九太郎の「憂国の詞」-第九回- 「終戦と云う敗戦-後編-」 9/11

②.満州事変

昭和6年9月18日午後10時20分頃、奉天北方約7.5㎞の柳条湖で当方の南満州鉄道の線路が破壊されました。 

実は此の工作は前記関東軍参謀の板垣征四郎大佐と同石原莞爾中佐が首謀して行われたもので、関東軍は直ちに近くの張学良の宿営の北大栄を占拠し翌日までに奉天、長春、栄口の各都市を占領しました。 

此の時に一人北京に在って実権を握っていた張学良は之を日本軍の挑発と受け止めて国際世論を背景に平和解決を望んだと云う事は、折から勃興して来た中国共産党等への対策に余念が無く、更には戦闘に自信がなく、寧ろ米国の支援に確信を持っていたのでしょうか3日後の21日に国連に提訴しました。

一方の日本軍部は19日午前7時に陸軍省、参謀本部の首脳会議を開き、小磯軍務局長の「関東軍今回の行動は至当の事なり」との発言に一同異議無く兵力増派を提議し之の閣議提出案を決めましたが、同日10時よりの閣議で時の陸軍大臣の南は関東軍増援を提議できず反対に事態不拡大の方針が決定されました。 

そこで陸軍の作戦課では「事態不拡大の閣議決定には反対しないが、関東軍の機宜の措置は拘束しない」と云う「時局対策」を策定し南陸相や金谷参謀長の承認を得ました。

関東軍兵力の総数は前記の通り非常に劣勢であったので林銑十郎朝鮮軍司令官は19日、取り敢えず飛行隊2個中隊を派遣し引続き混成旅団の派遣を計画し軍部は天皇の奉勅命令を受けようとしましたが之が若槻首相に遮られ、結局は21日に林朝鮮軍司令官の独断の形で混成第9旅団に満州への進撃が開始され、翌22日の閣議では出動したからには致し方ないと事後の形で承認され、更に之に関する経費の支出が議されて正式の派兵となりました。

此の派兵を受けて関東軍は北部満州へも進出し翌昭和7年の2月にはハルピンを占領しました。斯くて軍部の独断専行により始まった満州事変は、前述の陸軍による陸軍大臣の撤収権、即ち内閣崩壊権をちらつかせ乍ら軍の先行を以て満州の略々全域を制圧しました。即ち政府では21日の閣議により之を事変と見做し、24日の閣議で「不拡大」の方針を決めていました。

その間にはアメリカのスティムソン国防長官は日本に対し戦線不拡大を要求しましたが、之を受けた日本の金谷陸軍総長の命令が届く前日の6年10月8日、石原の率先指揮の下に爆撃機12機を以て錦州攻撃を始めスティムソンの激怒を買い幣原の国際協調主義外交は一頓挫しました。 因に錦州は満州の支那との境界の万里の長城に近く、奉天を撤収した張学良は此処に拠点を移していました。

因に日本軍は陸戦規定を守り略奪を働く事なく張学良の個人資産には手を付けず、予て学良と親交のあった関東軍の本庄繁は事変後に奉天に残された学良の財産を貨車2両に積み、北京に逃れていた張学良の許に届けましたが学良には受け取りを断ったもののその荷物の行方は分からなくなりました。


(続く)

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九太郎の「憂国の詞」-第九回- 「終戦と云う敗戦-後編-」 8/11

⑵.満州事変

①. その背景

張学良は蒋介石の失権・失地回復政策に迎合しその矛先を先ずは北満のソ連権益に向け、共産党狩りと称し昭和4年にソ連のハルピン総領事館に手入れを行い総領事と館員30名を逮捕し、同じく東支鉄道に軍隊を配置し管理局長と高級職員を追い出して占拠しました。 

そこでソ連は国交断絶の上で軍 隊を出し中華民国軍を撃破して東支鉄道全部を占領してハバロフスク議定書を結び東支鉄道と周辺の行政を一手に握る事となりました。(中ソ紛争)その後ソ連は中国共産党を支援し、東満州にも共産軍の遊撃区を作り反日闘争を展開しましたが、斯くて東満州は共産バルチザンの暴動の巷となりました。 


彼らは数十名の単位で行動し放火、略奪、暴行を働き昭和6年にかけて100件を越す事件を起こしました。 中でも最大のものは昭和5年の間島での劉少奇統制下の満州省委員会の指令により起こった暴動で、総勢5000人に及ぶバルチザンにより日本領事館、停車場、機関車、電灯公司、鉄道などに放火して市街戦を起し日本眷属たる朝鮮人44名を殺害しました。

そして更には新京付近の満宝山で農耕していた朝鮮人が支那人に襲われる等、昭和3年より5年にかけての2年間の朝鮮人との紛争事件は約100件に上りました。 因に朝鮮、特に北鮮は古くより満州とは縁が深く日朝併合前の李朝末期の干魃と饑饉からは多くの朝鮮人が満州に移住し、特に間島では60万人に達していましたが之等朝鮮人は支那人から差別され、昭和6年に国民党は遂に朝鮮人駆逐令を出し之に抵抗する朝鮮人は悉く投獄され、奉天監獄には500名を越す朝鮮人が入れられていました。 因に故北鮮首席の金日成はこの共産バルチザン出身と自称していた事は嘗て朝鮮移民を虐待していた者とも考えられます。

斯く蒋介石の失権・失地回復政策に迎合して行ったソ連追い出しに失敗した張学良はその矛先を南満の日本権益と日本人に向け、国民党と連合して反日闘争を展開する様になり軈て満州は事実上の無政府状態に陥りました。

先ずは条約により禁止されていた満鉄の平行路線を設けて満鉄経営を窮地に追い込み、更には貨物3000両の破壊等の甚大なものを含め信号所を襲撃する等の運行妨害や盗難等が昭和6年までに約400件に上りました。

そして且つ満鉄の附属地には柵を巡らし通行口には検問所を設けて物品の出入りには課税を行い、更に昭和6年には、嘗て日露戦後の日清前後条約により正当な許可を得た日本企業は満鉄用地外でも営業出来ていたものを一方的な取消や警察の事業妨害により経営不振が続出し、例えば奉天市内に百数十戸あった日本人街は20戸前後迄に減少しました。

更には炭鉱、石炭の採掘権の否認とその輸送制限等々、斯くて昭和6年までの満鉄関係への妨害件数総計は約400件、関東庁警察で扱った沿線事故件数が約1300件、日本企業への不当課税および圧迫が約400件、朝鮮人圧迫が約100件に上りました。

斯くて当時の満州は北半分と西部はソ連に抑えられ、北部、東部はソ連の支援する共産バルチザンの跋扈の巷となり、日本のポ-ツマス講和条約により与えられた南部地区は、国民党と連合しアメリカ等の外部勢力の支援を得る張学良軍により、日本の防衛生命線である満州は無秩序の状態の所へ更に同6年6月、満州西部の大興安嶺を視察していた陸軍参謀の中村大尉が張学良配下の駐屯軍に拘束・殺害される事件が起きて日華間は緊迫しました。 

因に国民党に呼応する張学良私兵軍の総力は22万人に達し更にフランスより購入した航空機や戦車も有し、多数の日本人(朝鮮人を含む)は生命さえ脅かされ、之に対する我が関東軍の勢力は約1万3千で航空機も戦車もありませんでした。 因に此の22万人の兵力とは嘗て日露戦争で奉天総攻撃に要した日本兵25万人に匹敵する数字でありました。

此の情勢に危機感を感じた陸軍内部では、昭和6年3月に建川参謀本部第2部長を委員長として陸軍省の永田軍事課長、岡村課長、参謀本部の山脇課長(同8月東条課長に代わる)、渡欧米課長、重藤支那課長の所謂五課長会議により1年後を目途に満蒙で武力行使を行う「満州問題解決方針の大綱」が決定されました。 一方の関東軍では昭和3年より関東軍に配属の作戦参謀の石原莞爾、同4年配属の高級参謀の板垣征四郎の両名を中心に策が巡らされました。

時の外相幣原は「支那人は満州を支那のものと考えているがあれは何れロシアのものとなる。 日本は領土権を主張するものではなく相互友好の上に満州に居住し、経済開発に参加できればよいのであって之は少なくも人道的要求である。 中国が日本の南満鉄道に競争線を建設できないことは信義上自明の理である」と英米との国際協調により中国政府に既存条約の尊重を求めようとし、米国のマクマリ-駐中国大使も同様の方針を本国政府に訴えましたが、国務省内の親中派のホ-ンベルク極東部長により日本の協調路線は退けられました。 斯く米国の満州への関心は益々深くなっていました。



(続く)

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九太郎の「憂国の詞」-第九回- 「終戦と云う敗戦-後編-」 7/11

B.満州国の建国

⑴.清国建国以来の満州の状況、及び張作霖、張学良について 

先ず当時の満州とは、現在の中国の遼寧省(奉天省)、吉林省、黒竜江省の所謂東三省と内蒙古自治区の一部で成る155万㎢の日本の約4倍の地域を申します。

満州の殆どは元々満州族の居住地でありましたが、満州族の清が1636年に沿海州や内蒙古の一部と共に支那をも征服し都を北京に移すに伴い、多くの満州族が南の漢族の地へ移住しましたが反対に漢族の満州への流入は禁止(封禁政策)されておりました。 所で清はそのご200年を経た1840年のアヘン戦争で英国に破れて以来権勢が衰え、封禁政策が廃止されて多くの漢族が肥沃な満州に開拓者として移住して来ました。

所でそれまでの満州は八旗制と云う清独特の社会・軍事組織により統御されていましたが、前記清の権勢の衰えと共に八旗制が形骸化して行く中で、前記開拓地の常として官憲の支配が行き届かず無頼の盗賊(匪賊、土賊) に悩まされた為に自衛の騎馬武装集団が各地で作られました。 之が所謂馬賊であり、その内部では厳格な統制の下に行動しましたが、自らの縄張外では盗賊団と変わらぬ行為もする所謂嘗ての日本の任侠の徒の如き集団でありました。

その馬賊の一人に張作霖と云う者が現れましたがその父は河北省の貧農の出身で前記開拓者の一人として肥沃な地を求めて満州に渡った者と云われ、斯くて張作霖は満州族ではなく漢族であります。 父とは早く死別した張作霖は吉林省に出て当時横行していた馬賊の頭目となりました。

扨て、一馬賊の頭目となった張作霖は日露戦争中には当初はロシアのスパイとして活躍しましたが後に日本側のスパイとして寝返った如く、誠に機を見るに敏な野心家でありました。 日露戦後は一応は清朝に帰順し、中央より都督として派遣の趙爾巽に取り入って表向きは2000名程度の軍の部隊長となりましたが、その裏では益々多くの馬賊を集め隠然たる勢力を培って参りました。

此の時期の満州は前記漢族の移入に加え、ロシアが明治27・28年(1894~5年)の日清戦争後の所謂三国干渉の代価として獲得した満州の東清鉄道および南満州鉄道の敷設権と遼東半島の租借権、之が更に明治37・38年の日露戦争により清国の承認の下に日本がロシアより獲得した前記南満州鉄道の新京~大連間の権利と遼東半島の租借権の取得等々の過程の中で急速に開発が進みましたが一方では夫等の利権の摩擦による紛争も激しくなりました。 因に前記南満鉄道の権利には撫順、煙台の炭鉱等の経営と共に鉄道附属地の一般行政権と、鉄道10㎞当り15名の駐兵権を与えられていました。

その間の明治44年に清朝は袁世凱の策略により滅ぼされ、袁世凱が臨時大統領となっていましたが大正5年の袁世凱の死去と共に、表と裏を巧みに使い分ける野心家・張作霖は策略を以て奉天省の、更に大正8年には黒竜江省、吉林省の支配権も配下に治め、奉天派の張作霖ではありますが「満州王」として君臨しました。

その後は満州王の張作霖は中国内地に出向き諸々の軍閥と闘う内に欧米勢力に取り入り、南京で中華民国総統に就任していた蒋介石の国共合作した北伐軍を敗走させ、斯くて張作霖は遂に大正15年に北京で自らに大元帥に就任し中華民国の主権者であると宣言しました。 

但しその間には張作霖に対峙する奉天派の郭松齢が蜂起して満州は兵乱の巷となりましたが、日本は在留法人の保護の為に増兵して張作霖を支援して之を平定し辛うじて満州の安定が保たれる騒ぎがありました。

更に又張作霖は昭和2年の南京事件を契機に奉天軍を以て北京のソ連大使館を家宅捜索しロシア人、中国人80名以上を検挙していますが之は満州の共産化を防ぐ処置でもあり、斯くて張作霖は共産党を最も嫌う一人でありました。

所で昭和3年に至り蒋介石は共産軍と別れて国民革命軍を起し、斯くて欧米の支持も取付けた上に周辺の軍閥も勢力下として再度北伐を始め、軈て孤立化した策士・張作霖は蒋介石の北伐軍に敗退しました。 時に日本は、蒋介石からの「満州には侵攻しない」との言質により張作霖を支持しない事としました。

因に当初は親日派であった張作霖は、そのご欧米からの支援を得ようと日本との距離を取り始め、アメリカの力を背景に満州の排日状況を取締まる事なく、更には之等資本の提供を受けて満鉄の平行線の建設を始め日本との関係は悪化していました。 因に日清間で定めた条約により満鉄との平行線の建設は禁止されていました。 そして更には日本による満鉄(南満)の支配を快く思わない外国勢力が有ったと云うことであります。

斯くて張作霖は古巣の奉天に戻る事となりましたが、時の首相の田中義一は尚も張作霖の利用価値を認め満州で再起させる事を考えていたに反し、掛かる日和見の馬賊頭領の再来を嫌う関東軍はその参謀の河本大佐の判断として奉天郊外で列車諸共に爆殺しました。 時に昭和3年、軈て此の事件の真相解明に当った日本政府は関東軍の参謀の河本大佐の独断行為であると判定するも曖昧に放置する中で、天皇の不快を受けた田中義一内閣は崩壊しました。 

慮るに参謀組織を天皇に直轄させた由縁は、時の一政府の思惑により軍を動かせなくする為であって、天皇直轄の名の下に政府を無視する参謀の独善を許すものでは無い事を指摘されたものでありましょう。 因に此の田中義一内閣以来、陸海軍大臣は夫々軍の推薦制となり、斯くて総理は軍の意向に反して陸海軍の大臣を任命できず、かつ陸海軍が大臣の推薦を拒否すれば組閣は不能となる事となり、軍が内閣の生殺与奪の権を握る事となっていました。

所で此の張作霖の爆殺について、特に昨今の日本の進歩的人種が異なる観点から兎角に申す者がおりますが、先ずは蒋介石においてはその爆死を歓迎したでありましょうし、当時の世界においても一応の批判をするに止まりました。

所がその張作霖の長男の張学良は、之により以後は強い反日感情を秘めて行動をする事となり、斯くて張作霖爆殺の影響を受けたのは皮肉にも日本でした。張学良は1901年(明治34年)生まれで父の張作霖の死亡時には27才となっていました。 父の創設した軍幹部養成学校である東三省講武学堂の1期生とし19才で卒業し、父親の七光りにより直ちに旅団長に任ぜられ而もその年末には陸軍少将に任ぜられ軈て父・張作霖に継ぐ実力者となった一方では、その後に女色と麻薬に溺れる始末でした。 父の爆死後は一応は父の支配地域の満州の全権力と遺産を承継する一方で、青天白日旗を掲げて北京に駐留する蒋介石の国民政府に服属を誓って之の満州への軍事、政治の不干渉を確認する一方では、硬化する日本への軟化政策にも留意する等の八方美人的な活動の中で、軈て国民党系軍閥の紛争に介入したりして河北省を制圧し蒋介石に取り入り、此処も新たな地盤として抗日活動に専心する事となりました。 

因に張学良は幼い頃より英会話を身につけその後に軍閥の頭領としてはただ一人の英語の使い手となって国際的な交渉にも携わる等して蒋介石夫人の宋美齢にも取りいる事となりました。

更に玆で大切な事を記して置きます。 張作霖、張学良軍閥は満州を支配したものの軍隊は凡て私兵であり、行政官、外交官も家臣であり、斯くて税収は凡て張作霖、張学良個人の財産となった事であります。


(続く)

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ウ.軍部の変遷

当初の兵部大輔には長州藩下級士族の長男である山県有朋が就任しましたが、之が翌明治5年には陸軍省と海軍省に別れ、陸軍大輔には山県有朋、海軍大輔には薩摩藩士の川村純義が就任し、続いて明治6年には徴兵令が施行されて国民皆兵制となり、明治11年には参謀本部が設けられて軍政と軍令が分離され、之が更に同36年には陸軍参謀本部と海軍軍令部に分けられました。 

玆で今後の記述への理解を深める為に此の参謀本部なる組織について説明をして置きます。

明治憲法では天皇の統治権の総覧の下に現在と同じく行政府たる内閣、司法を司る裁判所、そして立法府たる議会があり、議会には貴族院と衆議院がありました。 因に貴族院とは皇族、華族、勅撰議員、そして多額納税者より成り立っていました。 

所が天皇直属機関として更に之等に加えて枢密院と参謀本部がありましたが、枢密院とは所謂元老による重要な国事を審議する最高の諮問機関、参謀本部とは政府機関の陸軍省や海軍省とは独立する天皇の統帥権に直属した徴兵を含む軍の運用の一切を司る機関でありました。   


(続く)

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イ.政界の変遷

一方その間の明治6年の政変により野に下った板垣退助は自由民権運動を起して藩閥政治に対抗し、軈て之が国会期成同盟を経て明治15年には自由党の結成となり、同時に大隈重信が立憲改進党を結成しました。

斯くて明治22年には大日本帝国憲法が発布され、翌明治23年には第1回総選挙が挙行されましたが総議席300の内で自由党が130、改進党が41と野党が計171となり政府系吏党に圧勝しました。 

因に選挙の有権者は直接税納税額15万円以上の男子とされ国民の1.1%に過ぎませんでした。 斯くて明治23年に第一回の帝国議会が招集され、衆議院が予算の先議権を持つ事となりました。

因に此の選挙制度は普選に向かって着々と改正され、有権者の資格は明治23年には納税額が10万円以上となり資格者が2.2%と増加し、之が大正8年には3万円以上、同5.5%、大正14年には納税額での制限無しとなり有権者は国民の20.8%となり玆に普通選挙法が完成し、社会運動は高まり民主主義の実現を求める動きが発展しましたが、之をしも大正デモクラシ-と申します。 

但し一方では治安維持法が制定され、ソ連の誕生に伴い発生した共産主義運動への弾圧が強まりました。

斯くて政党が勢力を伸ばし大正5年には憲政会総裁加藤高明が本格的な政党内閣を組織し、昭和7年に後述の五一五事件で犬飼内閣が倒れるまで16年間は政党政治が続きました。



(続く)

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⑷.扨て最後に我国の特に産業や政党と社会運動の変遷、そして大正、昭和にかけての特に陸軍(参謀本部)が政治を壟断するに至った過程につき記述します。

ア、経済界の変遷

日清戦争後の我国では主として紡績等の軽工業が、日露戦争後は主として重工業が発展しましたが同時に政府と繋がる三井、三菱、古河などの財閥が勃興し、特に第一次大戦後は所謂大正謳歌の時代となりました。 そして嘗て赫々たる戦果を残した軍人も、軍縮と大正ロマンの中でひっそりと暮らす世となりました。

然し軈てはその反動とする労働争議か活発となる中に大正9年には米国の綿糸相場暴落の余波を受け株式の大暴落となり、更に大正12年の関東大震災を受けた後に世は昭和となり、昭和2年には大蔵大臣の失言を契機に金融恐慌となり鈴木商店が破綻しました。 

そして之を機に金融は三井、三菱、住友、第一、安田へ集中し、その結果は財閥による産業支配が確立する事となりました。 一方で第一次大戦の中で欧米諸国は金輸出禁止を余儀なくされましたが戦後は解禁に踏み切った所、日本のみは禁止を継続した為に為替相場は不安定化し、大正8年以来貿易赤字が続いていました。 

そこで浜口内閣は財政緊縮、消費節約、産業合理化と進める中の昭和5年に金輸出解禁に踏み切りました。

所で昭和4年にニュ-ヨ-クで始まった史上最大と云われる恐慌が日本に波及し、折からのデフレ政策も加わって昭和恐慌が始まりました。 そして更に之に加え昭和6年、7年と東北、北海道地方が大凶作となって庶民の生活は破綻し、都市では労働争議が、農村では小作争議が続発する世相となりました。



(続く)

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九太郎の「憂国の詞」-第九回- 「終戦と云う敗戦-後編-」 3/11

⑶.次にその後の支那の変遷について述べますが、その前に漢民族と満州族の相違についても説明して置きます。

中国は目下五族共和政策を採っていると申しますが、五族とは漢民族、そして満州族、蒙古族、ウイグル族、チベット族であるとされます。中国ではその他政府が認定しているものを合わせると総計で55の少数民族を支配しております。

斯くて満州族は元々漢民族とは異なる民族であります。 即ち12世紀の初めに満州地方一帯に女真族が金と云う国を建国し、沿海州から北鮮の一部そして北支一帯を制圧しました。 然しその後に勃興した蒙古族の元が金も併せた支那全土を征服しましたが、軈て元は崩壊し支那は漢民族の明の国となりましたが之と同時の1616年に、女真族はホンタイジを首領として満州の地に後金と云う国を建国しました。 此のツング-ス系の女真族が満州族であります。 

所で後金の第2代ホンタイジは内モンゴルを併合して清と名乗り、更に第3代の順治帝は1636年に明を滅ぼした李自成を倒して支那(漢民族の国)を支配し、斯くて満州族である清は、支那、沿海州、モンゴル、チベット、台湾と云う具合に、支那と云う舞台に出現した政権では元と共に歴史上で最大の版図を作り上げました。 

そして特筆す可きは此の元と云い清と云い漢民族にとっては万里の長城の外の地を起源とする漢民族にとり夷狄の民族でありました。

所で清は18世紀末より衰退を始め、更に1840年(徳川12代家慶時代)の英国とのアヘン戦争での敗北以来は国力を弱め、更に1896~7年の日清戦争に敗れて世界に馬脚を晒してからは英、仏、独、露の利権の草刈り場となりました。 

その後の1906~7年の日露戦争の後に漢民族である孫文が、「漢民族」の独立を柱とする三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)を唱えて辛亥革命を起し1912年(大正元年)に中華民国を興して臨時大統領となりました。 

そこで清は嘗ての北洋軍大臣で失脚中の漢族である袁世凱に命じて革命政府との交渉に当たらせましたが、袁は巧妙な政治的綱渡りを行い反対に革命政府と密約を交わして自らが臨時大統領となり清の宣統帝(溥儀)を退位させ玆に清朝は滅亡しました。 

因に清朝最後の皇帝である前記の溥儀は、暫くは皇居の紫禁城に留まっていましたが軈ては日本の天津租界に匿われました。

然しその後に大統領となった袁ではありますが軈て失脚し、1916年(大正5年)に病死した後の支那は、夫々に列強の支援を受けた軍閥が各地に割拠して分裂状態に陥りました。

所で満州で日本軍と巧みに与して馬賊から身を興し満州全土を支配していた奉天軍閥の張作霖が、軈て長城を乗り越え中原の覇王たらんとの野望に燃えて北京に乗り込んで数々の確執を経て1926年(大正15年)に大元帥と名乗る事になりました。 

因に張作霖は満州の遼東の地に出生したもののその祖父は河北の河間府から肥沃の土地を求め長城を越えてやって来た漢族貧民の子息であります。 

所で先述の如く革命政府を袁世凱に阻まれた孫文は、既報の通り1919年に広州の地に別途に中国国民党を組織しましたが6年後に死去しました。

そこで彼の意志を継いだ蒋介石が、1926年(昭和元年)に広州に国民革命軍を組織して北伐を続けて南京に国民政府を樹立した上で尚も北伐を続けました。 

所で張作霖にはその後の1928年(昭和3年)、蒋介石の北伐軍との戦闘に敗れて奉天に引き上げる事となりましたが、その列車は奉天直前で列車毎に日本軍の手で爆破されて死去しました。 

蓋し日本軍には掛かる北京での曲折を抱える嘗て満州を支配した馬賊が、再び満州の地に入り満州を乱すのを嫌ったのでしょうか。

斯くて南京を拠点とする蒋介石は直ちに北京に入って之を配下に治め嘗ての漢民族の地を略〃回復したかに見えたのですが、一方でコミンテルンの指導下で1921年に組織された中国共産党が、国民党との紆余曲折を経てその後の1931年(昭和4年)に江西省の瑞金の地で毛沢東を首席とする中華ソヴィエト共和国臨時政府と云う共産党臨時政権を樹立しました。 而しその後は蒋介石軍に追われ遂にはソ連に近い陜西省の延安に逃げ延びました。

斯くて1912年(大正元年)の清朝滅亡後の支那は内戦続きの状態で、統一国家とは申されない状態が続きました。 そしてその間に中国の無垢の民が受けた人的損害は実に約5000万人と云われています。

斯くて私が先に申した国家の成立要因、即ち先ずは国民、次には国土、そして統治の3要因に照らして支那の過去1000年を振り返りますと五つの王朝が交代しておりますが、漢民族の王朝はその内で僅かに宋と明の二つ、その他は蒙古族の元そして満州族の金と清の三つ、そして之等に包含される国土や国民も夫々に自在に多様化され、之が所謂支那と云はれる国家であります。 斯くて私共が支那とは只に漢民族の国家であるとの通念を持っているのは誤りであります。                                                                      

(続く)

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九太郎の「憂国の詞」-第九回- 「終戦と云う敗戦-後編-」 2/11

⑵、次にロシアの国情について触れて置きます。
 
皇帝ニコライ二世の時代の明治37・8年(1904・5年)、日本はロシアとの日露戦争を戦いましたが、その後1917年(大正6年)の社会主義革命によりロシア帝国は崩壊し、レ-ニンを指導者とするソヴィエト社会主義政権が誕生しました。 

その後の1924年(大正13年)1月のレ-ニンの死後は後継者を巡りスタ-リンとトロッキ-が争いましたが同5月に決着しスタ-リンの長期政権が確定し安定しました。                  

因にロシア革命により共産主義の侵入を恐れ、日本はアメリカ等の列強と共に主として沿海州に1918年(大正7年)より1922年まで出兵しました。 

然しその後のソ連は第1次、第2次の5ケ年計画を経て昭和の初頭から急速に国力を回復させていました。                                                            

扨て之とは別に、ロシアが清から施設権を獲得して自ら施設した東清鉄道の残存部、即ち西のソ連との国境駅の満州里からハルピンを経て東のソ連との国境駅の綏芬河へ至る本線とハルピンから南下して大連に至る支線の内、日本に譲渡した新京・大連間を除くハルピン・新京間の路線の経緯について説明して置きます。 

日露戦争によりロシアが敗退した後もロシアは前記東清鉄道の残存路線を保有しその後の辛亥革命後も東支鉄路と称し、更に1917年のロシア革命によりソ連となるもその利権・運営は1924年(大正13年)の北京協定、そして張作霖との奉ソ協定を締結してその利権は継続しておりましたが日本は只に之を傍観しておらざるを得ませんでした。 

但し1932年(昭和7年)の満州国成立後の1935年に、東支鉄路はソ連と満州国の合弁事業となった後に軈てソ連は日本との衝突を避ける為に之を満州国に売却し満州国有鉄道となって経営は満鉄に委託され、斯くて満州国の成立を俟って漸く北満州のソ連の利権は無くなりました。 


(続く)

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九太郎の「憂国の詞」-第九回- 「終戦と云う敗戦-後編-」 1/11

都合により暫くお休みしていました「憂国の詞」の第九回として以下に「終戦と云う敗戦-前編」に続く「後編」を記述して参ります。  

●満州国建国への「義の概念」                      

A.満州国建国に至る迄の世界の背景の変化について概括しておきます。 
   
⑴ 先ず米国であります。
 
北米大陸の東岸には早くより英国からの移住者が住み着いており、長い独立戦争の末の独立宣言を経て1783年(徳川10代将軍家治時代)のパリ条約でアメリカは正式に独立しました。 

以後は西へ西へと延び、その後の1848年(徳川12代将軍家慶時代)にメキシコとの戦争でカリフォルニアを併合して遂に太平洋岸に達しました。

斯くて太平洋に顔を出したアメリカは更に1867年(徳川15代将軍慶喜時代)にはミッドウエ-を、そして永い経緯の末の1898年(明治31年)には遂にハワイを、更に同じ1898年にはスペインとの米西戦争の結果としてグアム、フイリッピンを手中にして着々と太平洋、そしてその先の支那大陸へ焦点を当てる事となりました。 

ペリ-の日本来航はその間の1853年であります。 

一方此の間にアメリカではヨ-ロッパからの移民の急増、1869年の大陸横断鉄道の開通、斯くて1890年代には世界最大の工業国となっていました。                                     

此の様な世界情勢の中に日本は、明治37年(1904年)にロシアと対立する英米と先ずは日英同盟、そして米国の経済支援の約束の下にロシアに乾坤一擲の宣戦布告をして日露戦争が始まりました。 

そして日本は連戦連勝を続けましたが体力を使い果たし、明治38年には米国のル-ズベルト大統領に講和の仲立ちを依頼し、敗戦を認めぬロシアを説得して貰い漸く米国のポ-ツマスで、戦勝国の体面を以て講和条約を締結して日露戦争は終結しました。

その講和条約の中に、ロシアが清国から借りていた関東州(旅順、大連等)の租借権と、ロシアが満州支配の為に施設した東清鉄道の南半分、即ち長春(新京)と旅順間の鉄道即ち南満州鉄道の権利を、夫々清国の承認の上で日本に譲渡する事となりました。                         

所で日本は外債を含めて膨大な戦費を使い果たし最早や此の鉄道を維持する資金の見通しが立たない所、外債の借入先である米国の鉄道王のハリマンより資金提供と南満州鉄道の共同経営の話が参り、桂太郎首相や元老の井上薫、そして多数の政財界人も挙げて大賛成の中に協定締結の約束をしました。 蓋し当時の日本は経済状態もさること乍ら、最早や一国で広大な満州(南半分)を守る自信がなかった状態でありました。

所が講和会議を終えて帰国した外務大臣で且つ講和の全権大使である小村寿太郎はこの話に猛反対し、結局はハリマン提案は不成立に終りました。 

蓋し小村寿太郎には多額の戦費と数十万の兵士の血と汗で獲得した権利を外国に売り渡す事は、折から起こった国民大衆の軟弱講和反対の集会の末の焼討事件、更には小村邸への直接攻撃に怯んだのでありましょうか。 

一方で米国には夙に支那への発展の願望があった所、当時の支那は既に凡て英佛、独等の欧州勢による利権と化し、今更アメリカの入る余地はなく斯くて満州へと目を向けたのでありましょうか。

斯くて日露戦争では日本に肩入れして参った米国ではありますがこの時以後は日本を目の上の瘤の仮想敵国と見做し、之に黄色人種への差別も加わり「オレンジ計画」なる暗号の下に日本への対抗策が始まりました。 

その趣旨を端的に申すと「日本は大陸での野望を果たすには必ずアメリカと海軍力での対決となる」と云うものでした。 斯くて先ずは米国内での日本移民の排斥運動が始まりました。

皆さん! 此の時に世界最大の工業国である米国と組んでいたならば、日本の歴史、更には世界の歴史は全く別の道を歩んだ事でありましょう。

蓋し私が先述の「外交とは7割が打算の産物」と云う事でしょうか。斯くてその後の日本は、膨大な債務の返済の為の重税と満州の権益の維持に苦しんだのであります。

因に日本は当時の満州の利権を守るために旅順に関東都督府に陸軍部を置いていましたが、大正8年に関東都督府が関東庁に改組されると同時に関東軍として独立しました。 

当時の勢力は独立守備隊6個大隊と内地より2年毎に派遣される駐剳1個師団の小規模の軍でありました。                                                   

その後日本は第1次世界大戦に参加してドイツに宣戦布告をして戦いました。そして1919年(大正8年)のベルサイユ講和条約によりドイツの支那の山東省の利権を継承した外に赤道以北のドイツの南洋諸島を、折から設立された国際連盟から信託統治委任を受けました。 斯くて太平洋では米国の支配する島々と日本の統治委任された島々が複雑に交差する結果となりました。

玆で第1次大戦へ途中から参加した米国は世界的に強力な発言権を得たものゝ国内には折からヨ-ロッパ問題への孤立主義が台頭し、ベルサイユ条約の批准、更には自ら主導して設立した国際連盟への加盟も議会で否決されました。

所でベルサイユ条約や国際連盟の批准を拒んだ米国には1921年(大正10年)から翌1922年にかけて、ワシントンに日、英、仏、伊、支那、オランダ、ポルトガル、ベルギ-の8ケ国を招き、之等と自国を加えた9ケ国による会議で東アジアと太平洋の秩序の確立を協議しました。 

その結果として第1には英、米、日、仏、伊の五ケ国協議により海軍の軍備縮小の名の下に之等各国の海軍主力艦の保有比率を5:5:3:1.67:1.67と定め、更には今後10年間の主力艦の建造は禁止と定めました。 

そして第2には日、米、英、仏の四ケ国協議で、四ケ国は太平洋に於ける各国の領土を保証し合うとし、この結果として夫れまでの日英同盟は廃止されました。 

そして最後に参加九ケ国の全員を以て支那に対する主権尊重、領土保全、門戸開放と機会均等を定め、その趣旨の下に日本が第1次大戦でドイツから得た支那の山東省の権益を支那へ返還する事となりました。 斯くて満州の地は支那の範疇には含まれていませんでした。 

そして更にその後の1930年(昭和5年)のロンドン会議に於いて、米、英、日の間で補助艦(巡洋艦、駆逐艦)までの保有比率を10:10:7と定められました。

之が米国の所謂「オレンジ計画」の主眼であったのでしょうが、斯くて夫れまで英・米の所謂アングロサクソンの支援の下に国威を伸ばして来た日本ではあリますが、その後は孤立無縁の状態となり更には英国に代り世界第一位の実力を持つ事となった米国とは仮装敵国の状態となりました。 

更に日本は建軍以来、陸軍はドイツを、海軍は英国を師として参りましたが此の関係も断絶しました。                                                                     

(続く)

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寝言の呟き 2 「日本のマスコミは自己の義務をどう考えているのか?」 3/3

(3)前稿でも取り上げた、石原都知事の、尖閣購入宣言に対するマスコミの反応と評価、は産経新聞を除いて全マスコミは尖閣問題の本質と、ここ1~2年の経過を全く認識していないことを、暴露している。鵺にひざまずいている。然し国民の反応は正しかった。

副知事の資金問題に関しての答えに含まれた寄付がマスコミの協力無しで8万口、13億円以上に達した。国土保全意識は心強い。事あるごとに嫌中国、意識は高まっていまや90%ともいはれている。マスコミと国民意識の乖離を国も意識しなければならない。


夜の帳を一枚一枚はがし、国民の多くが覚醒することを祈る。

(ねごと)の呟きを終わるにあたって、キリスト以前のユダヤの社会に(サンヘドリン)と云う役所があった。此の役所は国会と裁判所を兼ねた役目を持っていた。

此の役所には「全会一致は無効である」との不文律があった、そうである。真の民意は多様であり、一方に極端に偏るのは不自然である「人為的な力が作用」を考慮に入れた、今日でも参考になる教訓と思う。


(了)

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寝言の呟き 2 「日本のマスコミは自己の義務をどう考えているのか?」 2/3

既に現状はマスコミの良心に頼って、その義務を検討すべき段階は過ぎている。(ねごと)が鵺と表現したものは、良心を麻痺させる、力の存在です。迂遠であろうと、着実に夜の帳をはがし夜明けを引き寄せるときです。今年になってから、不審を持った例を2、3あげて、参考に供したい。


(1)国連原子放射線影響科学委員会(UNSCEAR)の委員長が1月、「福島原発事故による、放射線が人体に被害を与えるとは考え難い」と云う重大な発表をした。
(ロイター電)   

これを知った西部邁氏は「異説に耳を塞ぐな」と論説を毎日新聞に投稿したが、毎日は公式に意見の発表をしていない。強制移住、による被害は自殺を含め1500名を超えているとの報道もある。放射線に関しては当初から国内の世界的、臨床医の意見が封殺されていることに、鵺の影響を感じる。


(2)六月下旬 アメリカの食品医薬品局(F.D.A) は韓国産の水産物の輸入、販売を禁止した(イクラ、ハマグリ、ホタテ) 等に人糞が混入され(ノロウイルス)が混入された。
(ロイター電)

韓国の影響は我が国が最も大きい、大切な情報である。これを報道しないマスコミは正に鵺に魂を奪われている。国賊的存在である。    


(続く)

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寝言の呟き 2 「日本のマスコミは自己の義務をどう考えているのか?」 1/3


マスコミの国民に与える影響は非常に大きくなっている。マスゴミと貶す人もいるが、現在では国民の理性をも失はせる力を持つ一種の権力と云ってよい。或る意味では、権力の象徴である国家、政府の方針に強い影響さえ与えている。

さて、テレビが普及し始めたころ、大宅壮一氏(評論家)がテレビを批判し「一億総白痴」なる流行語を生みだした。(昭和32年)。具体的にはテレビ番組の低俗性を指摘したものといえよう。新しいメディアに対する、活字メディア人の抵抗と見た人もいた。

当時は新聞も当然対立関係にあった。不十分ながら、権力に対する批判を行い「社会の木鐸」としてのプライドも持っていたはずである。然しながら新聞各社(全国紙)が関連するテレビ局を持つに及んで、報道メディアとしての独自性が次第に失はれてきた。

その間約半世紀、我が国の経済成長と、東京オリンピック開催の大イベントを追い風としてテレビの普及が大幅に進捗し「不偏不党」と云う放送法の適用に疑問を持たざるを得ない現象が露骨にあらはれているのが現状である。表現の自由を満喫しているマスコミはそれだけに、義務について真剣に反省すべき時と考える。前稿、石原知事の「現憲法の弊として、義務を軽んずる、風潮が日本文化の弱体化をしている」を思いだされる。

又前述の「一億総白痴」もそうであるが、最近では国民の分類に(B層)なる言葉が流行っている。マスコミの操り人形と云う意味らしい。自主性の無い人、に対する蔑称とすれば使い方に配慮すべきと思う。

然しながら確かに最近の「郵政選挙」「政権交代選挙」見るとマスコミの作り出すムードにB層なる人人が雪崩を打って動いた、と解説されても、反対出来ない。

唯同じマスコミと云っても、新聞は活字メディアであり正体が見えるが、テレビは鵺の様で全く正体が見えない。攻撃するにもレーダーに映らないのだ。

然し、選挙を支配されては、「戦後体制を撲滅」することは出来ない、だが次期総選挙は正に「関ヶ原」です。レーダーに映らなくても、夜が明ければ鵺の正体が明白となります。一枚、一枚、夜の帳をはがすことです。      


(続く)

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寝言の呟き 1 「尖閣買収 石原知事発言から考える」3/3

氏の講演は中国の不法且つ覇権主義にいかに対処すべきか?と云う問題を問いかけ、基本問題は自主憲法の必要性を主張していると認識している。

そのために、アメリカに我が国の本音を公式に述べた意義は大きい(正論誌で左瀬昌盛氏が コロンブスの卵と題して石原論文を評しておられる)。が、(ねごと)も別の意味で、表現の巧拙に全く関係なく、石原氏にして初めて可能な快挙と感謝している。「尖閣は歴史的に固有の領土であり問題は存在しない」政府宣言は中国の主張に対抗することは困難と見るのが、常識である。流石にと云うべきか、やっとと云うべきか、政府・国会も実行支配の必要に目覚め動き始めた。

「一歩引いて穏やかに解決する」では解決しない。備えて、隙を見せない。相手を詰ってはいけない。例え相手が不条理でも。殆ど相手は承知の上だから。此の度は国民が 七万口、一二億円、の気付(六月上旬)自発的に出され、毅然とした態度を示した。前稿で「平和ボケの国民も議論をおこすだろう」と書いたが不明を恥じている。

知事講演の後、司会・パネリスト二名による討論があり、(憲法) については「改正すべき」、「日本自身の問題」が結論。
(核)については「アメリカの傘に入れ」が結論。司会「強い日本であるべき」 と補足した。所長が終わりに「日本と一番の関係を作りたい」と結んだ(「一番」は日本語でした)。アメリカ側の雰囲気も参考になる。      


(了)

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寝言の呟き 1 「尖閣買収 石原知事発言から考える」2/3

そもそも前述の如く尖閣問題は講演の締めくくり発言に過ぎずマスコミに報道されてない全容を披露します。

***

「私は、共産主義は嫌いだが、毛沢東の(矛盾論)は方法論として参考にしている、当面の矛盾(問題)の奥にその原因となる矛盾(問題)が有る、と云う考え方である。現在世界の第1主要矛盾は、環境問題である。

ツバル諸島は毎年海面が上がり近い将来オーストラリアに移民しなくてはならぬ運命にさらされている。人類生存条件としての環境劣化問題を考えるべき」と語っている。

「第2の主要矛盾は中東におけるイスラム教圏対キリスト教圏の争いを挙げる、これは十字軍以来の長い歴史問題でありキリスト系白人対イスラム系アラブ人の争いであり白人は勝てないと思う。」

「当面の矛盾は日米関係です、戦後アメリカに強制された(憲法)は 権利を強く主張し義務を軽んずる風潮を生んで、社会に混乱を招いている。

これは日本文化弱体化の基となっている。当然自主憲法制定が必要である。又地政学の観点から中国。ロシヤ。朝鮮。等反日核保有国に囲まれた、我が国ほど(安全保障)に問題を抱える国は無い然し我が国には十億キロ先の惑星から鉱物を採取してオーストラリアの砂漠に運んだ技術も有り。核のシュミレーシヨンも出来る。現在アメリカの戦闘機のコックピットは我が国の技術を不可欠としている。」

***

氏の言葉は(ねごと)の記憶違いもあり前後するが、終戦時のアメリカ大新聞に大きな怪獣の口の中で兵士が牙を抜いているマンガが一面に大きく書かれ、日本を邪悪な国として抹殺を促していた。ドイツの場合は優秀な民族としてナチスを潰せば、立ち直ると扱っている、と述べ日本文化の歴史は江戸時代の和算(西欧より早く、微積分を発見)経済でも大阪で先物買い取引き(西欧の範となっている)等例を示し、我が国に対する、誤解、認識不足、を改めるよう、堂々とした講演であつた。

そしてここで一昨年中国漁船の保安庁の巡視船に対する衝突事件に関し政府、官僚、の不甲斐なさに危機感を持って都が購入することを決意したと発言している。最後に氏がユウモアをこめて「アメリカは反対しないでしょうね」と問いかけると、聴衆から笑い声が起こった。        

以上、文責(ねごと)


(続く)

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寝言の呟き 1 「尖閣買収 石原知事発言から考える」1/3

多少旧聞に属するが、4月16日ワシントン、ヘリテージ財団において、石原慎太郎氏が行った講演の終わりの段階で「尖閣諸島を埼玉在住の地主から買い取る」と明言した。因みにヘリテージ財団とは保守系のシンクタンクと言われている、アメリカでは言論界で有力な存在である。場所として、又時期として、非常に効果の高い影響を関係国に与えた。

ところが国内では、マスコミは産経新聞を除いて、各紙、テレビは全局、否定的解説付き報道に終始していた。更に重要なことに、政府は何をどうするのか全く口をもぐもぐさせるだけに時を過ごして、既に2ケ月以上になる。

中国の反応を気にしていると思はれるが、政府の方針を打ち出すのが独立国として当然下あり、自然である。(ねごと)は福島原発事故に際し国、マスコミ、の対応と同様、自主性のない自己保身しか考えない、「事なかれ主義」の体質を明確に国民の前にさらしていると感じた。


※参考まで
原発事故に関する情報本年1月(国連、原子力放射線影響科学委員会)委員長は「福島において、健康被害が出るとは考え難い」と明言している(ロイター電)。
政府、マスコミ、ともに隠蔽もしくは無視している。     
この件は稿を改めて追及する。


(続く)

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一阿の  「若い友人からの手紙」Ⅲ

この度は若輩者の駄文を取り上げて頂き、恐縮しております。ややもすれば言葉が先行する未熟な身には冷や汗ものです。只、松山という土地柄への愛しさのようなものは、歳とともに深まってくるように思います。

先に書きましたロシア兵捕虜収容所物語も、戦争終了とともに閉鎖され捕虜たちも本国に送還されましたが、収容所で傷病死した兵は松山城が望める丘の上に葬られました。百年を経た今、祖国に向かって整然と並ぶ100基余りのロシア兵の墓は、地元の中学生達が毎週自発的に清掃奉仕を続けて手入れが行き届き、墓前に1輪の花の絶えることがありません。

これは“武士道”というより、四国の遍路道を行く旅人に対するそれに近いもののように思います。ついでながら、その後のシドモア女史のことです。折からのアメリカの排日気運の昂まりに反発したシドモアはスイスに移り住み、昭和3年そこで亡くなります。

シドモアを敬愛する人々は、翌年、女史の遺骨を日本に迎え、外交官ファミリーとして既に家族の眠る横浜の外人墓地に納骨されました。式には横浜市長ら 100人余りが参列し、新渡戸稲造博士が英文で弔辞を読んだということです。

そして今も毎年桜の春、女史の業績を知る人達が、桜花の下に眠る彼女の墓所に寄ってシドモア桜を愛でる会を催しているということです。いつの世も、もの想ふ、哀れを知る心を育てる教育が最も大切なことと思います。私も、選挙と身辺で、しっかりその方を向いておりたいと思っています。 ご自愛下さい。


(おわり)

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一阿の  「若い友人からの手紙」Ⅱ

こんにちは。一阿さんの優しいメールを頂き有り難うございました。・・・・・・この頃は縁に生かさていることを、折に触れ思います。

この春先、地元・愛媛新聞に、100年前3千本の桜の苗木が日本から送られた返礼として、今度はアメリカ側が 3千本のアメリカはなみずきの苗木を日本に贈る計画をしている記事が載りました。シドモア女史が日米に桜花の橋渡しをした一方の橋の袂に松山があることを知る松山市民はほとんどいないという思いが私の中に急速に拡がり、同紙に“ポトマックの桜と松山”を投稿し経緯を書きました。500字程度ということで、十分意は尽くせませんでしたが、知らなかったというハガキを幾つが貰い、書いてよかったと思っています。

5年程前、終戦まで 松山22連隊本部がおかれていた松山城三の丸跡の発掘調査中、1個のロシア銀貨が出てきました。そのコインには片仮名でロシア人名と日本人女性の名前が刻まれていました。おそらく、日露戦争時の松山捕虜収容所のロシアの兵と日本人看護婦のものと推測されました。松山の郊外に「坊ちゃん劇場」という、田舎にしては立派な芸術劇団付き劇場があります。昨年、この劇場で、“誓いのコイン”という、ロシア兵と日本人看護婦の恋物語が上演されました。1年間のロングランでした。

私は、その 2年程前に坊ちゃん劇場の支配人に、日露戦争下の日本を手渡し、ぜひ舞台でも-と話した事がありました。そして、タイミングよくコインが発掘された事で、ジェ-ムス三木が脚本を書いて上演となりました。日露戦争下の-とは内容は全く違いますが、着想に活かされたと聞きました。私の父方、母方の祖父は、驚くべきことに江戸時代の生まれです。文久と慶應、幕府が外圧に揺さぶられ、旦つ、京都で龍馬が斬られた時は母方の祖父は2歳という勘定です。

この祖父は、日露戦争の絵本を沢山持っていて、私は子供の頃、 カタカナの絵本をよく見ていました。江戸や明治はそんなに昔ではない。ただ、戦後生まれの(21年生)自分達は、見ていないけれど、それまで連続する何かがあったのではないか?

文字と映像からだけでは見えない-、立ち位置を変え、身体全体で受け止めなくてはならない人の在り方が-。大震災をみるまでもなく、一瞬にして人が人として生きられない不条理。同じ災害列島という船に乗っていながら、瓦礫処理を拒否する薄情-。志操(想)なき政治家たちのうごめき-。絶対違う。

自分達はこの目で見て来なかったけれど、勝手気ままに生きられなかった時代、自分を律してこその自由というものもあったのではないか?平凡でささやかでも、一生懸命生きる無意識の日々こそ、“大事”の中心軸ではないか-。誰かが言っていた、ならぬことはなりませぬ-という常識基盤の上に全ての生活が成り立つ状況を創出することが、何より大事と思うのですが-。近隣諸国との関係も-。

一阿さんのメールが嬉しくて、またまた長々と書いてしまいました。済みません。


(続く)

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一阿の  「若い友人からの手紙」Ⅰ

ご無沙汰致しております。お変わりございませんか?

・・・・・ところで、不勉強な私が数年前に出会った「日露戦争下の日本」という本に感動し、皆に宣伝しております。一阿さんは既にご承知かも知れませんが、内容は、戦傷を負い捕虜となって松山に送られたロシア人将校の夫を看病するため、はるばるヨ-ロッパからやって来た妻の 1年半に及ぶ松山滞在記ですが、看病の傍ら、松山の人々と交流を深めていく中で、つましいながら、勤勉で礼儀正しく生きる松山の人々が驚きを持って描かれており、読んでいて胸を熱くしました。

100年前アメリカで出版されたこの本の著者は、アメリカ人女性ジャ-ナリスト、エリザ・シドモアという人ですが、明治の日本中を旅し、桜の美しさに魅了されていた親日家の彼女は、時のアメリカ大統領タフト夫人と旧知であったことから、ワシントンに桜並木をと日米の橋渡しをしたことは、ポトマックの桜 100周年の今年、よくニュ-スで見聞したところです。

小説(記録小説)では、松山に送られた捕虜たちの間で、捕虜に対する手厚い人道的な扱いに加え、小さいながらも可愛いい庭を持つ家々や、どこまでも手入れの行き届いた田畑の美しさは、ぬかるむロシアとは大違いで、ここは捕虜を騙すためのトリックの町だと疑って、外出時(!)に人力車を駈って郊外に偵察に出掛けたりしています。

驚くべきことに将校の妻は、許可を得て市内に一軒家を借り、使用人らの手も借りて夫の看病をしながら軍や松山の教養人達と交流しています。そして、日本人の勇気、品性、感情の繊細さに心打たれ、ロシアは日本人をあまりにも知らなさすぎたと激しく動揺します。このロシア人将校夫妻は貴族階級であり、戦後、ロシア革命を嫌ってアメリカに渡ります。

おそらく作者のドモア女史は、アメリカで上流階級の交流の中でロシア将校の妻と知り合い、彼女の日記を手に入れて書き上げたものと思います。100年前のアメリカで、この本は日本の武士道を思わせると絶賛されたそうですが、その後の日米関係の悪化もあって日本にそれほど知られることもなく、ロシア兵捕虜が見た日本と日露戦争という稀有な記録も失われる運命でした。

時を経て、30年程前のロンドン。市内の古書店で、偶々この原書を手に取った日本人商社マンが興味を持ち、知人と一緒に翻訳出版して日の目をみました。当時話題になったということですが程なく絶版になり、平成6年に読売新聞がコラムで称賛紹介したことがきっかけで一時再刊されたものの(新人物往来社)、残念ながら現在は再び絶版となっています。松山の図書館でこの本を読み(貸出不可図書)感動した私は、軽薄にも、勝手に松山市民を代表して-と、当時90歳近かった翻訳者に感謝の手紙を出しました。

翻訳するということは、ただ原書に忠実では済まず、訳者の人格、知性に活かさてこそと思いますが、出版後翻訳者のもとに、人名や時系列に誤りがあるといった指摘を頂いたと、あとがきにありました。松山を舞台に、松山人には面映ゆいような本を出してもらったのにこの人は傷ついているのでは-と、思わずペンを執ってしまいました。訳者からは、恐縮してしまう程のお返事を頂きました。

松山には、小説・坊ちゃんに見られるように、“他所者”が松山にやって来て異文化同士が触れ合い軋んで、その人が去った後、何かしらそれを文化に取り込んでいくという、田舎ならではの風土があるように思います。その意味で、この小説は 第2の坊ちゃんだと思い、中古本を手に入れては読んでみてと、市長を始め皆に配っています。松山人ならずとも、かつての日本人の居住まいを知るためにも広く読んで欲しいと思います。知ったかぶりを重ね恥ずかしい限りですが、もしお要り用でしたらお送りします。時節柄、体調に十分お気をつけ下さい。またお会いしたいと願いつつ-。


(続く)

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マツヤマの記憶?日露戦争100年とロシア兵捕虜
成文社
松山大学

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今に生きる「もてなしの心」?松山・ロシア人墓地保存一〇〇年
愛媛新聞メディアセンター
京口 和雄

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一阿の  「薫陶(俳句とこころ)」 5/5

ワシントン会議(大正11年)で最も面目を失ったのは日本ではなくて、フランスでした。(ワシントン会議はロンドン会議の前の軍縮会議)。

イギリスの5に 対して1,75といふ比率はフランス人にとってとても我慢が出来ないものでした。フランス人のイギリスに対する感情は微妙なものがあります。フランス人は ナポレオンを誇りとするが、イギリス人の誇りはナポレオンの艦隊を破ったネルソンです。

主力艦・空母で劣勢比率を押し付けられたフランスの海軍随員軍令部長ドン・ボンは日本の海軍随員に「補助鑑までこの比率ではフランス代表は本国へ帰れない。」と苦衷を訴へます。

加藤友三郎はフランス側に「補助艦比率破棄 を提案すれば、日本は反対しない」と内意を伝へます。やがてフランス全権の首相ブリアンが破棄案を提出し、日本が反対せずイギリスが賛成したので補助鑑制限は流れてしまひます。イギリスはアメリカを成り上がり者と考へてゐたのでアメリカとパリティーとなることを快く思ってゐなかったのです。補助鑑でアメリカより優位に立てばなんとか世界第一を保てるわけです。

昭和2年にジュネーブで補助鑑制限会議が開かれます。この時会議に先立ち駐日フランス大使クローデルは「フランスは海岸や領土を護るため沢山小艦艇特に潜水艦が要ります。日本もご同様でせう。各国は自国の国防に ついて自由を持たなければなりません。フランスは多くの駆逐艦・潜水艦を必要とするので 5ー5ー3ー1,75 の比率は到底忍ぶことは出来ません。

この際アングロサクソンと対立してフランスと日本は相似たものと思ひます。」と言ったのです。ロンドン会議の時もフランスは日本に近づいて来ました。この時もフランス海相デュメニルはしきりに潜水艦必要論を展開しました。全権財部は訪ねてきたデュメニルにイギリスはどの程度までトン数切り下げを申 し込んで来たかと問ひます。

デュメニルは一寸ちゅうちょした後「6万6千トン」と答へます。これは妥協案より多い。このやうなフランス側の情報にイギリス海軍将校から得た情報を加へて、山本五十六以下殆どの海軍随員は「いま一度日本側が強く出れば、英米は譲歩するとの確信を持ってゐました。」しかし 若槻は山本等の進言を聞かずかてて加えて駐日英米大使の説得に屈した外相幣原喜重郎や吉田茂の助言も入れて妥協案で成立するやう訓令するのです。

山本五十六の反対が尋常でなかったことは確かで、大蔵省からの随員の賀屋が財政面から意見を述べた時に「賀屋黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ」と怒鳴ったことは記録 にも書かれゐます。それが面白可笑しく「手下の山口多聞に殴らせた」になり、「山本自ら鼻血が出るまで殴った」になります。

しかしそんなことはどうでも良い。帝国海軍の随員達がロンドンのブログナーハウスで国の為必死で情報を集め軍事技術上また外交上考え尽くしても、いまの民主党と同じやうに正に党利党略の為、政党の未熟な軍事理論でことを決めるにいたっては山本ならずとも腹が煮えくり返ります。それを承知で石原慎太郎が言うのであればよい。

戦後の例の反軍思想「海軍は艦船を減らされるのに腹を立てて賀屋を殴った」と鼻先で結論付けるやうでは、本当の国家再建はできません。この海軍随員の中には岸・佐藤両首相の長兄に当たる佐藤市郎がいたことを申し添えてをきます。かれは海軍きっての出来物と言はれ、三人の中では一番の秀才でした。ロンドン会議の時、私は5才 幼稚園生です。慎太郎はまだ母親の腹の中にもゐないのです。何故か私の耳には「兵隊さんよありがとう」の歌がいつも聞こえています。

死者いつか 焚火のそばに 寄り添へる 黙魚

那珂太郎はいつも向こう側の世界と話を してをられます。焚き火にあたってゐたらいつの間にか、特別攻撃隊で逝った親友や旧制福岡高校で仲のよかった伊達得夫が一緒に来てあたってゐる。私がこうして詩が書けるのは彼らのお陰だ。そう言ってをられるやうです。


(をわり)
 

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一阿の  「薫陶(俳句とこころ)」 4/5

昨日ブログに載せた慎太郎の「日本よ」の一節に関する記事は次のやうなものです。

「戦後の日本を支えて来た政治家達の中にも官僚出身の政治家が何人もゐた。総理となった岸信介や賀屋興宣といった人物の見事さは軍部の圧力に抵抗して理を通した経験によるものだった。・・・賀屋は軍縮会議で海軍に反論し、腹を立てた山本五十六が命じた手下の山口多聞に殴られまでした。・・・」

これは官僚の中にも筋が通った人物がゐるといふ触れ込みで書いた文章ですが、知らない人が聞くと山本五十六も山口多聞もはたまた海軍までも、なんと非合理な暴力集団と思はせ、だから戦争に負けたんだ。といふことになります。

知ってる人はまたあきもせず馬鹿な事を言っとる。だからわが国はいつまでたっても、自分の力で国を護る普通の国家になれない。と嘆息します。誰から聞いたのか何を読んだのか、慎太郎がいふのは、昭和5年の海軍ロンドン軍縮会議のことで実に粗雑で下卑た表現です。

詳しくは一阿が昨年末ブログに書いた「映画連合艦隊司令長官山本五十六を見て」に載せました。つまりロンドンで山本が妥協案に反対したのは、もう一押しすれば英米が潜水艦量で譲歩するのではないかといふのが主要な理由でした。

ワシントン会議以降山本が重視するやうになった航空兵力のことを考えると、条約調印が軍事的にはそれほどの大問題ではないと気づいてゐた。といふのが純粋に歴史学の見地から研究推論された野村実教授(日本学術会会員・海軍大尉・極東裁判嘱託・防衛戦史室長・高松宮日記主席編纂員」の推論です。

その一阿の分隊監事野村大尉はこう分析してゐます。「山本はロンドンで純軍事的な考へ方と、交渉技術の上から条約調印に反対したのだ。彼は政友会の代議士達が、未熟な軍事理論を振りかざして、倒閣の目的だけのための論陣をはるのを正視できなかったに違いない。」 と。私は慎太郎が嫌いなわけではないし、むしろ敬愛さへもしてゐます。

ただこの論説に関する限り言ってゐることは正しくても海軍を例にとる必要はなかったのではないかと思ってゐます。この比喩はあまりにも浅薄で無礼に過ぎます。特に山口多聞中将は2航戦長官としてミッドウエイで最後まで奮戦し「飛龍」と生命を共にされた方です。利根の偵察機が敵鑑隊を発見するや「直ちに発進の要ありと認む」との1航戦南雲長官に対する発信はあまりにも有名です。護国の鬼と化された提督に「山本五十六が手下の山口多聞に対して」とはなんと傲慢な言い様だらうか。

自分を何様だと思ってゐるのだと言ひたくなります。昭和5年、山本提督は48才 賀屋は41才 山口長官は38才でした。私が何故この問題にこだわるかといふと、慎太郎に限らず渡辺 藤原 西村 西部と言った実に正論を述べる方々でさへ事軍隊のことになると急に唾棄するやうな口調で批判を始め、世界中の軍隊のなかでわか国の軍隊だけが論理的に劣り国民を悲惨に追いやったやうに論説するからです。

この癖が直らない限りとても健全な国家に戻れません。何故そうなってしまったのでせうか。それは、敗戦後勝てば官軍でわが国に上陸したかっての敵国が、我が国民に帝国陸軍や帝国海軍を間違った軍隊であったと思い込ませる要があったからです。物心ついた頃から「お前は悪い。お前は悪い。」 と教え込まれたらどうなるでせう。どんなに頭の良い大人に育っても彼の潜在意識の中には「自虐史観」がとぐろを巻いてゐるのです。

だからまるで恨みにも似た口調で「五十六の手下の山口多聞に」なんていふ言葉が出て来るのです。軍隊に対する正確な納得がないかぎり、憲法の改正も教科書の改善も烏有に帰してしまひます。だから、ここで山本五十六提督の心からの怒りの理由を少し書いてみます。


(続く)

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一阿の  「薫陶(俳句とこころ)」 3/5

孑孑( ぼうふら)の身を立てなおす 月夜かな 天魚(眞鍋呉夫)

といふ句があります。森閑とした方丈の庵前の大瓶(かめ)が月光に照らされてゐます。ふと覗くと何か動くものがあります。 孑孑( ぼうふら)で す。跳ねてゐるやうに見へます。皆寝静まってゐる世界で身を踊らせてゐるのは「 孑孑( ぼうふら)」 だけです。俳人はじーっと覗いてゐます。何を聴いてゐるのでせう。

私は自分に準えてこう思ひました。「ぼうふらは自分だ。壊れかけた祖国で、左翼化した政府の方針に反対し、老躯に鞭打って、尖閣列島侵略反対の街宣活動に参加しても、反日反軍の左翼思想を垂れ流すNHKに抗議デモに行ってもマスコミは全くの 無視で、300人程度の北京の中国人反日デモを大々的に報道するばかりだ。

自分は何もできない一匹のほうふらに過ぎない。だがこの 孑孑( ぼうふら)でも静謐な月の光を見ると衣を脱いで空中を飛翔しやうと身を立て直す。私にとって月の光は大和民族の歴史なのだ、2600年脈々と流れ継ぐ先祖からの血脈そのものなのかも知れない。さあ身を立て直そう。

「すべての詩作品は、これを読む人によって初めて成り立つ。いはば作品の実質は読者によって作られると言ってよい。作者は読者のよみを挑発することばの装置をしつらへるに過ぎない。」 と那珂先生は言はれる。勿論身を立て直すことが事業の成功で あっても、自分の夢実現であっても一向にかまはない。蚊の生命へ共感を感ずる人もあるでせう。それで良いのです。

前を向いて饒舌に喋るのではなく、背中でものをいふのは、純粋に日本人の性格です。その美意識はあらゆる職人の技に今でも残ってゐます。戦後の軽薄な思想、右でなければ左、米国が嫌いなら中国、資本主義でなければマルキシズム、戦前は軍国主義で戦後は民主主義。

「薫陶」といふ言葉のなかにそんな単純な観念はありません。しかし戦後の教育は一見もっともらしく見へるが極めて論理的なマルキシズムに傾きました。教育については大切なところで日教組が今でも人事権を握ってゐます。あの輿石が幹事長をやってゐるくらいですから。

米国は道を誤って日本を牛耳るのに共産党を始めあらゆる左翼の集団を煽り利用しました。日本人は敗戦のとてつも ない文化ショックの中で混乱したまま異国の文化を底に敷いてしまったのです。憲法と教育制度です。日本は丸腰 米国は武装してゐました。憲法も改正せず67年。そうしてこんな状態に なりました。

だから丸腰のまま日本文化を本来の姿に戻すには明治の祖先が舐めたあの臥薪嘗胆を100年続ける覚悟がいります。俳句のやうに純粋な詩心の底 には日本人固有の美意識が流れ、確かに国家が現存しました。大正生まれの人間にとって戦後のわが国は我々が若かった戦前の日本とどこか違う。言い尽くし難い差がある。尖閣列島で見事な対処を見せた石原慎太郎でさへこと軍隊に関しては、軽い観念でしかない(無理からぬことですが)。

那珂先生は大正10年、 真鍋さんは大正9年、の生まれです。大日本帝国の時代、軍隊が厳存した時代を生きられました。石原慎太郎は昭和10年に生まれ敗戦の年は中学1年生です。多少ませてゐたと言っても軍隊のグの字も分かる筈はありません。だから軍隊についてはいつも子供っぽいことを言ひます。先日も 産経の5/14「日本よ」なる小欄で時代を混同して海軍批判にこんなことを言ってゐます。


(続く)

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一阿の  「薫陶(俳句とこころ)」 2/5

「言葉といふものはポリフォニックなものです。」詩人那珂太郎は静かに語りだしました。

草野心平を中心に作られた詩のグループ「歴程」の第33回藤村記念 歴程賞の受賞記念会場です。「だから言葉で架空にある世界を生み出すことが出来る。」平成6年。この年に彼は詩集「鎮魂歌」の出版もあって芸術院賞、恩賜賞を貰いました。

「しかし『鎮魂歌』の場合主題は向うからやって来て文体を決定しました。私はこの詩を明瞭な意図を以て書いたのです。」
「それは僕の力より僕の若い時代に特別攻撃隊として死んで行った友人達が僕をそそのかして書かせたのかも知れません。だから鎮魂歌は自分自身の魂を鎮めるといった風合のものなのです。」
「私がニヒリズムを乗り越え得たとしたらそれは、国のために進んで生命を擲たれたそういふ人達のお陰なのです。」

詩人那珂太郎はそう言って話を終へました。彼がニヒリストであったこと は「那珂太郎」といふペンネームが示してゐるとユーモラスに語られます。「無かったろう。」に通ずるからです。

彼はかって海軍兵学校で我々に国語を教へました。日本が戦いに敗れた途端、反戦論者に早変わりし「自分は戦争に反対であった。」と軽く醜いことばを撒き散らす物書き達のなかで、教官は黙々と詩作にふけりました。

そして府立第十高女の作法室に森 澄雄と寝泊まりしながら生徒に国文学を教へたのでした。 詩人や文学者や俳人たちが出来るだけ軍隊との関わりを隠し大日本帝国の自国の陸軍海軍を手のひらを返すやうに忌み嫌い罵詈雑言をあびせる中で、自分は海軍兵学校の国語の教官であったことを誇りにされ、歴程賞受賞の時も自作の著書にも又色々の会合でも海軍との関わりを隠そうとはされませんでした。

寧ろ江田島の土を踏んだことを誇りにしてをられる風情だったのです。どうしてでせうか。詩人は美しいものを求めます。私なりに考えると、あの江田島の海軍兵学校がとても「美しかった」からではないか。

「古鷹山や能美島や江田内の影紫」もさることながら、それよりも人間の内なるものの「美しさ」ではないだらうか。「言い訳しないこと、裏切らないこと、黙々としていること(サイレントネービー)変節しない信念を持ってゐること。」 これは人間の景色として「美しい」に違いありません。

これに反し、己といふ小さな観念で、薄汚れたヒステリックな言葉を撒き散らし、自分の生まれた国を誹謗中傷して飽くことを知らぬ大江健三郎の如きは醜さの極 かもしれません。今や原発反対の大狼煙を挙げ、沖縄を反日反軍の拠点に構築した大功労者大江健三郎。これもまた文学者なのです。なんと大きな差でせう。一体この人は何処の国の人でせう。話がとびました。元に戻りませう。

「春うらら いのちあるもの みな悲し 黙魚」
那珂先生の句には目に見へるものと目に見へないもの、死者と生者の潜り戸を散策するやうな句が多く見受けられます。

卒寿になられる先生は、言葉そのものを 追求し続けられいまは、殆ど目は光を失はれ耳は音を失はれました。しかしその直前まで続けられたのは、「長島愛生園」の患者達の為の「詩」の添削の仕事でした。あとは全部切って捨てられたのです。それから暫くして、書店に「ハンセン病の人たちによる詩集」が並んでゐました。そして詩人の間で評判になりました。どこにも那珂太郎の名は出てはゐません。


(続く)

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一阿の  「薫陶(俳句とこころ)」 1/5

芭蕉が座をもうけ、連中が式目に従って連歌を巻いてゆくその最初の句を発句といふことはよく知られてゐます。

「ガラス瓶」の「神代曙」で書いた石橋筑紫男さんと去年同ブログの中の「おっちゃん」で紹介した石田開一さんと私の三人で昔連歌を巻いたことがあります。筑紫男師匠の懇切な指導によることは申すまでもありません。

私の発句は「花散るや ひとひらづつの 光のせ」 でした。初めて巻いた連句の嬉しさもあって、言わないでも良いのに詩人「那珂太郎」先生にこの発句を告げました。七年程前のことです。那珂先生は愚老の海軍兵学校時代の国語の教官でした。戦後はいろいろの会合にお誘い頂き問わず語りに詩歌を教えて下さいました。

先生に連句のことを告げたのも忘れていたある日、先生からお便りを頂きました。 その中に思ひもよらない言葉がありました。「・・・貴兄の発句『花散るや・・』を頂いて、小生の連句の挙句に使はせてもらひました。『散る花のひとひらひとひら光りつつ』ご了承たまわれば幸甚です。」 挙句とは連歌の最後につける句のことです。教官(那珂太郎)は詩作以外に「雹」といふ連句の同人でもありました。

「雹」には先月92才の天寿を全うされた真鍋呉夫(蛇笏賞)や文学界の名伯楽と言われた寺田博(福武書店=ベネッセ)ほか偉才が名を連ねます。この手紙にある連句は「月光」といふ名の天魚(真鍋呉夫)捌のもので、発句は「襤褸市の隅で月光売ってをり」でした。この23句目が黙魚(那珂太郎)の「散る花のひとひらひとひら光りつつ」であった訳です。愚老はハッとしました。

教官(那珂大尉)は私に詩の何たるかを教へてをられるのだと。前にも書きました様に教官は「私は日本の国に生まれたので、日本の歴史と言葉が大好きです」と、決して戦後の新仮名を使おうとはされません。私は思い出すのです。「詩は観念ではありません言葉そのものです。」と言はれたことを。・・・そして、私の「花散るやひとひらづつの光のせ」の句の如何に観念に満ち言葉の乾ききっているかを。那珂先生はいとも丁重にまるで私に詫びるやうな口調で言葉の真髄を教へてをられるのです。

愚老はこころの奥深く「薫陶」といふ字をゑがいてをりました。有り難いことです。一年も経って自分の挙句になぞらえてそれとなく後輩を指導するゆかしさは昔の日本人の徳性です。瞬間に情報を伝達することはとても大切です。しかし私には春夏秋冬を経て到着した教官(詩人那珂太郎)のお手紙は人生で一番大切な薫陶として心の壷に収まるのでした。那珂先生は今年卒寿になられました。


(続く)

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一阿の 「神代曙」 7

 「神代曙」の命名が牧野富太郎によることは一番最初に書きました。昭和天皇も愛された文化財ともいふべき「日本植物図鑑」の初版は昭和15年10月、大東亜戦争の始まる丁度一年前に出版されました。そして戦時中毎年版を重ねます。

敗戦の年は流石に途絶えますが、昭和23年には立派な装丁で既に第5、第6と 二回出版されました。1800円でした。当時の大学の授業料がたしか600円でしたから、如何に高価なものであったかが分かります。それを日本人は喜んで買ったのです。

米も煙草も配給、大学の学食では殆どが芋で米が何粒か混ざっている程度でした。私は今でも、此の書籍を見るとほっとします。この世界的な名著には日本の総ての草木が載っているだけでなく、日本の魂が匂ってゐるからです。

牧野富太郎博士は小学校中退で独学で勉強したことはよく知られてゐます。テレビの放映でいつ も言うやうに「佳いものは戦争で潰され私達の愛したものは心ならずも滅びて行った。」のとちょと違うやうです。昔の日本は戦時中と言えども佳いものは決して壊さなかったのです。

 それからもう一つ、日本人の美意識です。ろくに食べてゐなくても、美しいものは買うのです。 昔我々が学び訓練を受けた海軍兵学校の75期指導官 中川 学 中佐は官舎に帰られると奥様に心から言われました。「生徒は国の宝だ。」 と。平成の御代では「生徒は私の宝だ。」 になります。では国と人を超克するものは何か。それぞれに違うでせう。

我々の校長、井上成美(しげよし)大将はこんなことを言われました。「読書は大切だ。しかし本を一心に読んでゐる時は決してものを考えてゐない。人間にとって本を読むよりもものを考えることが大切だ。」 自分の意見を持つことが如何に大切かを言われたのでした。

それは民主党が天下をとってからのわが国の現状を見ればよくわかります。マスコミが右と言えば 右、左と言えば左のつけが今まわってきたのです。今日も病院で「小沢無罪判決。」を聞いていました。隣の老人が舌打ちして「あの悪い男がなあ」 と呟くのが聞こえました。庶民は知ってゐるのです。法技術的には「烏を鷺」と言いくるめても小沢が黒であることを。私はほっとしました。桜に因んで和歌を一つ。

 敷島の大和ごころを人とわば旭に匂ふ山桜花。
 


 

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一阿の 「神代曙」 6

 芭蕉が心ひかれ、生涯句作と自分の人生の友とした「荘子」の中の一編「人間世編」に「無用の用」は説かれてゐます。その最後の文章はこうです。原文は省きます。

***

「支離疎(しりそ)といふ男、顎は臍のあたりに隠れ、両肩は頭のてっぺんよりも高く、頭髪のもとどりは天を差し、両股は脇腹にあたってゐる。「ひどいせむしの片輪だが」針をとっての裁縫で自分の口すぎは充分に出来、箕をゆすって米のふるいわけをすれば十人を養うことも出来る。

お上で兵士を徴用する時は、「支離は兵士の義務がないから」人なかで大手を振ってをり、お上で大きな土木事業があって人を徴用する時も支離はいつもの病気があるといふことで、割り当てをうけない。それでゐてお上が病人に穀物を施す時は、三しょうの穀物と十束の薪をちょうだいする。

そもそもこの支離疎のやうに肉体が人なみに完全でないものでさえ、その身を養って自然の寿命を全うすることができる。・・・・・・ 人々はみな有用なものが役立つことを知ってゐても、無用なものが役にたつことを知らない。」

***

 ここで、ガラス瓶子が言いたいことは、日本人が感じる「無用の用」と 支那人が感じる「無用の用」は微妙なところで違ってゐるのではないかといふことです。

「用のなき貌曝しおり小春の日」 と 宗匠 石橋筑紫男さんが詠む時、それは芭蕉の風土から吸収し、小春といふ季語の土壌に立ってゐます。しかし荘子の言葉はまさに中国の生活感からきてゐます。同じ想念でも日本人の美意識と支那人の美意識は明らかに違うのです。

日本人は支那から文化を輸入するときもヨーロッパから文化を吸収する時もそれを完全に咀嚼する力と美意識を持ってゐました。そして日本でしか育たない優れた感性と風土に恵まれてゐました。ところがどうでせう。進歩的と称る左翼の文化人達は皇室の美しさを否定し正倉院の神髄さへ否定したがるのです。特にNHKあたりはひどい。

国宝や重文の説明の後に必ず「これは中国からやってきました。」と付け加えます。中国からきてもそれを醸成し完成させたのは日本人なのです。もし日本に彼らより優れた美意識がなければ、どうして彼らの文化をかくも完全に消化できますか。

公共放送と称するNHKがずるがしこく国民から愛国心と誇りを奪いさろうとしてゐる巧妙な悪知恵は挙げればきりがありません。しかし本当は大丈夫かもしれません。昔、隣国支那では「宦官」「纏足」 が流行りました。しかし日本人はこの醜い風習は絶対受け付けませんでした。

彼らには目的と手段があり、目的のためには手段を選ばぬことさえ敢えてしますが、日本の神道は目的も手段も融合していて山川草木全て神が宿るのです。和(にぎ)御霊(みたま)のもとでは非常に優れた美意識が育ちます。


 

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一阿の 「神代曙」 5

 この理性の野のもう一方の旗頭が、小林秀雄です。彼はウァレリーがヨーロッパの魂を愛したように、日本の魂をこころから愛しました。そして日本の土壌と歴史に誇と共感を以て透徹してゆきました。本居宣長のやうにです。しかし多勢に無勢。悪貨は良貨を駆逐するで、結局、底の浅い理性模倣派に今の日本は牛耳られて、まるで社会主義国のやうになってしまいました。

かって荘子を懐に抱いた支那とは無縁の共産主義国家 中国に色目を使う醜い国になり果てました。このことはマルキシズムがわが国に流れ込んだ大正時代に既に始まっていました。国家の為に共産主義を徹底的に阻止しやうとしたのが、陸軍であり海軍だったのです。

かっての敵は日本に上陸するや忽ち日本の軍隊を抹殺し二度と再軍備をさせない策略の毒を飲ませました。普通の国民なら、かってフランス国民がレジスタンス運動を行ったやうに祖国を元の姿に戻す熱誠を示すでせう。

ところがさにあらず、我が国は、敗戦の時を境目に、悪い国から一瞬に平和を愛し人権を守る理想的な国になった錯覚に落ち込んだのでせうか、嫌軍、反軍国家になってゆきました。その基盤は底の浅い教養人の、偽理性主義に温床があったと思うほかありません。都知事が尖閣列島購入の意志を示すや、快哉を叫ぶのではなく、「中国はどう言うか」「中国での商売が心配」 と識者と言われる人間どもがNHKや朝日、共同通信と言った左翼マスコミを通じて掣肘にかかります。

まさに、偽理性の臭気と醜さが目立ちます。そこには国家観もなく、国家の誇りもありません。荘子は或いはこう言うかも知れません。「一番大切な事に、古代 中世 近代と言う区別がどれくらい本質的な意味があるのだろう。近代社会の自由だけが本質的で、その他はみな非本質的だと言うのは近代人の勝手な自惚れに過ぎない。古代 中世 近代と言う区分そのものが、近代人の一人よがりの創作ではないのか。

それぞれの時代の人間は、それぞれの時代を精一杯生きてきた。それぞれの時代を精一杯生きる人間にとっては、古代も中世も近代も問題はないのだ。」 と。荘子はまた言うでせう。
「日本の皆さん、戦争に負けて67年精一杯努力して造った皆さんの国が、戦前より、或いはそれ以前の時代より正しいなんて思ってはいけませんよ。それこそ傲慢で、思考停止状態と言わなければなりません。」と。



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一阿の 「神代曙」 4

 「用の無き貌曝しおり小春の日」・・・ は、まさに「荘子」の思想「無用の用」 を心に筑紫男さんが残した辞世の句です。

荘子は紀元前四世紀、孔子より一世紀遅れて生まれ、宗の国に住んでゐました。あの北宗南宗時代の宗ではなくて、春秋戦国時代の宗です。とても乱れた世の中です。荘子については、福永光司著 「荘子」(中公新書)を読まれることをお薦めします。 人間は自分の知らないうちに訳も知らされずにこの世に投げ出されます。そして必ず死ななければなりません。拒否することも反抗することも出来ません。荘子の哲学は如何にこの不自由な自分を囚われることのない自由な自分にして行くかを明らかするためのものです。

昔 西欧の人達にはキリストがゐて救って呉れました。しかし近代ニーチェが「神々は死んだ。」と叫んで以来、現代ヨーロッパ精神の苦悶が始まりました。「・・・to be or not to be ・・・」 です。

しかし、荘子はきっとこういふでせう。 「君たちは、神は死んだと騒ぎ立てるけれども、我々は初めから神をもたなかった。もし人間の孤独が神の死を意味するならば、われわれは初めから孤独であった。」 と。神は死んだのか、見失われたままなのかは断定は出来ません。現代でも失われた神を求めて苦悶してゐる実存主義の哲学者が居り、大多数の人は神は死んだとは信じてゐないからです。

私は昨年「ガラス瓶」のなかで網代 毅著「旧制一高と雑誌世代の青春」を取り上げ、「敗戦の瞬間、私は(ヘーゲルの現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である)。といふ言葉を思い出した。」と語らせました。

理性的であり合理的であることは何よりも望ましいが、現実の人間生活はあまりにも非合理であり反理性的すぎる。この現実に目を瞑って、人間を無理やり神の座に押し上げやうとすると、いよいよ非合理的になります。理性的なものは現実的なものではなく、現実的なものはむしろ非合理的なものでさへあります。ヘーゲルのあの雄大な理性の神学を「書斎の哲学の観念性」と切り捨てる人もゐまま。

しかし昭和17年旧制一高へ入学した人達を始めとする旧制高校のエリート達、彼等が敗戦以降トップ官僚として、或いは行政 司法 立法各界のトップとしてわが国を操縦してきたことは否定のしようがありません。明治以降ヨーロッパから文化を吸収し始めてから、その底には理性そしてヘーゲルが厳然と控えてゐました。大正以来進歩的知識人や教養人がマルキシズムに惹かれいったのも故なしとしません。それはヘーゲルを純粋培養していったものがマルキシズムだからです。或いは毒キノコと言った方が良いかもしれません。
 

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一阿の 「神代曙」 3

  石橋さんの450ページに及ぶ労作の中から一行だけ載せておきます。「・・・『笈の小文』にも「無能無芸にして只此一筋に繋る」 と書いており、芭蕉のお気に入りの文句であったと思われる。

これは徳充符篇の「老子曰ワク『胡ンゾ直チニ彼ノ死生ヲ以テ<一条>トナシ、可不可ヲ以テ一貫トナス者ヲシテ、ソノ桎梏ヲ解カシメザル』。」から来ている。と考えられる。(老子は言った。あの死と生の変化を同じ連続したものと考え、可いことと可くないことといふ価値の対立を一体のものとみなす万物斉同の立場に立つ人物に、その手枷足枷を解かしてみたまえ。)といふほどの意味でせう。

ここに、石橋筑紫男さんへの追悼文があります。「~筑紫男先生を悼む~猛暑の続いた今年(平成13年)の7月7日石橋筑紫男先生が亡くなられた。行年86才だった。~俳誌(春燈)の先輩であった筑紫男先生にお願いしてみた。

(私達主婦も連句を巻いてみようといふことになり)~先生の葬儀は無宗教でとり行わた。お経の代わりに御著書の中から<荘子>の<至楽篇>の一節が朗読された。荘子か妻の死を悲しむどころか、盆を叩いて歌ったといふ話である。(人間の肉体はもともとなかったもの、混沌から気が形となり、形が変化して生命が出来た。そして今また変化して死の混沌へと規則正しく循環してゆき天地自然の世界に眠ろうとしている。)とまことに先生の葬儀らしかった。

BGMにはショパンの別れの曲が静かに流れてゐた。先生の墓所は松林に囲まれた舞子霊園にある。墓石の表面に<入無窮之門以遊無窮之野ー荘子>と四行に刻まれ、裏面に< 用の無き貌曝しおり小春の日 筑紫男 > とある。無窮之門に入り、無窮之野に遊んでおられるそのお姿が彷彿とする。 合掌
 

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一阿の 「神代曙」 2

  龍太の俳文に面白いものがある。「詩人は、詩の眼を持った人でないと理解出来るわけがないが、特別大きなスケールの詩人ともなると、詩の眼だけでは、本当の正体をあらわしてくれないのではないか。・・芭蕉と蕪村は非常に対照的のようだ。蕪村の場合は、萩原朔太郎から三好達治などの労作が、それを証しするように、独自な解明は全て詩人によってなされている。

―「凧(いかのぼり)きのうの空のありどころ(蕪村)に朔太郎が現代詩のこころを見るやうに」―

しかし小説家は、蕪村に対してあまり関心を示していない。これに反して、芭蕉の場合は、龍之介や犀星の例を出すまでもなく、きわめて多くの小説家が深い関心を寄せる。私が芭蕉の深い人生は「荘子」の思想を汲みながら流れる大河だといふ思い至ったのは先に述べた宗匠石橋筑紫男さんの労作によるところが大きい。

「汗牛充棟」といふが、芭蕉については古来から正に運ぶのに牛が汗をかき棟に充ちる程の文献著書がある。愚老に芭蕉を語る智恵がないので、芭蕉に生涯をかけた石橋筑紫男さんの前掲の「芭蕉の中の荘子」の一節をかりることにする。「・・・どのやうな魅力があるのであらうか、それは時流に染まらず、あたかも求道者のやうにただ一筋の道を追求した芭蕉の人間性、思想、処世に共感する人が多いためであらう。

彼は俳諧の道の至人であったと同時に、市井の思想家でもあった。彼の俳文 紀行文に「荘子」を出典とする文章が数多くあり、荘子の思想に深く関わってゐることが伺える。・・・芭蕉は貞徳流の惰性を打ち破り新しい境地を開拓した宗因を高く評価し、俳諧中興の祖とまで誉めてゐる。

それは宗因の主唱した荘子的俳諧に共感したからではないかと思はれる。しかも談林派の皮相的な捉え方と違い、「荘子」の思想にまで参入し、実践しやうとしたところに芭蕉の非凡さがある。」「芭蕉が荘子の中で最も関心を持った篇は斉物論篇 逍遙遊篇 大宗師篇 人間世篇である。」とある。「荘子」(そうじ)は33篇から成ってゐる。


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一阿の 「神代曙」 1

 武蔵野、深大寺の裏に神代植物公園がある。花見で賑わってゐる大芝生の少し手前に、「神代曙」 は佇っている。牧野富太郎博士が命名した美しい新種の桜だ。花びらの先へゆくほどに紅が深まり、染井吉野とすこし違った風情を見せる。その味は、夜桜に極まる。照明に照らされた染井吉野は、花雪崩とでも表現しやう。しかしそのよこに佇つ「神代曙」にはポット頬を染めた乙女のやうに「清々しい」風情がある。私はしばし現実を離れ、西行や俊成や定家の時代にあった。

「またや見む交野(かたの)のみ野の桜がり花の雪ちる春のあけぼの 俊成」 見上げる夜桜の枝の間に今散った花びらのやうに金星が光ってゐた。ちる花を詠んだ一首に上田三四二の絶唱がある。「ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも 。 」 三四二(みよじ)はまた俳人飯田龍太と親しかった。龍太は 「ねむる嬰児 水あげてゐる薔薇のごとし」と歌った。

「しりとり」のやうてあるが、ガラス瓶子が伝へたいのは、日本人には西欧人や中国人にはない優れた美意識があるといふことです。「丹想」といふ連句同人誌の同人で石橋筑紫男といふ俳人がゐました。彼は「芭蕉の中の『荘子』」なる名著を残して世を去ります。彼は大学の工学部を出て重工業会社に奉職しますが、連句に惹かれ芭蕉の研究を始めます。会社を退いてから、大学の文学部で勉強を始め、深奥のところで「芭蕉」 と 「荘子」にたどり着きます。


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