テーマ:書き手:一阿さん

一阿の 「つらづら草」6

「♪ 朝日輝く神撫で(かんなで)の/清き姿を仰ぎつつ、/雄々し進まん君のため/雄々し進まん国のため♪♪ 」 長田尋常小学校の校歌です。事ある毎に生徒は声を張り上げて歌いました。(昭和8年)その頃は国の為 君の為は生活に密着してゐました。今の人はそれを軍国主義と言います。歌中 「神撫で(かんなで)」 とあるのは、前回書きました、…
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一阿の 「つらづら草」5

「うなでのさと」うす茶げたぼろぼろの冊子が出てきました。82年前の長田小学校・父兄連絡ノートです。そろそろ身辺整理をと、柳行李をひっくり返したら底から出てきました。 「うなで」は「雲梯」。 「雲梯の里」つまり雲に梯をかけて登る程高い山」のふもとの里、高取山の麓の長田小学校を指します。 播磨風土記の言葉らしいのですが「うなでのさと…
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一阿の 「つらづら草」4

仁兵衛さんのママ呼んできて・・・!」と伯母は大きな声を出します。これから麻雀が始まります。昭和7年頃は、親しいお母さん同士の麻雀なんてそうザラにはありません。「プチブル」と言う言葉が戦後学生達の間で流行りました。プチは「小さな」、ブルは「ブルジョア」の略で軽蔑の意味を込めてゐました。この麻雀会は正にプチブルの集まりです。もう一人は泉ちゃ…
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一阿の 「つらづら草」3

蒲田は昭和8年頃、駅前にはまだ原っぱが残ってゐました。そこでよくキチキチバッタや赤トンボを追っかけたものです。池上線の駅は勿論木造の小屋で、省線蒲田までトコトコ歩きました。雨降りには傘をさして、・・・。 省線と言うのは今のJRです。鉄道省の省をとって当時の人はそう呼びました。私は小学生でしたが、一年に一度母に連れられて、蒲田の伯母…
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一阿の 「つらづら草」2

一阿の「つらづら草」2 父の日記に、「文学でお国に奉仕したい。」とあったことを書きました。それは大正時代に生を受け昭和4年に旅立った27才の英文学者が「お国」と言ったのを、当時2歳であった息子がまだ生きてゐて、心を打たれたからでした。父の日記を見ると、「・・・自分の勤務先大谷大学に行って見ると、三高以来の友吉川幸治郎兄が文学部の教…
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一阿の 「つらづら草」1

1月7日は七草粥、薺粥(なずながゆ)の日でした。子供の頃、昭和10年ころでしようか、三宝に大きな丸餅を二つ重ね、白昆布に伊勢海老を添わせ、葉つき蜜柑をお餅の上に乗せてゆく母の手元を見ながら今年のお年玉は何十銭貰へるか胸をふくらませてゐました。床の間の柱には「まゆ玉」を付けた小笹の枝がめでたく飾ってありました。先日 デパートでマユ玉を売っ…
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一阿の 「澎湃寄する海原の」 14(最終回)

敗戦によって、わが国は 帝国海軍聯合艦隊と同じやうに教育の中枢まで撃破され、東京大学はGHQの連れて来たCIE(Civil・Information・and・aducationSection)の共産党どもにより、左傾化して行きました。 頭だけ優秀な人材は、司法 行政 立法の枢要な地位につき、実業・マスコミ・研究機関、また教育畑にば…
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一阿の 「澎湃寄する海原の」 13

聯合艦隊司令長官山本五十六は酷熱のラバウル基地で、連日純白の第二種軍装を着用し、出撃してゆく零戦隊員の一人一人に、心を込めて敬礼を送ってをられました。最初から勝てないと分かっている戦いに、軽薄な政治家や極右の人間や、何にも増してマスコミの無責任な煽動により、ドイツ病にかかったまま国家は、戦うことを決めてしまった。戦うと決めた以上、武人と…
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一阿の 「澎湃寄する海原の」 12

「澎湃寄する海原の大濤砕け散るところ」で、始まる「江田島健児の歌」は、「機(とき)到りなば雲喚(よ)びて、天翔け行かん蛟龍の、池に潜むにも似たるかな、斃れて後に止まんとは我真心の叫びなれ。」で終わります。 これは大正8年、兵学校創立50周年記念に第50期生徒神代猛男が作詞したのだと、初回に申しました。斃れてのちに、祖国の安寧を見守…
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一阿の 「澎湃寄する海原の」 11

前回は、伏見宮博恭王殿下の御生涯を少し詳しく書きました。それは、戦前帝国海軍が如何に、日独伊三国協定に反対し、開戦を阻止しやうと必死の努力をしたかを具体的に述べるためです。敗戦後、戦勝国の教育や宣伝を信じた日本国の知識層は軍隊と言うと戦争が好きで、まるで暴力集団のやうに思っていますが、そうではないのです。自分の国は自分で守る。全ての国は…
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一阿の 「澎湃寄する海原の」 10

「海軍軍人で政治に関与するのは、海軍大臣ただ一人である。」という言葉は 兵学校時代よく聞きました。青年将校達の最高の憧れは、連合艦隊司令長官であり、決して海軍大臣や軍令部総長ではありませんでした。 さて、 伏見宮博恭(ひろやす)王のことを知らなければ、昭和の日本海軍を理解することは出来ないとよく言われます。博恭王は、明治8年伏見宮…
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一阿の 「澎湃寄する海原の」 9

「Fleet in Being」 と言う言葉があります。戦前の帝国海軍が守ってきた考え方です。攻撃するのが目的ではなく、存在自体が国力であり国防になると言う考え方です。 僅か1年8ヶ月の兵学校生活では、海軍の幼稚園生で、とても戦前の深い帝国海軍の事情は語れません。ただ、戦後分隊会で話された野村実分隊監事(大尉・文学博士・「澎湃寄す…
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一阿の 「澎湃寄する海原の」 8

第一次世界大戦の後半、ドイツは国際法を破り、無制限潜水艦戦を宣言します。(1917年、2月1日)。 そして、モンロー主義路線を走って来たアメリカも、遂に対独宣戦を布告しました。(同年 4月6日)。日本はこの1週間後、地中海のシーレーン防衛の為、軽巡 明石 と駆逐艦8隻をマルタ島に派遣します。 この艦隊派遣の、政治的 外交的 軍事的…
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一阿の 「澎湃寄する海原の」 7

「見よ西欧に咲き誇る文華の蔭に憂あり。太平洋を顧みよ東亜の空に雲暗し。」 大正8年、海軍兵学校一号生徒 神代猛男 の作詞したこの歌は不思議に現代にそっくり当てはまるやうです。 神代生徒は50期で、兵学校創立50周年を記念して作詞したことは、前に述べました。大正8年と言うと、ベルサイユ条約で第一次世界大戦の結末が決まった年です。第一…
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一阿の 「澎湃寄する海原の」 6

短いブログの一節で「軍」について語るのは難しいですが、最近でも「軍」と言うと、余程優れた保守の論客でも、噛んで吐き出す口調で切り捨てるので、すこし思いを述べます。 一体この日本の国を誰が守るのだろう。樽俎(酒を酌み交わして話し合う)だけで、国が守れるのだろうか。アメリカに軍隊はないのか。中国に軍隊はないのか。それ程わが国の軍隊は無…
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一阿の 「澎湃寄する海原の」 5

その上、航空母艦「瑞鶴」には我が分隊監事 野村実大尉が乗ってをられた。分隊監事と言うのは、旧制一高に例えると北寮の寮長だった木村健康教授(後、東大名誉教授)のような存在、つまり我々分隊員の親父でした。 野村教官は彦根中学開闢以来の秀才。兵学校 71期 の次席。主席はこれも東京府立1中の伝説的な英才田結保大尉。 彼は前線から一時帰国…
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一阿の 「澎湃寄する海原の」 4

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。・・・さて、プーチンがやってきて、したい放題をし、言いたい放題を言って、帰って行った。安倍ちゃんも善くやったが、随分とやりにくかったろう。自国に軍隊がないんだもん。昔から樽俎折衝と言う。外交のことだ。相手の戦車の尖った角(つの)をへし折り、それから酒を酌み交わして交渉する。…
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一阿の 「澎湃寄する海原の」 3

旧制一高は、戦前 若者たちの知性の花園でした。 私の中学では、年に一名トップの生徒が入るか入らぬか。兵学校と一高へは、交代で合格しました。今年は一高、今年は兵学校と言った具合です。 勿論73期までの話しですが。兵学校は消滅し、旧制一高は東大教養学部として残ります。まあ言えば一高は「左の車輪」兵学校は「右の車輪」、国を導く実質的な両…
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一阿の 「澎湃寄する海原の」2

海軍兵学校の神代生徒が十八才で作詞した 「澎湃寄する海原の大波砕け散るところ常盤の松の翠濃き秀麗の国秋津島」を口ずさむと、いつも蕪村の 「稲づまや波もてゆへる秋津島」を思い出します。 有名なこの句は明和五年、讃岐から帰る途上、蕪村が舟から海岸線をうち眺め、詠んだものです。日本人には平安時代からずーっと大和島根に対する大らかな美意識…
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一阿の 「澎湃寄する海原の」 1

澎湃寄する海原の 大波砕け散るところ 常盤の松の翠濃き 秀麗の国秋津洲 有史悠々数千載 皇謨(コウボ)仰げば弥高し。 これは、戦前帝国海軍の士官を養成する海軍兵学校の歌です。大正8年 創立50周年を記念して、第50期の神代猛夫生徒が作詞しました。 江田島の海軍兵学校は旧制中学の4~5年生からゆきましたので、当時十…
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一阿の 「問わず語り」8 (最終章)

第一章で、降る雪や/明治は遠く/なりにけり(草田男) をあげ、昭和20年8月15日以前と以後では、いふにいはれぬ違ひがあると申しました。そして「問わず語り2」で、桶谷秀昭さんの「昭和精神史」の一読をお勧めしました。 日本は理屈の国ではなく、問わず語りの国です。戦前と戦後では、古木を斬ったときの年輪のやうな不思議な差があります。以…
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一阿の 「問わず語り」7

先月3日に阿川弘之が亡くなりました。しかしマスコミは何故かあまり取り上げませんでした。 連日、芥川賞をとったピース又吉のことで持ちきりです。勿論悪いことではありません。ただマスコミの本質がよくわかります。 阿川尚之(慶大法学部教授)は長男で、著書「海の友情」は戦後海上自衛隊と米国海軍の関係を書いて海上自衛隊の功績を紹介しました。こ…
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一阿の 「問わず語り」6

散る花は/かずかぎりなし/ことごとく/光をひきて/谷にゆくかも。 上田三四二(大正12年)の和歌です。西行のやうに、吉野が好きで、この和歌も吉野で詠みました。飯田龍太とも仲の良かった三四二(みよじ)の和歌は日本人の心の奥にある「あわれ」を誘います。 「もののあわれ」は歴史とともに吉野の奥に眠っています。那珂太郎(大正11年)は…
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一阿の 「問わず語り」5

戦後70年と言うが、戦前70年はどんな時代だったのか。「それは、明治八年、西郷隆盛が城山で自刃し、西南戦争が終結する二年前だ。」と教えてくれる人がいた。 爾来 明治政府は大日本帝国憲法を制定し、三権分立の近代国家を立ち上げ、国民の凄まじいエネルギーで日清、日露の戦いに勝利し、第一次世界大戦を経て、世界三大海軍国にまで成長した。帝…
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一阿の 「問わず語り」4

蛸壺や/はかなき夢を/夏の月 「笈の小文」にある芭蕉の句であることはご存知の通り。明石の人丸神社の石碑に記されている。 私は若い頃明石の隣の人丸にいたので、此の石碑を毎朝見て会社へ通った。夏になるとこの句を思い出す。明日の生命も知らない蛸の夢が哀れを誘う。日本人は皆まで言わない。問わず語りに相手に伝へる。俳句は特にそうである。…
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一阿の 「問わず語り」3

第二次世界大戦の敗戦国でその国の根幹をなす文化までいらい回されたのは日本だけだ。独・伊は彼らと同じ一神教(キリスト教)の国だ。彼等の文化や教育には手をつけなかった。然しわが国に対しては国語にまで関与し日本人の心の中心である神道の権威まで足蹴にした。マスコミは元総理森喜朗を批判するのに彼は「神国日本と言った。」とあげつらう。過日、こともあ…
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一阿の 「問わず語り」2

米国は日本人の性情を実に詳しく調べ上げていた。権威に対して非常に弱い。その教育制度は東大を頂点に実に整然とヒエラルキーが出来ている。東大を落とせば後は右へ習えだ。東大を変えれば日本は変わるかも知れない。子どもの心を変えて行けば日本のこの頑強な祖国愛や大和魂や天皇崇拝の国体を変えられるかも知れない。そして東大から保守中庸の教授を追い出し共…
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一阿の  「問わず語り」1

降る雪や明治は遠くなりにけり。 草田男の懐かしい句だ。大正も遠くこそなれ梅香る ―黙魚(那珂太郎)― 。最近は昭和もレトロに入るらしい。 とにかく明治 大正 昭和・平成と近代国家として日本は続いてきたが、昭和20年8月15日 以前と以後では歴然と違うものがある。どこが違うと聞かれても上手く言えない。古木を切った時のあの年輪の密度の…
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一阿の 「九太郎の遺言」 4

(九太郎は自社を育んだ恩人像の二番目に高崎達之助を挙げている。) 2. 高崎達之助について 高崎達之助は明治18年 我が社の創業者と同じ大阪府高槻に生まれた。大阪の名門府立四中、今の茨木高校を主席で卒業し水産講習所に入り、明治39年優秀な成績で卒業した。 5年ほどある水産会社で働くうち、缶詰めの事業に興味を覚え…
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一阿の 「九太郎の遺言」 3

***** (一阿註・物事には良い面と悪い面があります。個人にも良い面と悪い面があります。国家にも良い面と悪い面があります。ところが、今の風潮は国の悪い面だけ取り上げて、一向に良い面を考えようとしません。人権を最高において国家を無視します。 それは何故かと言うと、国際政治の中で日本が戦争に負けたからです。勝った国は、ゾーッ…
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