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zoom RSS 一阿の 「九太郎の遺言」 3

<<   作成日時 : 2014/07/18 07:00   >>

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(一阿註・物事には良い面と悪い面があります。個人にも良い面と悪い面があります。国家にも良い面と悪い面があります。ところが、今の風潮は国の悪い面だけ取り上げて、一向に良い面を考えようとしません。人権を最高において国家を無視します。

それは何故かと言うと、国際政治の中で日本が戦争に負けたからです。勝った国は、ゾーッとする程強かった日本を二度と立ち上がらせない為にあれやこれや手を打って頭でっかちな〈平和呆け〉偏った国にしてしまいました。個人も国家も両方良いところを取り上げ真剣に国を創って行かなければなりません。

今は国の存立や歴史を言おうものなら、忽ち―軍国主義―で一蹴されます。集団的自衛権も然りです。まるで平和呆けの脱法ハーブを飲んだみたいに集団的自衛権反対-反対-反対-反対とわめき散らします。わが国の正確な近現代史も知らずにです。かって、箱物・箱物と叫んで土木建設業界を疲弊させた政党は赤旗を振っていた連中を幹部に内閣を作りました。その四年間を思い出してみませう。

財源も無いのに思いつきのバラまき政策、デフレの悪化、その途上であの巨大震災が起こりました。既に疲弊し切ったた土木建設業界には昔日の力はありません。復興にどれほど支障をきたしたことか。現在では東京オリンピックの用意に建設業界のかっての力を期待出来なくなっています。マスコミや市民と称する人達はいろいろ理由を付けますが、要は、箱物・箱物とさわいで建設業界を衰退させた進歩的観念論者達の大変な毒害なのです。

民主主義とは無責任主義なのかと言いたくなります。それが今は「集団的自衛権反対」です。「箱物」が「集団的自衛権」に変わっただけです。国に歴史があるやうに、会社にも歴史があります。突然倉庫が建つわけではありません。ビルが現れるわけではありません。その裏には深く動かし難い歴史があるのです。それを九太郎は書こうとしました。施設は単なる箱物ではない。)

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―我が社を育んだ恩人像。―
1.平塚常次郎。
日魯魚業の起源は明治13年新潟生まれで当地の中学校に学んだ堤清六と、明治14年函館生まれで札幌露清語学校に学んだ平塚常次郎の両名が、北洋・露領の漁業の問題で意気統合し明治39年新潟に堤商会を設立したことに由来する。

堤商会はその後大正9年に輸出食品(株)を合併し社名を輸出食品としたが、更に大正10年に日魯なる会社を合併し社名を日魯にし、本社を堤商会のあった日本橋小網町の儘に会長は堤、平塚は常務となり専らカムチャツカ等の北洋漁業即ち露領漁業を始めた。

因みに、往時の日本大手水産業は、日魯の外にトロール漁業の日水や林兼(大洋漁業)の鮮海漁業そして極洋の捕鯨漁業があるが、いずれも我が社の主要得意先となっていった。また一方堤は早くより缶詰事業に着目し水産講習所の伊谷教授の弟子、鍋島教官の指導を受け明治42年から露領で缶詰製造を始めていたが、大正4年には米国より高性能の製缶機械一式を輸入して函館に据え付け大々的に製缶事業に乗り出した。

因みにこの機械の輸入に際し輸出を渋るアメリカン・キャンを説得したのが高崎達之助であった。彼は当時米国の会社で缶詰事業に携わっており、後に東洋製缶(株)の社長になっている。高崎が明治39年水産講習所を卒業して缶詰事業修練の為米国へ赴くやうになったのも前記伊谷教授の示唆によるものであり、又高崎が米国より帰国後大正6年に独立するまで身を寄せていたのも前掲の輸出食品(株)であった。輸出食品(株)は鍋島教官が興した会社であり堤もこれに出資していた。

前記缶詰工場は大正10年に北海製缶(株)になった。その後函館の地元業者が共同出資し東洋製缶と北海製缶の助力も得て日本製缶(株)が設立された。(大正14年) かくて大手の製缶業界は 東洋製缶 北海製缶 日本製缶 の3社となった。斯く 堤清六と高崎達之助には漁業と製缶業と言う切っても切れない関係、明治の気骨事業家同志として緊密な関係が生まれていった。堤清六は政友会に属し大正11年に衆議院議員となったが、昭和4年疑獄事件に絡み議員を辞めると同時に日魯の会長も辞任した。

そして実質は平塚常務が取り仕切っていた。平塚は昭和13年に社長になったが、就任後暫くして第二次世界大戦が勃発し昭和17年には東条内閣によって水産統制令が下され、漁業会社も企業合同が急がれた。昭和18年に帝国水産統制(株)が設立されたが、日魯はその下の北太平洋漁業統制(株)を統合することとなった。この折衝の過程で各会社と東条の間を奔走したのが、日産コンツェルを率いる鮎川義助、その下で満州重工業副総監を勤めた高崎達之助であった。

やがて 昭和20年の終戦を迎へ日魯は露領漁業の全事業と在外資産の全てを失った。この間に平塚は事業の展開には是非政治の力が必要と感じ、昭和21年自ら函館から衆議院にでてその5月には吉田内閣の運輸大臣となった。平塚は社長を辞した。時の副社長であった河野一郎には政務多忙につき社長空席の儘二人の専務に代表権を与え会社を運営した。昭和21年1月 マッカーサーは公職追放のメモランダムを発する。河野一郎も6月には追放を受け、議員を辞して12月には日魯の社長に就任した。

やがて昭和25年10月には公職追放を解かれ平塚は相談役に復帰した。 昭和27には日魯としては待望の北洋漁業が再開された。同年平塚は再び北海道から衆議院議員に出馬、同28年には大日本水産会の初代会長となり再開した日魯の北洋漁業にも多大の貢献をした。平塚はその後日魯の会長となり、長く在任したが、社長は全て堤商会出身者によって受けつがれた。そして日魯はその間に従来の漁業専門の漁業会社から、食品分野や流通分野への多角化に転身を始め、多額の設備投資時代に突入したが、我が社が建設工事一切を設計施工特命で受注することとなった。


― つづく ―

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