佐藤 順 牧師の「0系新幹線誕生秘話②/2」

 ところが当時、鉄道の常識は、車両を重くすることにより安定走行する、というもので、国鉄の技術者らは耳を貸そうとしません。そこへ、十河信二国鉄総裁が講演の噂を聞き、三木さんたちを会議に招きます。三木さんは国鉄幹部の前であらためて、「夢の超特急」構想を説明しました。そして最後に、総裁に向かってこう言い切ったのです。「この列車を作らない限り、鉄道の未来はありません」と。十河総裁は深くうなずき、事態は急速に動き始めます。

 時速250キロを超える高速列車の実用化には、173もの技術的な課題がありました。開発の中心になったのは三木さんの他、二人の陸海軍の技術者です。海軍航空技術廠で三木さんの同僚だった松平精さんは、「ゼロ戦」の機体の揺れを制御する技術を確立した技術者で、高速走行による車輪の振動を、空気バネを使った台車により解決します。

陸軍科学研究所で、通信技術の専門家だった河辺一さんは、電車が近づいた時や地震があった時など、安全装置が働いて、新幹線を自動で停止させる自動列車制御装置ATCを開発しました。そして、島秀雄氏によるマネージメントも重要で、「プロジェクトをうまくまとめてくれた」(三木氏談)といいます。

 1963(昭和38)年、新幹線の試作車両は、当時の列車のスピード世界記録255キロを超える時速256キロを記録します。三木さんはその一年前、鉄道技術研究所を定年退職、実験の様子を自宅のテレビで見ていました。その頃の心境をこう語っています。「自分の技術はすべて出し尽くした。実験には絶対の自信がある。私は、あとのことは全然、心配しませんでした」と。

それから一年半後の1964(昭和39)年10月1日、東京オリンピックの開催に合わせるように、東海道新幹線は開通、東京―大阪間を三時間半で結ぶ最高速度210キロの営業運転を開始したのです。新幹線は、オリンピックで世界中から集まった人々の賞賛を浴び、日本の科学技術の水準の高さを内外に示すと共に、日本経済の飛躍的な発展の原動力ともなっていきました。

 新幹線の技術は、その後の超高速列車の基本モデルとなり、世界中から目標とされる存在であり続けています。キリストにより罪の赦しを体験した一人のクリスチャン技術者・三木忠直さんがいなければ、日本が超高速列車において、世界に先手を打つことはなかったかもしれません。その後、三木さんは、湘南モノレールから千葉都市モノレールに転職、90歳まで勤務しました。90歳を過ぎても毎週日曜日の礼拝に出席された三木忠直さん(日本基督教団鎌倉雪ノ下教会教会員)は、2005年、95歳で天に召されています。

 ところで、最近になって、桜花に採用されなかった図面があることが、ニューヨーク州立大学の西山崇准教授の調査でわかりました。それは、桜花に操縦席を緊急脱出させる装置が考えられていたというのです。三木さんは、海軍に逆らってでも、命を大切にしようと考えていたのでしょう。

 新幹線は開業以来、50年以上、脱線や衝突など、車両や設備の故障などによる乗客の死亡事故はゼロ。現時点で、世界で一番安全な高速鉄道といえます。その安全な新幹線を、生前の三木さんはとても誇りにしていたと、ご息女・棚沢直子氏(東洋大学名誉教授)は証言しておられます。

〔参考資料〕
プロジェクトX 挑戦者たち 「執念が生んだ新幹線 〜老友90歳・飛行機が姿を変えた〜」 NHK DVD
棚沢直子(東洋大学教授) 「文藝春秋2010年9月」
『この深い河を越えて 人生の転機IV』(マナブックス)
太平洋放送 ライフ・ラインNo.1057 「戦争、人、心、そこにある苦悩と解放」西山 宗さん2009年8月放送 

史料の収集においてニューヨーク州立大学の西山 崇氏からご協力をいただきました。


―おわり -


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佐藤 順 牧師の「0系新幹線誕生秘話①/2」

 東海道新幹線を最初に走ったO系と、初代ロマンスカーの小田急3OOO形電車先頭部分は、どちらもそのデザインが飛行機の機首に似ています。それは、これらの車体設計をしたのが、元海軍技術士官で、航空工学者の三木忠直さんだからです。

 東京帝国大学(現・東京大学)工学部を卒業後、海軍航空技術廠(しょう)(神奈川県横須賀市)に入った三木さんは、太平洋戦争末期、特攻機「桜花」を設計させられます。機首に1トン爆弾を搭載した「桜花」は、自力では離陸できず、大型機に吊り下げられ、敵艦隊に近づきます。そして、空中で切り離されると、操縦士はロケットに点火、時速八百キロ近い高速で敵の制空圏内を貫き、そのまま敵艦に体当たりします。車輪もなく、生還するための装備は一切ない、正に有人誘導式のミサイルでした。

「技術者としてこんな特攻機は承服できません」と、当初、三木さんは大反対しますが、海軍は強行し、従うしかありませんでした。そして、実戦に投入された桜花は、敵艦隊の遥か手前で米軍のレーダーに捕捉され、待ち受けていたグラマン戦闘機によって、その殆どが母機(一式陸上攻撃機)諸共、撃墜されてしまいます。合計10度に渡る出撃の結果、桜花パイロット55名と、母機の搭乗員365名が戦死しました。敵艦に突入した桜花は計7機だったといいます。

 「軍の命令があったとはいえ、私の設計した飛行機で、多くの若人が国のために散っていきました。そのことに深く心が痛む日々でした」とNHKに語る三木さんは、敗戦後、自己嫌悪と後悔の日々を送っていました。1945年の秋には、頭を丸めて過去と決別して、気持ちの整理をつけようとします。しかし、心の重荷は、頭を丸めるだけでは解決できませんでした。そんな三木さんを救ったのはキリストの言葉です。

ミッション系の東京女子大学で学んでクリスチャンとなった姉、その影響で信仰を持った母と、姉の学校の後輩で、同じくクリスチャンになった妻の勧めもあり、三木さんは、東京女子神学校の校長・渡辺善太の門をたたきます。悲痛な訴えに渡辺先生は「凡て労する者・重荷を負う者、われに来れ、われ汝らを休ません」(マタイ11章28節 文語訳聖書)の聖書の言葉を示しました。「その御言葉に出会い、救われました。そこから私の人生は変わったのです」と言う三木さんは、敗戦の年の1945(昭和20)年12月15日、三十七歳の誕生日に、自らの重荷をキリストに預け、洗礼を受けました。

「とにかく戦争はもうこりごりだった。自動車関係にいけば戦車になる、船舶にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんですよ」と、三木さんは、自分の技術を戦争に使わせないと誓います。そして、陸海軍の優秀な技術者たちとともに、旧国鉄の鉄道技術研究所(現・JR鉄道総合技術研究所)に勤務しました。

 軍用機で培った設計技術を、何としても鉄道のために使いたい、と祈る三木さんが出会ったのが、新幹線開発プロジェクトです。当時、東京―大阪間は、電気機関車で7時間半もかかっていました。そのため、将来、長距離移動には飛行機や自動車が使われると予測され、鉄道の斜陽化が叫ばれていたのです。1957(昭和32)年の鉄道技術研究所創立50周年記念講演会で三木さんは、「東京-大阪間三時間への可能性」と題して講演し、宣言します。「飛行機の技術を用いて車両を軽量化し、車体を流線型にして空気抵抗を減らせば、最高時速は200キロを超えます」と。


― つづく -


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