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zoom RSS 一阿の 「九太郎の遺言」 4

<<   作成日時 : 2014/08/06 07:00   >>

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(九太郎は自社を育んだ恩人像の二番目に高崎達之助を挙げている。)

2. 高崎達之助について
高崎達之助は明治18年 我が社の創業者と同じ大阪府高槻に生まれた。大阪の名門府立四中、今の茨木高校を主席で卒業し水産講習所に入り、明治39年優秀な成績で卒業した。

5年ほどある水産会社で働くうち、缶詰めの事業に興味を覚え、前述の伊谷教授の推薦でアメリカに渡り、現地の漁業会社で缶詰事業に従事することになった。大正4年に帰国した高崎はカムチャツカで鮭の缶詰生産に携わったりするうち、輸出食品(株)の小野社長の世話により結婚する。大正6年に小野社長や伊谷教授の賛同を得て大阪に東洋製缶(株)を設立した。

高崎はかくして小野社長の甥である小林一三と知己を得た。やがて事業も軌道に乗り、小林の勧めもあって有楽町の東光ビルに東京事務所を開設した。大正9年には品川に工場を建設している。当初の東洋製缶は小林の影響が強く、出入り業者は竹中工務店であった。北海道には堤商会と輸出食品(株)のそれぞれ大規模な製缶工場があったが東洋製缶との三つ巴を避けるべく、堤は高崎の意見を入れて(缶詰業と製缶業は分けるべし。)自社の製缶業は東洋製缶(株)に譲渡した。

北海道問題が一段落した東洋製缶(株)は大正11年には台湾を、12年には広島と名古屋、15年には仙台(青森)、昭和に入り4年に戸畑、11年に清水、14年には朝鮮・大連と次々に現地法人を設立し或は資本参加の形で進出していった。昭和7年には日本製缶と資本提携をし、北海製缶と協定を結ぶ等して日本の主要製缶業は東洋製缶の支配下となった。

高崎達之助は昭和15年渡満する時点では専務になっていた。 所で昭和15年第二次欧州大戦の勃発は鉄鋼の逼迫をもたらし各製缶業者は企業統合の指令を受け、業界は東洋製缶を中心に合併し新東洋製缶(株)となった。常務陣には平塚常次郎 相談役には当時満州にあった高崎達之助の名が見える。当時 統制と合同の嵐が吹き荒れる産業界の中、財閥グループに対抗して鮎川義介の率いる「日産コンツェルン」が生まれた。

150社の直径企業を持つこのグループは満州にも進出し満州重工業開発会社を興して鮎川が総裁となっていた。折からブリキの供給もままならず、困っていた高崎は人の紹介で鮎川に会い、鉄を求めて渡満したのが縁で、昭和15年満州重工業の副総裁に招かれ、やがて総裁となり昭和22年11月帰国するまで満州にあって活躍した。

帰国した高崎を待っていたのは公職追放の指令であったがこれは昭和25年に日魯の平塚等と共に解除された。解除の翌年高崎は、東京電力会長の白州次郎の推薦で、新しく出発する電源開発会社の総裁となった。白州はかって鮎川のブレーンでもあり又吉田茂の側近でもあったがこのことは諸賢熟知の通りである。

高崎は吉田と政治系列を異にし職を辞したが、昭和29年12月第一次鳩山内閣の経済企画庁長官になり翌年には大阪より衆議院に出た。高崎を政界に手引きしたのは平塚であったが、同時に又親交の深い河野一郎であった。このやうな地縁、人縁、を得た我が社の先代は高崎の信頼を得るまでにさほどの時間を要しなかった。

昭和29年には北海道の糠平で電源開発の工事を受注している。大臣となった高崎は翌30年、インドネシアのバンドンで開かれたアジア、アフリカ会議に出席し、中国の周恩来代表と大いに意気統合したが、その縁で高崎は昭和35年(1960年)には中国訪問の招待を受けた。日中貿易の推進に力を入れる池田内閣は9月に松村訪中使節団を派遣し、10月に高崎を、2年後の37年昭和10月には所謂 L.T.(寥承志・高崎)民間貿易を成立させた。

時に日本では先の岸内閣にをいて台湾との間で、中共不承認の立場を確認してをり、33年には長崎の中国国旗不祥事件もあり、信濃町の高崎邸には連日のやうに右翼の嫌がらせもあったが、これを沈静化させたのが児玉誉志夫であった。これを機に我が社の創業者は児玉誉志夫を顧問格として遇し、公私共に相談する間柄となった。

我が社は昭和47年から昭和48年にかけて中国の北京、上海、天津、杭州等に於いて日魯による冷蔵倉庫の建設工事を受注しその後の海外工事の基礎を固めた。一方東洋製缶では高崎は昭和32年会長に復帰したが、翌年岸内閣の通産大臣になり職を辞した。

その後昭和34年に大臣を辞めると同時に大日本水産会会長となり特に北方海域での漁業問題に尽力する傍ら、昭和37年には再び東洋製缶の社長兼会長に復帰した。復帰するまでの紆余曲折に関し、我が社の創業者は児玉誉志夫と共に高崎に献身する立場となった。

その後高崎は昭和39年9月に77才で他界した。この様な歴史の中で東洋製缶関係工事の我が社への特命路線が定着していったのである。東洋製缶の工場施設は戦時中大部分は戦災に逢い閉鎖や疎開のやむなきに至ったが25年以降順次に復旧が開始され、仙台、茨木、八戸、横浜、川崎と続々建設が行われた。我が社はこのやうな恩人に導かれ建設工事、設計施工の特命を受けた他にその人脈の中で水産、食品、他各方面に亘る会社の工事を受注することにより、比類稀なる急速な発展をして参った。

特に高崎達之助は我が社の創業者に対し、「事業を成功させるのは、何も難しいことではなく、物を早く、良く、安く、作ることだ」と教えた。このことは松下幸之助の理念である「水道哲学(水道の蛇口のように捻れば必要なだけ得られるようにする。)」となったが、これは我が社の「早く、良く、安く」のスローガンとして各所に掲示された。かくて我が社の役員室には、高崎達之助と平塚常次郎の写真が掲げられるようになった。

最後に、児玉誉志夫についてその略歴を記してをく。明治44年福島生まれ。大正8年渡鮮した後同15年帰国し、建国会 民主党を経る傍ら昭和13年日大卒、翌14年再び上海に渡った。因みに建国会には赤尾 敏 上杉慎吉がいた。戦時中は海軍航空本部嘱託として「児玉機関」を上海に組織、中国各地から戦略物資を集めた。その後帰国、終戦時は東久邇内閣の顧問となり、以後の内閣にも色々影響を与えた。昭和51年ロッキード事件に連座して起訴されたが、昭和59年1月に心不全で逝去し公訴棄却となった。

*****
(一阿 註: 間もなく大西瀧治郎中将の命日8月16日がやってくる。大西中将は沢山の若者を特別攻撃隊として死なせた責任をとって割腹して果てた。腹を十文字にきり頸動脈を掻き切ったが息絶えることが出来なかった。真っ先に駆けつけた児玉誉志夫は介錯しようとしたが、彼は押し留めた。まだくるしまなければならん。大西瀧次郎が一航艦の長官を拝命した時彼は「陛下から三方に九寸五分を載せて賜ったやうなものだ。」と笑った。既にこの日を覚悟していた。

当時帝国海軍はマリアナ沖海戦で航空機 艦艇とも多大の損害を被っていた。山本五十六長官が見通していたやうに米国の生産力と技術力は日本を上回っている。僅かの差で彼等の電波探知機の技術はわが国を上回った。戦いではこの差が決定的となる。彼等はは唯々とわが零戦 や艦攻や艦爆を撃ち落とした。敵は七面鳥撃ちと称した。

昭和40年代私は渋谷にあったネービークラブで坂井三郎(零戦の撃墜王)の話しを聞いた。彼は霞空の芝生に寝っ転がって、目の訓練をした。昼でも星が見えるやうにである。空中の戦闘では敵の機影を一瞬先に発見出来るか否かが生死を分ける。しかし今、 神業に近い視力より更に優れた視力が出来た。レーダーだ。敵にはそれがあり我が方には無い。ではどうすればよいのだ。当時の若者は考えたのだ。

爆弾を積んで敵艦に体当たりするより外ないじゃないか。戦闘が終わって70年後に観念で呟くのは容易い。しかし、爆音のさなか国を護る為生命を擲って敵の艦橋に砕け散る瞬間は想像するだに恐ろしい。その辛さを一番知ってをられたのは大西瀧次郎中将だ。割腹ののち介錯を断られたのだ。

靖国の杜にはこのやうな純忠の御霊が祀られてゐる。何故、支那人や朝鮮人の顔色をチラチラ伺いながら行動しなければならんのだ。生命をかけて国を護るのは我々日本人ではないのか。靖国の遊就館に中将の血染めの軍服がまつられている。児玉誉志夫は大西中将より20才若い。追い腹を切ろうとするところを諫められる。「お前は若い。戦後の日本の再建に力をつくせよ。」

戦後 笹川良一、児玉誉志夫、 は隠砦の極悪人のやうに嫌われた時代があった。人にも国にも悪い面とよい面がある。九太郎は世の風評に超然と児玉誉志夫の良い面を咀嚼した。彼は旧制中学から旧制四高へ行き、私は海軍兵学校へいった。70年後傘寿で逝ってしまうまで彼との親交は続いた。彼の心の底には国を憂ふること切なるものがあった。戦いに負ける以前に元服の年齢であった者は余程の反日思想保持者で無い限り、ちゃんと是非善悪をかみ分ける強靭な歯を持ってゐた。

この歯をGHQ と 共にアメリカからやって来た年端もゆかんマルクス レーニンかぶれの青二才どもに抜かれてしまった。所謂焚書の刑である。また彼等が一週間で書き上げた国籍不明の日本国憲法だ。終戦時の総長は南原であったが、東大も彼等に占領されたのだ。学問の自由とか政治からの独立と言っていたが、その惨状は目を覆うばかり、第一生命ビルの玄関に銃剣を持ったG・I がふんぞり返っていたのと同じやうに見えない世界(精神)で左翼が心の銃剣を持ってふんぞり返っていたのだ。

教授は殆ど共産主義者か進歩的自由主義者。その流れが今も続いて学会を牛耳っている。大内 力 や丸山眞男一派だ。そしてこう言う学府をでた者が朝日へ入りNHKへ入ってマスコミを操縦する。世論を形成する。かっての戦勝国に保守の歯を抜かれた学者や教育者が消化不良の教えを69年間この日本の国の子供や若者に教え続けたのだ。考えただけでも慄然とする。しかしこのことこそが戦勝国の思う壺だったのだ。九太郎は日本人の歯で保守 進歩 両方の是非善悪をかみしめる底力を持っていた。

いま安倍晋三と言う日本人が現れて珍しくしっかりした歯で硬軟両方の料理を咀嚼しようとしてゐる。かって戦勝国に歯を抜かれた連中が慌ててなんとかこの内閣を潰そうとする。それは第一次の時と何ら変わらない。戦いに負けると言うことは本当に大変なことなのだと思い知らされる。・・・児玉誉志夫から随分遠くへ話が飛んでしまった。)


― つづく ―

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