慣は、女性の自由な行動を抑制し、女性を男性の所有物として隷属させている意味を持っているとみてよいだろう。

 その反面、長い中国に歴史の中では、幼帝を擁し、政治を専断する后妃の例も多くあったのも事実だ。その典型は、清朝末期の西太后であり、同治、光緒の二代にわたって、摂政として権勢をふるっている。

 その間、自己の主張を貫くため、改革を志向する同治帝を幽閉し、また、自己の趣向を満たすため、アヘン戦争で破壊された頤和園の復興に、海軍予算を流用するなどの専横の事実が残されている。

 この二つの女性の生き方は、一見矛盾するように見えるが、案外纒足という古い因習の中に閉じこめられていた女性の本性が、周辺の束縛から解放されたとき、西太后のように、その本領が発揮されたと見てよいのではないか。

 戦後、中国本土が、中国共産党政権によって統一され、それまで家庭に閉じこめられていた女性が、社会の一員として、政治を始めあらゆる分野に、活躍の場が与えられ、それまで閉ざされていた本性が、前面にでてきたと見てよいだろう。

 その結果、共働きを前提とした家庭内においても、同権を主張するのは当然であり、男性は家事の一端を担うという羽目になっているようだ。

 今回限られた期間の訪問であったが、中国女性の職場での処遇は、日本より進んでいるようで、政府の役職者、企業の管理者ならびに中堅幹部とうの役職で活躍している女性が目についた。

 十年前、日本においては、男女雇用機会均等法が施行され、見かけ上、職場での男女対等な立場が保証されたが、一部を除いて、同等な昇進などが実現されていない現状なので、中国の女性の社会的地位は、遥かに固まっていると見てよいだろう。

 その反面、瑠璃河水泥廠の副工場長の姜徳文さんの言によれば、政府は従業員を採用する場合、男女同数になるよう指導しているが、使用者側からみれば、能力的にも、作業能率からみても、明らかに男性の方が使いやすいといっていた。

 表面的には、男女同権が定着しているやにみえるが、細部にわたって眺めるとき、様々な問題を抱えているのが現状といってよいのではないかと思われた。

 今回の水泥グループには、通訳を含めて四人の中国人が同行した。そのうち一人は国家建築材料工業局の役人であり、女性のB女史と男性のRさんが、それぞれ手分けして三工場に同行した。

 残りの通訳三人は、男性一人、女性二人で、B女史が同行した場合には、中国勢は女性三人、男性一人と女性優位の集団になった。

 旅行の途中で、何か中国側に問題を投げかけると、四人の間で、わいわいがやがやの話し合いが起こるのが常であった。そのような場合、女性といえども黙ってはいない。一歩も引かずにしやべりまくるといった姿を横から見ていると、中国女性は強いということをひしひしと感じさせられた。

 特に、B女史は、一言いうと、二言返すといった調子だ。中央政府の役人であるという立場もあって、B女史を如何にうまくコントロールするかが、私の責務であると思って、B女史対策を絶えず頭に収めながら、旅を続けた。

 幸い、大きなトラブルもなく、予定通りスケジュールをこなせたのも、一つには、女性コントロールの成果かと自己評価している次第である。

 淮海水泥廠の幹部との会話の中で、突如として「おしん」の話が話題になった。そのときの通訳は男性のBさんで、初めBさんの口から「おしん」という言葉がでたとき、それが何を意味するか、判断できなかったが、テレビの「おしん」と注釈がついたので、NHKの朝のテレビドラマの「おしん」であることがわかった。

 今回の旅にでる前に、新聞紙上で、テレビが普及し始めたベトナムで、「おしん」ブームが起こっていることは知っていた。そういえば、数年前、中国で「おしん」ブームが起こっているという話も、新聞かテレビで報道されていたのを思いだした。

 要は、彼らはテレビで描かれている「おしん」を、現代の日本女性の姿だと誤解しているようで、彼らの口から「おしん」を賞賛する言葉がでてくる。

 また、その「おしん」を通じて、苦境にもめげずに男性を支える日本女性、その女性を妻に持つ日本の男性は幸せだという論法だ。

 明治は遠くなりにけりの現在、今の日本では、明治女の「おしん」は望むべくもない過去の姿だ。

 昭和一桁の私どもの世代でも、「おしん」を地でいく味わいを経験した人は、希有に等しいのではなかろうか。ましてや、戦後世代が中堅として活躍する現代では、「おしん」は物語の上での虚像であろう。

 中国側の日本女性の虚像を打ち消すため、必死になって現在の日本の状況を説明した。

 初めに、約四十年前、「戦後強くなったのは、女と靴下」という言葉が流行したことをあげた。新憲法のもと、男女同権が唱われ、国会にも女性の進出し、女性の目覚めが話題になった。その言葉は、そのような社会的背景のもとで流行した。

 さらに、年を追うごとに、女性の高学歴化が進み、高度成長とあわせて、女性の活躍する職場が広がり、収入増につながった。

 最近の傾向として、女性の婚期が高年齢層になっており、キャリアウーマンが増えてきていること、結婚しても共働きを継続するケースが増えており、必然的に、女性の経済力が強くなっている。

 「おしん」の時代、家庭の女性は、経済的には夫に依存しており、家庭を守ることに専念しており、一面からみれば、夫に従属する存在であった。

 他の側面からみると、陰になって家庭を支える存在であり、子女の教育を始め、家庭内の雑事すべて処理するという責務を担っていた。そのため、夫婦で内外の役割をうまく分担して、日本的な家庭を形成してきていた。

 女性が経済力を手にして現在は、日本の家庭に実態は、中国の家庭をほぼ同じような状態になっており、「おしん」のような姿は、すでに昔話であることを説明した。

 以上のような説明が終わると、彼らは、一応日本の現状を納得したような表情になったが、それでもまだ彼らの頭の片隅には、「おしん」の姿を払拭できずに残っているような感じがした。

 徐州での「おしん」問答がきっかけになって、日中両国の女性観について、私なりに考えてみようという思いが湧いた。

 男女同権、共働きの家庭とう、現在の両国の社会環境は、ほとんど酷似しているといってよいだろう。だが、日本の女性が強いといっても、見た限りにおいて、中国女性ほどの強さではないようだ。

 では、その差はどこからくるのか。私には、国民性の違いが、その差に影響しているように思えてならない。

 要は、中国人は自己主張が強い。当然、このことは女性についてもいえる一つの国民性といって差し支えないようだ。その一つの帰結として、自分の存在を他にアッピールすること繋がる。

 例えば、何かことがあった場合、男女のいずれかが表に立つかを考えると、日本の場合は、当然ことながら、まず男性が矢面に立つ。これに対して、中国の場合は、男女の別なく意見を述べる。

 ・博での経験であるが、北京の旅行社の指示不徹底から、ホテルをでるとき、現地の旅行社の係員と調査団との間で、当日の夜、マイクロバスでどこまで調査団を送るかが問題になった。

 詳細スケジュールについては、庶務担当のS女史に任せてあったので、その内容を確認した後、男性の通訳であるBさんに内容を説明し、旅行社の係員との交渉に当たらせた。 暫くBさんが旅行社の係員と話しているうちに、その話しの中に、女性通訳二人が加わった。中国語がわからないので、横から見ていると、四人がそれぞれ、しやべりまくるという感じで、なかなか話しが終息しない。

 Bさん一人で何でことが足せないのか、不思議でならない。もし、Bさんの説明が悪ければ、日本流では、他の二人がBさんにその旨伝えて相手と交渉するというやり方を取るが、中国流では、男女の別なく各自が各々、自分の考えを主張するようだ。

 こんなことからも、中国女性の強さが伺えるた。


注一 昔、中国で婦人の足を大きくしないために、布を堅く巻きつけておいた風習。


※明日は別の方のお手紙をご紹介いたします。

※「中国水泥の旅」はまだまだ続きます。

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蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 十三 亡流とカラオケ

2010/05/04 07:49
 北京で、私に旅行スケジュールを聞いたEさん(注一)が、南に行くほど治安が悪く、特に広州では厳重に注意した方がよいと助言してくれた。

 それまでは、改革解放といっても、社会主義を標榜する政治形態のもとで、犯罪に対する刑罰は重く、治安はよいとの先入観をもっていたが、江夏さんの一言を聞いて、それまでの観念を改める必要を感じた。

 特に、広東省の二工場を訪問するとき、中国勢を含めた九人の調査団のうち、女性が四人になるので、女性を重視した治安対策を講ずる必要があった。

 そのため、南京へ向かう空港で、以後、原則として夜間の単独外出と女性の一人歩きを厳禁すると宣言した。

 若干先走った感はあるが、この禁止令は比較的よく守られ、南京ではRさんが大学の同期生との懇親のため単独行動したとき、また済南でR女史が実姉の家庭の訪問したときには、事前に私の許可を求め、ホテルの帰ったときには帰着した旨を連絡をするといったルールが定着し、団の秩序維持に役立った。

 そのような措置を講じながら、私自身、広州には入るまでは朝の散歩はかかさず続けたが、それなりの注意は怠らなかった。

 十一月九日に、済南から空路広州へは入った。広州は入るに先だって、済南のホテルで、禁止令の再確認を行うとともに、私自身も、周辺状況がわからない限り、朝の散歩を中止することにした。

 広東省には、経済特区として深◆、珠海、汕頭の三都市があり、また、その州都広州市は、経済開発区に指定されており、その地域一帯は改革解放の最先端を行き、上海と並んで経済的に活性化された地域といえる。

 そのため、その地域には、農村より職を求めて多くの中国人が集まるが、職にあり就けない人達が、流民のような形で、広州駅周辺に溢れている。これらの流民は、「亡流」と呼ばれ、その状況はNHKの報道特集でも放映されている。 

 私もその姿を映像の上で見ていたが、その姿を目にするまでは、実感として受け止めることができなかった。

 広州へ入った翌日、ホテルから広州水泥有限公司へ向かう途中、マイクロバスの窓から、広州駅前での亡流の一群が駅前に屯している姿を目にした。また、駅周辺には、職にあり就けない人達が、三々五々屯していた。

 初めてこの異様な光景を目にしたとき、改めて、Eさんの言葉を思い出すとともに、Eさんのいう広州の治安の悪さは、街に溢れた亡流が、悪に走る結果と思うに至った。

 その後、茂名への列車での往復に、広州駅を利用した。駅前広場が、亡流の群で占領されているので、マイクロバスが駅の正面玄関へ近寄れない。少し離れたところでマイクロバスを降り、駅前に屯する亡流の群を縫って、正面玄関へ移動したが、一人であったら、とてもじゃないが、その異様な感じのする群の中を突っ切って行く勇気はでてこない。

 九人が一団となって、その中を乗り切る格好で突き進み、駅構内には入ったが、駅構内も人の群で埋まっている。

 何とか、軟座車の待合室を探して、落ち着けたが、相当緊張した一時であった。

 駅周辺の状態は事前にある程度予測されたので、茂名二泊に必要な荷物以外は、広州のホテルに預け、各自手荷物二つ程度に絞り込んでいた。そのため、広州駅前の亡流の群の中をなんとか乗り切ることができたが、もし大きなトランクを転がしながらの移動であれば、若干のトラブルに逢着したかもしれない。

 正確な情報とそれをもとにした適切な判断で、駅前の難事を無事に乗り切ることができた。

 広州水泥有限公司は、広州駅から二・三キロ離れた街中にある。そこでの二日間、昼食は近くの中国料理店で会食したが、広い食堂には、溢れるばかりの人達が昼食を楽しんでいた。

 さらに驚くべきことは、昼間から、ステージの上で、カラオケが歌われており、駅前の亡流の姿からは、想像もできない世界が広がっていた。

 そこで見られた経済成長の恩恵に浴している人達の楽しむ姿を、現在の中国の陽の部分とすれば、駅前の亡流の群は、陰の部分に対応するといって差し支えないだろう。

 伝聞になるが、B女史の言によれば、最近の中国では、「北京の亭主は勤務が終わると真っ直ぐ家へ帰って、家事を手伝うが、広州の亭主は勤務を終えると、夜の街へでる」といわれているようだ。これは、すべての広州の男性に当てはまるわけではないが、企業の幹部クラスの日常を例えていると見てよいようだ。

 もつとも、中国女性は強いので、亭主がプライベートに夜の街へでるのは、夫婦そろって、晩餐を楽しむためであり、男同士で飲み明かす日本とは若干異なっている。

 だが、男がプライベートに夜の街へでることだけではないようだ。その場合は、経済発展に伴う夜の商談が、主な目的で、ここでは日本流の商法が流行している。

 いずれにしても、亭主が真っ直ぐ帰宅するケースは少なく、夜北京から用件を打ち合わせるため、相手の自宅に電話しても、不在である場合が多く、携帯電話が企業幹部の必需品の一つになっているようだ。

 夫婦の夜の街でのお目当ては、食事ばかりではなさそうだ。百貨店なども夜の十一時頃まで開いており、経済成長で潤った財布の中身が、ご婦人の嗜好品へ形を変える格好の場を提供する仕組みが形成されている。

 経済開発区での昼夜を分かたぬカラオケ、それに対照的な亡流の群、広州で見かけたこれらの情景は、改革解放路線の進められている現在の中国が抱えている大きな問題を示唆いるようだ。

 深◆、珠海、仙頭の三つの経済特区、そこは経済的な租界であり、外貨獲得の拠点である。そのために、外国企業に多くの特典を与え、その地域に出入する中国人に厳しい制限を課している。また、そこで働く中国人は、若年の女子労働者でも、一ヶ月の所得は、地方の農家の一年の所得に匹敵するともいわれている。

 経済開発区は、経済特区ほどの特典はないにしても、外資ならびに外国技術の導入窓口の機能を担っている。そのため、北の大連から南の海南まで、沿岸地帯の主要都市がその指定を受けている。

 当初は、経済開発区での経済成長を、内陸に及ぼす効果を狙っていたようだが、その指定後十年を経過した現在、農業だけに依存する内陸部と工業ならびにそれに伴う商業が中心となっている経済開発区との格差は、予想以上に広がり、早急に開放政策の調整の必要が迫られている。

 そのため、現在、武漢・重慶などの長江流域の開発が急務として取り上げられているが、広大な国土を、経済的にバランスよく発展させることは、不可能に近く、地域格差の縮小は、中国での社会主義市場経済の今後の大きな課題の一つといえよう。

 その意味で、広州での知見、「亡流とカラオケ」は、現在の中国経済を象徴する言葉といってよいだろう。



注一 元M社の社員で、筆者の知人Y氏の紹介で、北京での観光にお世話になった方。

◆ 「つちへん」に川  

※「亡流とカラオケ」了

※次回は別の方のお手紙をご紹介いたします

※「中国水泥の旅」はまだまだ続きます

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蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 十二 二つの世界

2010/05/02 09:48
 徐州から●博までの移動は、徐州ー済南間を列車、済南ー●博間をマイクロバスで行くよう計画されていた。
 徐州西駅に着き、ホームに出ると、そこにはサーモンピンクの瀟洒な車体の列車が、私たち待っていた。
 その車体の横の標示板には、徐州発青島行きの特快と記されていた。

 この列車の始発地点の徐州は、食品加工を始めとする産業分野で発展の著しい淮海地区の中心都市であり、終着地点の青島は、経済開発区の中心都市である。この二つの都市を結ぶ路線の利用者は、外国人を含む経済活動に関係する人たちが多く、この路線への新型車両の投入も、これらの利用者を考慮したものといわれている。

 新型車両の軟座車は二階建であり、乗客の数も少なかったので、四人掛席を一人で占領するという快適さであった。
 列車の車窓から眺める沿線の風景は、広大な畑が延々と続き、野菜を含む穀倉地帯という感がした。

 快適さの中で、ふと頭を掠めたのは、目的地の●博は、青島行きの列車の途中駅であり、済南で下車せずに、そのまま座っていれば、楽に●博まで行ける筈だという疑問であった。

 だが、そのときになって、スケジュールを変更することは出来ないので、やむを得ず済南で下車し、快適な軟座車と別れる羽目になった。

 済南駅では、若干の混乱があったが、赤帽に荷物をかつがせ、駅舎を離れ、迎えの旅行社の係員と落ち合うことができた。

 マイクロバスは、済南駅を後にして●博に向かったが、駅周辺から主要道路へ出るまで、狭い道を右往左往する有り様であった。

 旅行社の係員は、言い訳のように、●博の旅行社なので、済南は不案内であると言い、なんで●博で降りるよう計画しなかったのかと、逆に文句を言う始末だ。常識的に考えて、私と同じ疑問を口にしたのだ。

 やがて、車は市街を抜けて、道幅の比較的広い道路を一路東に向けて疾走した。暫く走ると高速道路の標識が目についた。旅行社の係員は、●博まで高速道路を利用すると説明した。

 高速道路は、北京で瑠璃河水泥廠への往復に利用したが、済南ー青島間にも敷設されていたのだ。この道路も比較的最近に作られたようで、アスファルト舗装がまだ黒々としており、車の数の少なく、その上をマイクロバスは一路●博に向けて疾走した。

 比較的平坦な周辺の畑には、収穫を待つ野菜が青々と続く。その畑の中に、煉瓦工場が点在するのも、中国の農村風景の特徴といえよう。

 そのうちに、勝利油田の周辺に広がる石化工場群が見えた。中国の近代化の波は、沿岸から内陸へ向けて、徐々に広がっている感じだ。
 高速道路を一時間近く走ったとき、旅行社の係員から、近くに車馬坑があるのでよければ案内すると申し出があった。
 旅行に出発する前、旅行案内で、●博は周の時代、斉の都として栄えたところで、その周辺にはその時代の遺跡が多いとことを知っていた。

 斉は、周王朝二代目の武王が商を滅ぼして天下を統一したとき、有名な太公望呂尚が封ぜられた国であり、紀元前三七九年、斉の康公が亡くなるまで、約五百年呂尚の子孫がその国を治めている。

 また、「孫子」の著者孫武も、斉に生まれたといわれており、私にとって歴史的にも興味のある土地柄である。
 
 ホテルまでの行程の中で、斉に関係する遺跡が見学できればこれに越したことはないので、その提案には、私は諸手を挙げて賛成であるが、一応、日中の同行者の賛否を聞いてみると、幸い同行者全員賛成なので、車馬坑の見学という予定外の好運をつかんだ。

 車馬坑は、●博の東にあるので、●博を行きすぎることになるが、時間的にも夕暮れまでには十分余裕があり、途中四王塚(注一)を右手にみながら、広々とした野菜畑の中を車は進んだ。

 やがて、車は高速道路を降り、一般道路には入った。一般道路には入ってまもなく、臨古車博物館と書いてある大きな標識のある建物の前で止まった。

 高速道路を背にした真新しい建物、その入り口にある標示板には、博物館は二ヶ月前の九月に開館したもので、その中核となる車馬坑は、中国の古代遺跡の中で、十指の中にはいる貴重な文化遺産であることが記されていた。

博物館は、車馬坑と古車に関する展示物より構成されている。古車に関しては、夏の時代から始まって、清の時代にいたるまでの間、中国で使用されていた車の複製品が展示されていた。

 その種類は、王侯の乗り物、戦車、人物往来に使用した乗り物等であり、その変遷を理解できるよう年代順に展示されていた。

 この中で、王侯が使用した乗り物は、時代とともに、華美になっており、王侯の外出時、その権威を誇示することを意図したことを伺わせるものがあった。

 春秋戦国時代に人物往来に用いられた乗り物は、一頭立ての馬車の形式で、その展示物の前に立ったとき、R女史は「孔子はこれに乗って、諸国を行脚した」と説明したので、私は、すかさず「就職運動に走り回った」と言い返した。

 私の言葉を聞いて、R女史は怪訝な顔をして、私の顔を見つめた。恐らく尊敬すべき孔子の尊厳を傷つけた私の言葉に無言の抵抗を示したのではなかろうかと思え、はしたない発言を反省したという一幕もあった。

 博物館の順路は、展示物を見た後、地下室に降りて、車馬坑を見るよう設定されていた。
その順路にしたがって、地下室に降りると、斉の王族の墓の副葬品の一つであろうと思われる複数の戦車と数頭の馬のミイラからなる車馬坑が発掘したままの状態で展示されていた。

 展示物全体は、その周囲を大きなガラスケースで覆い、フラッシュなどを用いた撮影を厳禁するという注意書きが掲示され、その状態の保存に意を用いていることが伺えた。

 春秋時代に書かれた「孫子」に、戦争を行うには、「馳車千駟、革車千乗、帯甲十萬」(注二)の準備が必要であると書かれており、この車馬坑の戦車は、孫子に書かれている馳車に相当する戦士三名を乗せる四頭立ての馬車と推定される。

 この車馬坑は、一九九○年、高速道路の建設中に偶然発見されたものであるが、このような開発に伴う古代遺跡の発見は、日本でも同様な状況にあり、地方での宅地開発、工場団地の造成の際、多くの考古的な発見が続いている。

 車馬坑の見学を終え、一階への階段を上ろうとするとき、Rさんが肩を叩くので、振り返って、彼の指さす地下展示室の天井の一隅を注視すると、そこの壁の一部がガラス張りになっており、外を眺められる構造になっていた。

 ガラスを通して見られるのは、何と高速道路の路面であり、そこを疾走する車が目の中にはいってきた。
 古車博物館の建設に当たって、高速道路は当初の計画通り建設を進め、発掘された車馬坑は、地下でそのまま保存するよう配慮した構造になっていた。

 その結果、地下展示室は、その一部が高速道路の真下に位置し、地下は二千数百年前の車馬坑、地上は現代の高速道路、この新旧二つの世界が同時に眺められるという心憎い場面を提供している。

 車馬坑の見学を終え、中国人も味なことをするなという思で、夕暮れの古車博物館を後にして、●博のホテルに向かった。

 ●博のホテルについて、その一日を振り返ったとき、もし徐州から青島行きの特快で、済南で降りずに●博まで直行すれば、高速道路も利用できず、古車博物館を見る機会もなかった筈だ。

 「急がば廻れ」の諺があるように、回り道にもいろいろな経験を積むよいチャンスが潜んでいるものだとしみじみと感じた一日であった。


注一 斉の四人の王の墓といわれている。
注二 孫子作戦篇第一段の記述で、馳車は戦闘用の軽車、駟は四頭立ての馬車、革車は
 輜重用の重車、乗は兵車を数える単位。

 ● 「さんずい」に、輜の旁


(「二つの世界」 了)

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蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 十一 禁煙

2010/04/29 09:12
 二三十年前から、タバコを吸わない外国人男性が多くなっている。特に、技術系の外国人の喫煙者は少ないので、外国出張中、他の機関を訪問するときは、儀礼上長時間禁煙をせざるをえないような羽目によく遭遇した。

 だが、中国人は、比較的喫煙者が多く、前回の訪中時でも、タバコを吸えなくて、我慢した記憶はない。逆に、応接室ないしは会食などの席には、テーブルにタバコが用意されていることが多く、タバコも会話の中の話題の一つになるほどであった。

 タバコといえば、中国タバコが高級になったのも、顕著な変わりようの一つかも知れない。
 前回の訪中時は、あまり中国タバコを吸う機会がなかったが、鞍山で手持ちのタバコが無くなったので、やむを得ず街頭で中国タバコを購入したが、比較的ソフトなタバコに慣れている私にとって、強くて苦いという印象が未だに残っている。

 今回の場合、期間も長く、会食の機会も多かったので、行く先々で、中国タバコを勧められる羽目になった。前回の経験から、始めは儀礼的に一本ふかす程度にしていたが、味が比較的ソフトになので、そのうちに、訪問先では、私の持っているタバコを相手に勧め、自分では勧められた中国タバコを吸うようになった。

 その中でも、「長城」が割合多く用意されていたように記憶するが、味は、かなり柔らかくなっており、苦いという感じはしなかった。このような中国タバコの味の変化は、日本を始めとする外国からの技術導入の結果といわれている。

 タバコの種類には、特に注意しなかったが、かなり多くの種類のタバコが販売されており、それに外国タバコが加わるので、日本より選択の幅は多いように感じられた。

 値段も、「長城」は、十元以上の値が付いており、外国タバコ並みの値段となっていた。 淮海水泥廠での話の中での、中国の最高級のタバコの値段が、四十元もしていることを知った。それは、浪琴で製造されている「東渡烟」というタバコである。浪琴は、奈良時代の僧鑑真の出身地で、鑑真が日本へ渡ったことに因んで、その名も「東渡烟」と名付けられたとのことであった。さらに、このタバコは、鑑真が日本へ船出した港である張家港だけで販売されているとのことであった。

 だが、タバコ飲みにとって問題なのは、最近の中国で、シンガポールほどではないが、喫煙禁止の場所が多くなっていることである。

 空港、鉄道の駅などの公共の人の集まる場所は、ほとんど禁煙区域といってよい。また、タバコの投げ捨ても禁止されており、喫煙する旅行者にとっては、要注意の国の一つであるといえる。

 二・三年前から、日本でも、JRの駅構内では、所定の場所を除いて、原則として禁煙になっているが、依然として、所定の場所以外で喫煙する人が跡を断たない。こうなると、駅構内の禁煙のルールは、指導要領程度の軽さでしかない。

 これに対して、中国では、禁煙区域での喫煙ならびにタバコの投げ捨ては、見つかれば罰金が課せられ、その適用は厳重に行われている。

 空港の禁煙区域は、建物に一歩入ると、そこから禁煙区域が始まる。ほとんどの国では、空港の建物の中でも、出発ロビーまでは、喫煙可能になっているので、建物に一歩はいると禁煙というルールは、相当厳しいルールといえる。

 北京から南京へ、旅立つとき、同行する国家建材工業局のRさんと北京空港で待ち合わせたが、建物内が禁煙区域なので、建物の外で、二三のメンバーと喫煙していると、タクシーから降り立った劉さんとぱったり目を合わせる羽目になり、探す苦労がなく、順調に再会することができた。

 これが、建物内で待っていたのであれば、人混みの中から、人を探すのには、相当注意が必要な筈だが、たまたま、建物外で、喫煙していたため、容易に劉さんと出会えた訳だ。怪我の功名というような話だ。

 中国の国内航空の場合、機内は全席禁煙である。
 今回の旅行では、北京ー南京、済南ー広州間を国内航空のご厄介になったが、このうち済南ー広州間の飛行時間は、約三時間で、新幹線「ひかり」の東京ー大阪間の時間に匹敵し、その間の禁煙には、若干閉口した。
 だが、厳しいルールにかかわらず、その禁を犯す者がいるのは、どこの国でも同じだ。済南ー広州間のフライトで、洗面所で、喫煙していた一人の中国人がいた。

 それは、丁度長江上空をすぎた頃であった。後部に二つある洗面所の一つがいつまで経っても空かないので、洗面所を使おうとする人の列が後部通路に長々とできた。

 並んで待つ乗客の一人が、待ちきれなくなって、スチューアデスのそのことを伝えたら、美人のスチューアデスは、声高に怒鳴りながら、長時間使用状態になっている洗面所のドアを幾度となくノックした。

 中からなにがしかの応答があったのだろうが、中国語の解らない私には、どんなやりとりがあったか見当がつかないので、一体何が起こったのだろうかと怪訝な気持ちでその推移を見守った。

 二・三分スチューアデスは、甲高い声を出してその動作を繰り返した後に、洗面所のドアが開いて、屈強な男の中国人がでてきた。

 その男が席に帰るとき、スチューアデスは男の後を追った。男が席に座っても、その男との間で詰問調のやりとりは続いた。

 私は、その男の二列後ろの席に、R女史と並んで座っていたので、隣のR女史に、男とスチューアデスの会話の内容を質したところ、前の席の男が洗面所でタバコを吸っていたので、スチューアデスが、罰金を払わせようと、奮闘しているところだとの答が返ってきた。

 やがて、両者のやりとりも終息した。スチューアデスのまくしたてる剣幕の前では、屈強の男も、兜を脱いで、財布から取りだした五十元を、スチューアデスに渡し一件落着した。

 規則とはいえ、強い中国女の一面を見せつけられる一幕であった。
 鉄道の場合は、空港より若干その適用は緩やかなようだ。南京浦口駅での経験であるが、待合室は禁煙区域になっているが、待合室を一歩でると、廊下では喫煙可能になっていた。また、プラットホームは、喫煙可能であり、その扱いは空港とは若干異なるようだ。

 列車内は、原則として、座席では禁煙であるが、連結部は、一部例外を除いて、喫煙可能であった。
 例外は、徐州ー済南間の二階建て軟座車で、連結部と座席との間を、完全に仕切る構造になっていないのが原因のようだ。

 徐州ー済南間は、約四時間、特快であったが、途中五回ぐらい停車したため、停車するたびに、プラットホームに降りて、タバコを吸ったので、長時間の禁煙にはならなかった。

 また、寝台列車では、日本の寝台車と同様、通路は喫煙可能であり、約八時間程度の旅であったが、特に不便を感じなかった。

 苦労してまで、タバコを吸う必要はないのではないかという見方もあるが、団員の男性四人すべてが、ヘビースモーカーで、お互いに厳しい禁煙ルールを犯さないよう気を使いながら二十五日間を過ごした。

 帰国を翌日に控えた広州のホテルで、B女史へのお別れの挨拶の中で、ヘビースモーカー四人で、中国の大気の汚染を加速したことを丁重にお詫びし、旅の結びの言葉とした。


(「禁煙」 了)

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蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 十 どこでも料金

2010/04/28 07:55
 改革解放に伴い、社会主義市場経済の道を辿っている中国では、種々の側面で、かっての秩序が見直されている。

 従来無料で開放されていた様々な施設が、有料化されたのもその一つの現れであろう。前回の訪中時には、ほとんどの観光施設は、入場料を徴収していなかったが、今回は、故宮博物院をはじめ、訪れたすべての観光施設で、入場料を支払わされた。

 有料化は、観光施設ばかりではない、街中の小さな公園も、入園料を徴収しており、気軽に立ち寄る憩いの場ではなくなっていた。

 また、有料便所が目につくのも、中国は変わったことの一つにあげられる。従来、中国でホテル以外の場所で、便所を利用するにには相当抵抗を感じたものだが、天壇公園、頤和園などの観光施設内の新設された便所は、有料化されていたが、形式ならびに清潔さからいって、世間並みの体裁を整えたといって状態にあった。

 さらに、高速道路はともかくとして、茂名では、街中の一部の道路を有料化しており、それを道路補修の財源としているところもあった。

 こう見てくると、理由がつけば、料金を徴収するといった感じで、まさに「中国は変わった」との実感をしみじみと感じた。

 次に、観光施設ならびに公園の料金に絡むいくつかの話題について、述べてみたい。

 北京といえば、故宮博物院が第一の観光名所だ。前回すでに一度見学していたが、広大な史跡を種々の側面から眺めることも有意と考え、今回は、二度見学の機会をもった。

 そのうち一度は、同行者が入場券を用意してくれたので、特に気がつかなかったが、二度目に三名の男性の団員と一緒に訪れたときは、入場券売場の前で、料金表を見ながら料金を確認し、入場券を購入したので、その仕組みをよく知ることができた。

 まず気のついたのは、入場券売場の窓口が二つに分かれていたことだ。その一つは中国人、他の一つは外国人用で、料金も中国人は五元、外国人は六十元と表示されていた。

 前回の訪中時、同行の媒炭工業部の李広文さんから、鉄道の運賃は、中国人を一とすると、帰国華僑はその二倍、外国人は三倍に設定されていると聞いていたので、故宮博物院の外国人の入場料に格差があるのは、理解できたが、中国人は五元に対して、外国人は、その十二倍の六十元であり、その開きが異常に大きいののには、ビックリさせられた。

 当時の為替レートは、一元約十二円だったので、故宮博物院の入場料を、この為替レートで換算すると、約七百二十円に相当し、日本における美術館の入場料とほぼ同等な金額になる。

 もっとも、故宮博物院の文化的な価値を考慮すれば、日本人にとって、一概に高いとはいえないが、中国での物価水準からみると、高いレベルの入場料といえよう。

 このほか、北京市にある史跡の入場料は、故宮博物院の六十元を最高とし、頤和園三十六元、天壇公園三十元、圓明園二十元であり、文化的な価値、史跡の規模によって、一応レベルが設定されているようである。

 これらの文化遺産の入場料の徴収は、その多寡を別にすれば、理解できるが、街中の公園でも、入園料を徴収されたのには、いささか戸惑いを感じた。

 日本において、朝の散歩を欠かさない私は、北京に着いた翌日から、ホテル周辺の散歩を励行した。

 北京での初日は、建国門外大街の表通りを散策したが、翌日は、散歩の途中、近くの日壇公園に立ち寄った。

 北京には、天壇、地壇、日壇、月壇の四つの祈年のための史跡があるが、天壇を除いて、他の三つには祈年殿などの建造物は残っておらず、旧跡は市民のための公園になっている。 そのときまで、街中の公園で入園料を徴収するなどと思っていたなかったので、気軽に立ち寄ったという感じであったが、日壇公園の場合は、午前六時より午後十時まで開園されており、その門前に入園券の売場が設けられていた。

 料金の表示を見ると三角と書かれており、小銭の中から一角紙幣三枚を取り出し、入園券を購入して中に入った。

 広い園内では、大小さまざまなグループが、朝の体操を行っていた。

 中国の朝の体操といえば、太極拳を想像するが、よく観察すると、太極拳の正統派は少なく、大多数はグループを作り、テープレコーダから流れる曲に合わせて、体を動かしている。言うなれば、ラジオ体操といったところであるが、グループによって、曲は様々に変わっており、エアロビックスまがいのものもあるという有様だ。

 この朝以降、散歩の途中で、必ず日壇公園に立ち寄ることにした。その結果、グループは公園内で定位置があるようで、毎日同じところで、同じグループが体操を行っていた。

 また、公園の入り口付近で見ていると、入園料を払わないで入る者、あるいは定期券まがいの物を見せて入る者などおり、中国流というような無秩序さが感ぜられた。

 一回三角の入園料は、額として少ないようであるが、毎日となると一ヶ月で九元となり、中国の物価水準からいって、軽視できない金額となる。そのため、グループ割引などの制度が設けられているのかもしれないと思った。

 街中の公園といえば、北京以外にも、徐州、広東、茂名で、朝の散歩の途中で立ち寄った。いずれの都市でも、公園の入園料を徴収することには変わりないが、その金額は、様々で、最高は広東の六角、最低は徐州の二角であった。

 入園料の設定は、各市の裁量に任されているのであろうが、日壇公園に比べたら猫の額のような広東の公園が、日壇公園の二倍の六角であり、入園料は公園の規模の大小というよりは、賃金水準なども考慮して設定されているようである。

 最近の激しい物価上昇の影響は、入園料にも現れている。

 帰国後、故宮博物院の入場料を、平成五年十二月に発行された中国旅行案内で調べてみると、三十元と書かれており、約一年間に入場料が二倍になっていることがわかった。

 また、徐州の公園の入園券には、一角と印刷されている金額を、朱印で二角と訂正されていた。

 さらに、北京の圓明園の場合には、入場券に金額が記載されておらず、入場券を更新せずに、随時料金を改定できるような考慮が払われていた。このことからも、公共料金といえる入場料・入園料に急激な物価上昇の影響が顕著にあらわれていることが窺えた。

 料金の徴収は、故宮博物院のように城壁でその周囲が囲まれている場合には、比較的容易である。すなわち、南北の二つの門を押さえれば、入場者全員から入場料を徴収することは可能である。

 これに対して、他の施設の場合、どんな対策を講じているかか、若干興味の対象となった。

 前回は、北京入りした日に、天壇公園を訪れたが、そのとき私どもは、天壇の西門前でマイクロバスを降り、そのまま西門から天壇公園には入った。西門に入ると、いきなり壮大な祈年殿が目に入り、鮮やかな紫色の瑠璃瓦の色彩に見とれたものだ。

 また、周囲なども特に塀を巡らしていなかったので、広々とした公園の中を、逆行するようなかたちで、祈年殿から、南門へと進んだ。

 今回は、天壇公園の南門前で車を降りた。門前には、入場券売場が設けられており、さらに南門には、服務員が入場券の確認を行っていた。

 入場料を払って、南門から公園に入ると、公園周辺には、柵が設けられており、南門以外から公園内に入れないような設備的な対策が施されていた。広大な公園全体を柵で仕切るには工事費も相当かかったと思われるが、柵で仕切ることにより、園内が非常に狭苦しいような感じに変わっていた。

 さらに、公園内を通り抜けることができなくなったので、南門から祈年殿への長い道のりを往復しなければならないという不便さも加わるなど、思わぬところに入場料徴収の余波が現れていた。


(「どこでも料金」 了)

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蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 九 電圧とコンセント

2010/04/26 08:12
 調査団に参加することを決めたとき、ノート型のパソコンを持って行くことを考えた。それは、旅行中に処理できるものは、なるべくパソコンで処理し、帰国後報告書の作成の負担を軽くしようとの意図からだ。

 そこで先ず問題になるのは、電源電圧だ。中国旅行案内などで調べてみると、ホテル等で使える電圧は二百ボルトなので、減圧トランスを持っていく必要がでてきた。

 やむを得ず、減圧トランスの調達を考えたとき、S女史からコンセントの形状がいろいろあることを聞いたので、コンセントの形状も十分把握しておく必要を感じた。

 そのため、秋葉原の家電製品の店頭ならびにデパートの外国旅行用品売場で、その形状を確かめてみると、驚くことに中国では各種様々なコンセントが使われていることがわかった。

 そうなると、今回の旅が、北京から広州まで中国大陸を縦断するため、ホテルでのコンセントがどんな形状使われているのか判断することも難しい状態だ。

 出発直前まで、減圧トランスとコンセントの問題に、結論をだせないでいたが、団として、現地で必要とする計測器などの共通の荷物を分担して持つことになったので、私は省エネセンターの所有するコンセント付き減圧トランスを分担して持参することにした。

 そのトランスのコンセントは、比較的中国でよく使われている形状で、以前中国で使った実績があるということなので、自分では特に用意しないことに決めた。

 パソコンは、北京には入った翌日から使用した。

 北京のホテルの部屋のコンセントは、二種類であったが、テレビの裏面の壁についていたコンセントが、持っていったトランスのコンセントに合っていたので、デスクに座ってパソコンを使用した。

 北京、南京、徐州と旅は続いたが、ホテルの部屋のコンセントが、減圧トランスのコンセントと同じ形状であったので、支障なくパソコンを使うことができた。

 だが、●博のホテルでパソコンを使っていると、突如として、電源が切れて、パソコンが使えなくなった。

 低圧トランスの不調が原因のようで、パソコンの電池の蓄電余力で、パソコンの使用を続けたが、短時間で放電して、パソコンの使用ができなくなった。

 万事休すという状態の中で、バスルームにある電気シェーバー用のコンセントがあるのに気がついた。そのコンセントには、電圧の表示がなかったが、その形状が、日本の百ボルト用の普通のコンセントと同じだったので、思い切って、パソコン付属の減圧トランスのコンセントを差し込んでみた。

 差し込んでみると、放電しきったパソコンが正常に作動し始めたで、電気シェーバー用のコンセントは、百ボルト用であることがわかった。若干危ない橋を渡った感じだが結果良である。

 だが、デスクがバスルームから離れているので、コードが短くて、デスクでパソコンを使うことはできない。やむを得ず、バスルームに椅子を持ち込み、パソコンを使う羽目になった。

 バスルームでのパソコンの使用は、ムード的にもシックリしないので、それ以降、ホテルでのパソコンを使用する機会は、急激に少なくなり、現地で処理する予定を半分以上残して、帰国する羽目になった。

 帰国後、振り返ってみると、パソコンの電池はニッカド電池で、寿命の関係で、電池が完全に放電してから充電する原則になっていることに気がついた。

 大多数の人は、ノート型パソコンを使用するとき、電池の放電が気になるため、絶えずパソコン付属の減圧トランスで充電しながら使用しているが、これは原則に反する方法だ。 だが、この方法に慣れてしまうと、ノート型パソコンは、充電しながら使用するものと思いこんでしまう。

 私のその例外ではなかったので、パソコンを使用しないとき、バスルームのコンセントを使って充電し、パソコンを使用する必要があるときには、部屋のデスクの上で、充電済みのパソコンを使うことを思いつかなかった。

 一日の資料整理程度の入力であれば、充電された電池で十分対応できる筈であり、そんな単純な発想も、旅行中にわかなかった自分の愚かさをあらためて思い知らされた。

 パソコンを使用しなくなっても、コンセントの形状には関心があったので、新しいホテルに着くたびに、部屋中のコンセントを調べ廻った。

 平均的にいえることは、各ホテルとも、部屋のコンセントの形状は、電気シェーバー用のコンセントを除いて、二ないし三種類あった。また、七つのホテルで見かけたコンセントは、六種類に及び、デパートの外国旅行用品売場に表示されているすべての形状に巡り会った勘定になった。

 現在の中国では、地域ならびに電気製品の種類によって、コンセントの形状が異なるので、外国人旅行者にとってみれば、煩瑣な事柄の一つのといえるが、定住する中国人にとってみれば、案外問題視するに足らない事柄かもしれない。

 いずれにしても、現在の中国の新しいホテルであれば、バスルームに電気シェーバー用のコンセントが必ずついているので、ノート型パソコンの充電程度の使用であれば、そのコンセントが使えるので、中国旅行の際、特に減圧トランスを持参する必要はないといってよいだろう。

 ● 「さんずい」に、輜重の旁

(電圧とコンセント 了)


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蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 八 ホテル

2010/04/22 07:55
 改革開放政策が採られた直後の中国では、ホテル難といった状態が暫く続いた。

 因みに、一九八二年発行の中国旅行案内(注一)には、「最近は十階以上の近代的ホテルが各地に立ち始めているが、各地の一流ホテルは古いものが多い。また、地方では招待所を使用するところもある」と記されている。

 一九八三年に中国を訪問したときは、北京ー鞍山ー北京のコースで、石炭液化関連施設を訪問した。

 そのとき、北京で前後四泊したが、初めの三泊は、洋式のホテルが確保できなかったので、古い邸宅を利用した中国人向けの宿泊施設に泊まる羽目になった。

 日本でいえば旅館といった感じのその施設は、広い邸内に独立の家屋が点在しており、その一戸一戸が、バス付きのスイートルームといった形式になっていた。

 また、鞍山で一泊したホテルは、戦前の大和ホテルで、部屋は広いが、設備は建設当時のままといった状態で、給湯設備も老朽化し、入浴するにも湯を事欠く有様であった。

 中国最後の晩は、その前年に建った建国門外大街にある建国飯店に泊まった。

 ホテルのロビーには入った瞬間、中国の中のアメリカだといった実感が、思わず湧いたのを覚えている。

 当時の建国門外大街は、道路に面して、友誼商店などのわずかな建物が並ぶ程度で、周辺一帯は、野原のような感じの未開発地域であり、その中に、建国飯店の建物だけが聳え立つといった感じであった。

 その後、北京では、アジア大会が開かれた一九九○年頃からホテルの建設ラッシュが始まり、新しいホテルが次々に誕生した。

 その影響を受けて、現在建国門外大街周辺一帯は、一部居住用の高層住宅があるが、主としてホテルを含む商業地区として、高層ビルが林立する近代的な地区に変わっていた。

 今回泊まった北京のホテルは、この地区の建国門南大街にある凱莱大酒店であった。周辺には、長富宮飯店を始めとして、京倫飯店、中国大飯店など国際級のホテルがあり、前回の泊まった建国飯店は、それら近隣の高層ビルの陰に隠れ、密やかに佇むといった感じであった。

 凱莱大酒店は、邦人がよく利用する最高級の長富宮飯店には及ばないが、共通設備も完備しており、前回泊まった建国飯店比べても勝るとも劣らないホテルといってよいだろう。

 また、凱莱大酒店周辺では、現在も高層ビルの建設は進められており、散歩の途上で、建設中のホテルを数えると五つになり、ホテルの建設ラッシュは、まだ続いていることを物語っていた。

 北京を手始めに、南京、徐州、●博、済南、広州、茂名と六つの地方都市のホテルを利用した。

 各ホテルとも、その都市での高級ホテルにランクされるが、その中でも、広州の白天鵝賓館は、ニクソン元米国大統領が泊まったという広州随一のホテルで、市街から離れた珠江に面した閑静な雰囲気の中の白亜の姿は、その名のホワイトスワンに相応しいものであった。

 今回、調査対象工場が決まった後、具体的な旅行計画は、日中経済交流協会経由で、中国の旅行社がアレンジした。そのため、十人弱の一団であったが、ホテルの宿泊費は、三十パーセント程度のディスカントレートであった。(注二)

 宿泊費の最高は、北京の九十ドル、最低は徐州の五十二ドルであった。

 ホテルの宿泊費は、都市のホテル事情による違いがあり、宿泊費の多寡だけでは、ホテルの内容が判断できない。

 例えば、北京のホテルと広州のホテルと比べると、広州のホテルをホテルオークラとすれば、北京のホテルは西武系のプリンスホテルに相当するが、ホテルの宿泊費は、広州のホテルが北京のそれに比し、約二十パーセント低いという逆転現象がでていた。

 一般には、地方都市ほどホテルの内容に比べ、宿泊費が安い傾向があるのは、日本と変わりない。

 私ども水泥グループは、一応世間並みのホテルに泊まったことになるが、同じ日に日本を発ったアンモニアグループは、石家荘、錦西など若干ドサ廻りとなったので、訪問先企業の招待所での宿泊を余儀なくされたという話を聞いた。

 現在でも、改革解放路線で経済発展の恩恵を受けている地区では、ホテル事情は好転しているが、その恩恵を受けていない地方都市では、依然として従来の宿泊施設に依存するような傾向が続いているようだ。

 だが、訪れた各都市で高級とランクされるホテルでも、建物を改装し、ロービーなどもそれなりの体裁を整えている反面、設備ならびにサービスに関して、一考を要すると思われる面が多く見られた。

 徐州で泊まったホテルは、かって、国共交戦時、国民政府、中国共産党、米国の三者の代表(注三)が停戦に向けて会談を行ったという由緒のあるホテルであり、今も当時の建物は、市の史跡として保存されている。

 宿泊したのは、改装された新しい建物で、外見は近代的なホテルとしての威容を誇っているが、部屋に通されて先ず戸惑ったのは、ローブが用意されていないことであった。荷物をほどいても、衣服を掛けるところがない。やむを得ず、衣服をハンガーにつって、バスルームのカーテンレールに吊したが、バスを使うたびに、衣服を持ち出して、待避させなければならなかった。

 また、バスタブの栓の開閉がうまく調節できないので、湯をだすたびに栓を閉めるのに苦労した。洗面器の栓の開閉についても同様の状態だ。

 一応、形の上では、通常のホテルの体裁を整えているが、本来の機能を維持する上で、設計上のきめの細かさに欠ける欠点が多々みられた。極言すると、似て非なるものとの言葉が当てはまる粗製濫造品を使っているのではないかと思えてならない。

 同様の苦労は、茂名のホテルでも味わった。

 この二つのホテルを除くと、他の五つのホテルは、設備的には一応不満のない状態であったが、サービス面で若干の優劣が認められた。

 従業員の服務態度を含めたサービス面で、最も行き届いていたのは、広州のホテルであった。

 一例として、各ホテルとも、フロアごとに服務台をおいているが、常時従業員を配置していたのは、広州のホテルだけであり、客がエレベーターフロアに来ると、服務員は素早くエレベーターボタンを押すという徹底ぶりだ。また、洗濯袋をフロアの服務員に渡すと、その場で、中を開けて、カードと内容物を確認していた。

 私は、見ていないが、団員の一人から、ホテルの地階のブックストーアで、ホテルサービスのビデオが売られていたとの話を聞いた。自分の経験からも、広州のホテルサービスを売り物にするに十分なものがあったと感じている。

 先にも述べたように、平均的に見て、その都市の高級ホテルに宿泊したことになるが、一部を除いて、それらのそのホテルですら、外見はともかく、設備ならびにサービスの面で、一段のレベルアップが必要であるということを痛感した。


注一 日本交通公社「中国」一九八二年発行
注二 ホテルレート
   北京 凱莱大酒店 九十ドル
   南京 古南都飯店 七十ドル
  徐州 花園飯店  五十二ドル
  ●博 ●博賓館  五十三ドル
 済南 斉魯賓館  五十三ドル
  広州 白天鵝賓館 七十ドル
  茂名 茂名大厦  五十四ドル
注三
 国共内戦中の徐州会戦を前にして、国民政府代表張治中、中国共産党代表周恩来、米国代表マーシャル元帥が、停戦協定締結に向けて、会談を重ねたホテルで、その庭の一隅に、「三人小組活動旧趾」の石碑が建てられている。

 ● 「さんずい」に、輜の旁

(ホテル 了)


※明日は新しい方のお手紙を紹介いたします。

※蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− はまだまだ続きます。

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蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 七 美人の多い空の旅

2010/04/21 09:32
 中国の国内航空は、運行時間が不規則なことで有名だ。前回の訪中時、国内の移動スケジュールは煤炭工業部がアレンジしたが、そのスケジュールでは、北京−瀋陽間の移動を夜行列車で行うようになっていた。

 新幹線が開通以後、日本では夜行列車を利用することがなくなったので、たとえ寝台列車であろうとも、十四時間余の夜行列車の旅よりは、航空機を利用した方がよいのではないかと思えてならなかった。

 そのことを、全行程に同行してくれた煤炭工業部の李広文さんに質すと、彼は、中国では航空機は時間が不規則で、場合によると欠航になることもあるので、時間はかかるが列車の方が確実だと、その理由を説明した。

 その経験から、今回の旅も、出来れば航空機の利用を避けたいと思ったが、北から南へ約五千三百キロの距離を限られた時間で移動するには、航空機の利用は避けられない。

 その結果、北京−南京、済南−広州間の移動は、国内航空を利用するように計画されていた。

 現在、中国の国内航空は、七つの民間航空公司によって運営されているが、実質的には、国営と変わりないといわれている。この二つの路線は、いずれも、幹線ルートではないので、フライトの遅れが予想され、空港での長時間のフライト待ちを覚悟した。

 だが、最初の北京−南京間も、ほぼ定刻通り北京空港を飛び立ち、定時に南京空港に到着したので、些か予想外の感を味わった。

 次の済南−広州間も、済南空港で不安な思いで待合室で待っていたが、これもほぼ定時運航であったので、中国も変わったと思わざるをえなかった。

 若干好運に恵まれた感があったので、広州で合流した国家建築材料工業局のB女史にそのことを質してみたら、B女史は北京より北行のフライトは、ロシアの古い機材を使っている関係で遅延することが多いと答えてくれた。

 その話を聞いて、北京−南京、済南−広州間の機種を思い返すと、いずれも、日本の国内航空と同じボーイング 767で、機材としても新しいものであった。

 パイロットに関しては、軍関係のパイロットを転用しているため、技術的には練度が高いといわれている。したがって、一旦離陸すれば、後はパイロットの技量が信頼できるので、安心して、身を任せることができるわけだ。

 だが、北京から南京への初めてのフライトで、離陸するまでは、若干の不安は拭いきれなかった。

 その最初のフライトで、驚いたことは、離陸時の加速の仕方が、いままで経験したことのないような、急加速であった。

 最近の日本では、国内のフライトでも、ジャンボ機を利用することが多いので、ジャンボ機の重い機体のためか、離陸時背中で加速度を感ずることはないが、そのときの急加速は、些か吃驚するほどの加速度を背中に感じた。
 離陸時の加速度は、機体の軽重も影響するだろうが、私には、緊急発進に慣らされた軍関係のパイロットの習性のように思えてならなかった。

 軍の航空機の場合、国防上の見地から、絶えず緊急発進に備える準備が必要であり、また、それに応ずる訓練が実施されていることは周知である。このような環境で長年訓練を受けたパイロットは、背中に感ずる加速度に満足感を覚え、たとえ、民間航空のパイロットになった場合でも、習性として身についている感覚が、無意識のうちに急加速を行うということに繋がっているのではなかろうか。

 もっとも、若干奇異に感じたこの急加速は、離陸しても失速することは絶対ないので、安全面では、何ら心配しすることはないのだが、若干荒っぽいという感じがあとまで残ったことは否めない。

 次に特筆すべきは、スチュワーデスに美人が多いことだ。

 前回の訪中は、改革解放政策を始まって間もないこともあって、通勤途上の女性はほとんどといって良いくらい人民服を纏っていた。当時女性の服装に色彩を感ずるのは、北海公園等でデートと思われるカップルだけといった状態であった。

 そのためか、女性の容姿を判断するところまで気が廻らなかったが、人民服をかなぐり捨てた姿を見ると、中国女性にかなり美人が多いのに気がついた。

 特にスチュワーデスの場合、意図して長身で人並以上の容姿の女性を揃えているようだ。また、数人のクルーのうちには、必ず飛び抜けた美人が最低一人は混じっているのも特徴の一つといって良いだろう。

 北京から南京へのフライトで、後部担当のスチュワーデスの一人は、ずば抜けた美人に属するといってよいだろう。

水平飛行に入って、すぐに夕食を配っていたが、思わずとなりに座っていたS女史に、「宝塚の男役にしても通用するね」と問いかけたら、彼女も相づちを打って美人スチュワーデスの横顔を見つめていた。

 日本においては、未だにスチュワーデスは若い女性のあこがれの職種である。だが、欧米のスチュワーデスは、必ずしも職業としての地位は高くないようで、近年ピチピチとした若い女性は姿を消し、若干年をとった中年の「恐いおばさん」風のスチュワーデスが多くなってきている。

 このようなことから、後進国ほどスチュワーデスの地位は高く、先進国になればなるほど、その地位が低下する傾向があるように思えてならない。

 国際線の乗務の場合、外国へ行けるということは、魅力には違いないが、長期バカンスで、容易に外国旅行が可能な欧米諸国の場合、後進国ほどそれは魅力とはいえないのではないか。

 また、機内での業務は、食事の配膳、その後片付けを一定に時間の制約の中で行わなければならないことなどを考えると、重労働を伴うウェートレスという以外の何物でもない。

 そのように考えると、スチュワーデスの年齢、容姿はその国の文化の先進性のバロメーターといえるのではないかと思えてならない。

 因みに、長身のスチュワーデスが多いことを、B女史に質してみると、身長の採用基準は、一米六十五センチ以上という答えが返ってきた。日本の場合、スチュワーデスの身長の採用基準は一米六十二センチ以上なので、その差が長身が目立つ原因になっていることが明らかだ。

 だが、旅行者にとって、スチュワーデスに美人が多いことは、旅の楽しみの一つであり、中国の国内航空も、見捨てたものではないということを痛感した。

 また、機内サービスについても、触れておく必要があるだろう。

 日本では、すでに二十年以上前から、国内線での機内でのサービスは大幅に簡略化されており、現在では湯茶のサービスだけといった状態であるが、中国での機内サービスは、抜群といって良い。

 はじめに利用した北京−南京間は、南京到着が十九時以降になるので、水平飛行にはいって、すぐに夕食が出された。肉料理で、量的にも十分満足できるものであった。

 済南−広州間は、済南発十四時なので、軽食として、ケーキと果物がパックにはいったものを渡された。軽食といっても、量的には、日本のサラリーマンの昼食以上の量があった。

 丁度その日の昼食は、北京に帰るRさんとのお別れパーティであったので、満腹状態で飛行機に乗ったので、その軽食には手をつけるまでに至らなかった。

 また、国内線といえないが、広州−香港間の僅か二十五分のフライトでも、ケーキとジュースがだされ、食べ物に関しては、十分すぎるくらいのサービスぶりであった。

 この面からも、中国の国内航空を評価してもよいだろう。

 帰国後、中国の国内航空のフライトの遅延に関連する二つの話を聞いた。

 そのうちの一つは、瀋陽の大学で招待講演を頼まれたN君が、北京から瀋陽行きの便を利用した。B女史の分類による北行きの便であり、案の定、フライトの遅延のため、北京空港で長時間待たされ、やっと、乗った飛行機が、瀋陽に到着したのは、真夜中の零時を過ぎ時間であった。

 そのとき、出迎えの大学教授が、飛行機の到着まで、空港で待っていてくれたので、ホテルに無事着くことができたようだ。

 日本では、大幅な航空機の延着の場合、航空会社が、宿泊設備を提供することが慣例になっているが、中国では、そこまでのサービスはまだ行われていないようで、目的地の空港におりた後、路頭に迷うことが屡々あるようだ。

 その意味において、N君は先の大学教授の親切に恐縮し、地獄に仏の心境を私に語ってくれた。
 いずれ、北行きの機材も更新される時期が来るので、中国の国内航空も国際レベルになるのも、間もないのではなかろうかと思う。


(美人の多い空の旅 了)

※明日も蒼海さまのお手紙を紹介いたします。

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蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 六 三種類の軟座車 3

2010/04/17 10:03
 広州では四泊し、十一月十三日一時過ぎに迎えのバスに乗ってホテルを発った。

 広州駅付近の雑踏ぶりは、ホテルから広州水泥有限公司の往復で、バスの中から遠望しているので、ある程度の予備知識はあったが、駅について、バスを降り、駅前広場を埋める群衆のかき分けるようにして、駅舎に入り待合い室を探す間、異様な雰囲気にただ驚くばかりであった。

 列車を待つ者、あるいは亡流とおぼしき者これらが渾然一体となって、駅の雑踏を形成している。駅前広場などは、一人であったら横切ることをためら躊躇うような感じがした。

 通訳のBさんが、あちこち当たってくれて、茂名行きの軟座車の待合室がわかった。待合室といっても、南京の浦口駅の待合室と違って、誰もいない広い駅舎の一部で、些か戸惑いを感じた。

 時が経過するにしたがい、待合室の客は徐々に増えてゆき、暫くするとその数は百人ぐらいになった。

 従来の経験では、軟座車は一列車に一両連結されているだけなので、待合室が、軟座車専用ではないのではないかという疑問がわいた。

 やがて、改札が始まりプラットホームにでてみると、そこには、白い車体にブルーのラインが引かれた瀟洒な軟座車専用列車がわれわれを待っていた。

 それまで、最悪の事態を想定していたので、この姿を見たときは、徐州で二階建て軟座車を見た時以上の驚きを感じた。

 また、乗降口に立つ女性乗務員の服装を見ても、それまでの上着とズボンの制服姿ではなく、白いブラウスにライトブルーのスカートというかっこ良さで。一体どうなっているのだろうというのが率直な実感であった。

 車内は清潔な感じで、それまでの向かい合わせの四人席ではなく、両側二人ずつのリクライニングシートで、窓の下には、ごみ入れ用のポリ袋まで備えられているという念の入った状態だ。

 また、帰路の寝台車も同様な仕様と考えられたので、これでそれまでの杞憂は一掃され、
「初め悪ければ、終わりよし」の言を思い出し、夕暮れ迫るまで、沿線の開発風景を眺めながら快適な旅を続けた。
広州から二時間あまりの間、沿線では工場・住宅などの建設が進められており、停車駅の数も多かったが、その後は、闇の中をひた走る感じで、列車は進行した。

 清潔さは、車内ばかりではなく、食堂車の白いテーブルクロスも比較的新しく、出てくる料理も、「食は広州にあり」の諺通りの新鮮な魚料理が供され、思わず「この魚はおいしい」と口走る始末、列車の旅の中での一番の思い出として、今もその味は忘れられない。

 やがて、列車が終着駅の茂名に近づくと、ブラウスにスカート姿の車掌が、腕捲りをして、中央に敷かれているカーペットを丸め始めた、丸め終わると、カーペットを洗面所に収納し、次にモップを取り出して、車内のフロアを清掃する作業にとりかかった。

 それまで、スマートな制服に身を包み、若干しとやかさを感じさせた女性車掌であったが、その時は、中国女性の逞しい側面を覗かせた。

 前回を含めて、終着駅まで列車に乗ったことがなかったので、車内の清掃が、車掌の業務の一つとして組み込まれていることを知らなかった。あるいは、市場経済化の過程で、車掌の生産性向上の一環として、新たに車掌の業務に清掃作業を付加させた可能性も考えられる。

 翌日、茂名水泥廠の昼食の時、深◆−広州−茂名間の新線について、尋ねてみると、次のような答えが返ってきた。

 改革開放路線が進展し、経済開発区の交通の便を計るため、広東省、沿線の市が資金を出資し、さらに外資を導入し、日本でいう第三セクターに対応する組織を作り、九二年に新線を完成させたとのことであった。

 新線完成前までは、茂名から広州へは、長距離バスが唯一の交通機関であり、その往復には、相当苦労していたようであるが、その完成は、沿線地域の経済発展に相当寄与しているようだ。

 茂名からの帰路は、寝台専用車であったが、車両は往路と同様な仕様で仕上げられたもので、快適さには変わりなかった。

 濃緑の旧車両、二階建ての新型車、さらにスマートな新型車両と、わずか三週間余の旅で、三種類の軟座車を経験したことになるが、これも急速に変わりゆく中国の現実の一端を知る上で、大いに参考になった経験といえよう。


◆ 「つちへん」に川

(「三種類の軟座車」 了)
※「『中国水泥の旅』−同行九人、五千キロ−」はまだまだ続きます。

※明日はしろうさまの記事を紹介いたします

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タイトル 日 時
蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 六 三種類の軟座車 2
 日本では、戦後の早い時期に、車体をシェル構造に変え、軽量化の方向を歩んでいるが、中国では、新しい車両に関しても、従来の設計手法をそのまま踏襲している。外見は瀟洒な姿をしているが、その実、鉄の塊という姿は変わっていない。 ...続きを見る

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2010/04/16 07:57
蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 六 三種類の軟座車 1
 北京のホテルは、北京駅に近い建国門外の立体交差の近くにあったため、ホテルの窓から、北京駅に発着する列車をよく見かけた。大部分の列車は、前回の訪中の時利用した濃緑の車両であったが、時折、白色の車体に赤いラインを引いた新しい車両で編成された列車を目にし、改革開放で一部の車両が、新しいものに変わっていることに気がついた。 ...続きを見る

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2010/04/15 09:34
蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 五 黄蝗 2
 黄蝗の登場に伴うもう一つの変化は、流しのタクシーが増えたことである。 ...続きを見る

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2010/04/12 08:52
蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 五 黄蝗 1
 「黄蝗(ホワンホワン)」、黄色い蝗は、黄色い車体の小型タクシーの愛称だ。どこからともなく、群をなして集まってくる蝗、パールバックの「大地」を想像させるこの二文字は、現在の中国の大都市での車社会への移行を表す格好の表現だ。 ...続きを見る

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2010/04/11 07:46
蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 四 道路 3
 市街の道路で、若干意外に思ったのは、茂名での見聞がある。 ...続きを見る

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2010/04/10 07:20
蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 四 道路 2
 次に、都会の道路事情についてふれてみたい。 ...続きを見る

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2010/04/09 09:02
蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 四 道路 1
 北京空港から市内までは、高速道路が整備されており、十一年前の片側一車線の並木道という牧歌的雰囲気は一変していた。 ...続きを見る

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2010/04/08 09:36
蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 三 通貨 3
 少額貨幣の追放は、紙幣ばかりではない。コインも貯まると、 小銭入れを膨らますので、やっかいな存在だ。  最近は、経済成長に伴うインフレの進行で、 一元が十二円と、十一年前に比べて、丁度十分の一に下落していた。 ...続きを見る

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2010/04/07 06:48
蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 三 通貨 2
 その第一は、朝の散歩で立ち寄る公園等の入園料の支払いに、 汚れた紙幣を充当する方法である。 別項で詳しく述べるが、街の公園の入園料は、 二角から六角までの範囲であり、毎朝行った散歩の途中で、 必ず公園に立ち寄っていたので、 この方法は汚れた紙幣の追放には有効な手段であった。 もっとも、朝食ぎりぎりまで、寝ている人にとっては、通用しないが、 朝早く目の覚める年寄りには、お勧めできる方法だ。 ...続きを見る

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2010/04/06 08:48
蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 三 通貨 1 
 通貨に関して、変わったことは、外貨兌換券が廃止され、 人民幣に統一されていたことと、インフレに伴って、元の価値が、 十一年前に比べて十分の一に下落していたことである。 ...続きを見る

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2010/04/05 09:50
蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 二 簡体字 2
 文字に関して、中国を批判するような話になったが、日本にも略字の使用を強制した歴史が、現在まで四十年以上続いている。 ...続きを見る

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2010/03/31 07:27
蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 二 簡体字 1
 中国は、漢字のルーツの国であり、漢字文化を受け継ぐ日本においては、漢文を、高校教育の正課の一つとして位置づけている。 ...続きを見る

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2010/03/30 07:51
蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 一 同行九人 2
 北京入りした翌日、十月二十五日に国家建築材料工業局を表敬訪問した際、なかなか厳しいものの言い方をする人物であるという印象を受けたが、現地調査の段階でも、中国側の面子にかかわることは一歩も引かないという、強さを感じさせられた。 ...続きを見る

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2010/03/29 08:34
蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 一 同行九人 1
 随想を主体とする本稿の趣旨から若干逸脱するする嫌いはあるが、二十五日間の旅を共にした、運命共同体ともいうべきメンバーのプロフィールに触れておく必要があろう。 ...続きを見る

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2010/03/28 13:10
蒼海の 「中国水泥の旅」−同行九人、五千キロ− 目次、まえがき
目 次      まえがき      一 同行九人      二 簡体字      三 通貨      四 道路      五 黄蝗      六 三種類の軟座車      七 美人の多い空の旅      八 ホテル      九 電圧とコンセント      十 どこでも料金     十一 禁煙     十二 二つの世界     十三 亡流とカラオケ     十四 おしん     十五 旅のつれづれ        あとがき ...続きを見る

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2010/03/27 09:11
蒼海の 「白鳳−昭和・平成のハイブリッド伽藍 2」
 その後、誰から聞いたか判然としないが、高田さんが管主を引き継ぐ際、橋本さんは、戦国時代の戦乱で消失し仮建築のままになっている金堂をはじめとする伽藍の再建を条件としたという話を聞いた。 ...続きを見る

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2010/03/17 09:58
蒼海の 「白鳳−昭和・平成のハイブリッド伽藍 1」
 私が、初めて薬師寺を訪れたのは、昭和二十七年である。 ...続きを見る

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2010/03/16 09:16
蒼海の 「随想 −N氏の言葉−」
 文章を、辞典では、どのように表現しているか確認すると、「文字を連ねて、思想・感情を現したもの」という記述が見いだされた。  表現としては、正確であるが、よく見ると、なにか無味乾燥な文字列のように目に入ってくる。 ...続きを見る

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2010/03/05 07:28
蒼海の 「アンダーテーブル」 2
 偶々、私が追いつき追い越せ時代の研究史をまとめた直後でしたので、研究員の自主的な活動がどの程度なのかを知りたくて、前述のT大手電機メーカー副社長の話を紹介し、現在研究所でアンダーテーブルが、どの程度の割合になるかをK所長に伺ってみました。 ...続きを見る

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2010/02/14 09:17
蒼海の 「アンダーテーブル」 1
 約二十年前、T大手電機メーカーのS開発担当副社長と、研究開発について話し合いを行ったことがありました。 ...続きを見る

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2010/02/13 10:04
蒼海の 「追いつき追い越せ」 2
 私は、昭和二十年代後半から、社会生活の大半を製鉄分野の研究開発に直接ないしは間接的に携わって来ました。 ...続きを見る

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2010/02/06 09:41
蒼海の 「追いつき追い越せ」 1
 昨年末、政府の行った予算の仕分けが、新聞紙上を賑わしました。 ...続きを見る

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2010/02/05 10:20
蒼海の 「鈴木貫太郎の孫子観 7」
 この論理正しい鈴木大将の説明に対して、 南陸相は、二の句が継げず退散する羽目になったが、 これを伝え聞いた林司令官は、 すぐに自分の処置の責任に対して進退伺いを出した。 ...続きを見る

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2010/01/28 07:50
蒼海の 「鈴木貫太郎の孫子観 6」
 この記述のなかで、三つの注目すべき点が含まれている。 ...続きを見る

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2010/01/27 08:22
蒼海の 「鈴木貫太郎の孫子観 5」
 さらに、「自伝」を読むうちに、陸軍大学教官を兼務していた頃の知見として、 次のような記述を見いだした。 ...続きを見る

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2010/01/26 08:56
蒼海の 「鈴木貫太郎の孫子観 4」
 兵書としての『孫子』の真髄を理解しているつもり私の目から見て、 鈴木貫太郎大将の「・・偉大なる戦術の原則論・・」との一文は、 単に『孫子』を知っている程度の理解を超え、 『孫子』の理念を体得していると判断できる文言である。 ...続きを見る

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2010/01/25 09:20
蒼海の 「鈴木貫太郎の孫子観 3」
 そこでは、練習艦隊司令官として、サンフランシスコ訪問をした際の 講演内容を紹介し、日米間では戦争を行うべからずの心境を披瀝するとともに、 いたずらに太平洋戦争に突入した、当時の為政者に対し、 次のような見解が記されている。 ...続きを見る

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2010/01/24 07:36
蒼海の 「鈴木貫太郎の孫子観 2」
 兵学校入校間もない通常の自習時間に、この経験が書かれた小冊子を何度か読むうちに、その文言が、今も忘れ得ぬ思い出として、脳裏に刻み込まれるとともに、鈴木大将を「信念の人」として、特別に敬意を払うようになった。 ...続きを見る

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2010/01/22 10:02
蒼海の 「鈴木貫太郎の孫子観 1」
 鈴木貫太郎の名は、兵学校に入るまで、私どもにとって強く記憶に残る名前ではなかった。もっとも、海軍の先輩としてよりは、二・二六事件で重傷を負われた侍従長として、僅かに記憶にとまってはいたが、連合艦隊司令長官、軍令部長と、海軍の軍令のトップを極めた、その経歴については知る由もなかった。 ...続きを見る

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2010/01/21 08:57
蒼海の 「私と『孫子』 2」
 秋山参謀は、海軍大学校教官を二度勤めているが、常に学生に対して兵理研究には「多くの戦史と各種の兵書をよく研究するしかない」と教え、自らも古今東西の兵書、戦史を克明に読みよくそれらを咀聯し、その上にたって作戦の立案を行っていた。 ...続きを見る

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2010/01/19 13:40
蒼海の 「私と『孫子』 1」
 『孫子』が中国の兵法書であることは、日本で多くの人が知っているのではないかと思われる。また、知識人の常識として『孫子』の文言を一つや二つ覚えており、日常会話の中で、例えば「兵ハ拙速ヲ貴ブ」なる言葉がでてくるのも特に違和感を感ぜずに受け入れている。 ...続きを見る

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2010/01/18 09:49
蒼海の 「リーダーの資質」
 ここ十数年、特に二十一世紀になってから、我が国のリーダーの迷走には、目に余るモノがあります。 ...続きを見る

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2010/01/17 07:53
蒼海の 「老いの一徹」 2
 そのような日常の中で、時々TVなどで紹介される、健康に関する話題に中で、自分に納得行くものを、取り入れることを始めました。 ...続きを見る

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2010/01/10 09:59
蒼海の 「老いの一徹」 1
 子供の時から、三日坊主といわれた私ですが、この十年余、一度決めたことを、黙々として、継続してきており、”継続は力なり”などの友人に自慢している今日この頃です。 ...続きを見る

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2010/01/09 10:13
蒼海の 「明日は明日の風が吹く」 2
 やがて、生徒全員が帰省する待望の夏休みが、十九年の七月十五日から始まった。 ...続きを見る

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2010/01/05 11:59
蒼海の 「明日は明日の風が吹く」 1
 筆者は昭和十八年十二月、憧れの海軍兵学校へ入校した。 ...続きを見る

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2010/01/04 11:36
蒼海の 「敬語」 2
地下鉄網が発達すると、後から敷設された路線は、他の路線との関連で、 大江戸線のように、地下深く敷設されるようになる。 ...続きを見る

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2009/12/20 10:39
蒼海の 「敬語」 1
本日からご登場下さいます「蒼海(ソーカイ)」さまをご紹介いたします。 ...続きを見る

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2009/12/19 10:45

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