「山」の 「戦友」


私の父は、大正6年2月1日生まれでした。
いまから、24年前 78歳で亡くなりました。
兵隊検査では背が低かった為、乙種合格でした。
しかしながら、大東亜戦争が始まると間もなく召集令状が届き陸軍に入隊しました。

父は宝塚のファンであったので、召集前、当時の宝塚スター深緑夏代さんや天津乙女さんなどたくさんの生徒さんや演出家の先生方に、絹の日章旗に武運長久と共にサインを書いていただき、其れを常に懐に仕舞いインパール作戦にも参加しました。

インドシナ方面に向かう為、貨物船にて出港する予定でしたが、乗員に赤痢患者が出たため出港が遅れたそうです。

しかし、これが運命の分かれ道で先に予定通り出港した貨物船は敵の潜水艦の魚雷により沈没したそうです。

父は鉄道隊に所属、炊事班として務めました。
もともと胃腸が弱かった為、祖母から生水は決して飲まないように言われ、湯冷ましを飲んでいたとの事でした。
現地で生水を飲んだ人たちは、赤痢や様々な病気にかかり、亡くなったり不能になったそうです。

開戦直後は日本軍も勢いがあり、多くの捕虜を収容しました。
父の部隊はオーストラリア人の兵隊さんでした。

ある時、捕虜の方が寒さを訴えてきたので、父は毛布をあげて大変感謝されたそうです。

しかしながら、上官から敵の捕虜に余計な事はするなと、スリッパで散々殴られたそうです。
でも父は、戦場を離れれば同じ人間なのだからと後悔はしませんでした。

兎に角、戦場は修羅場で鉄砲を撃つにしても敵の機銃掃射が激しく頭を下げて撃っていたそうです。
また爆撃機が頭上で爆弾を投下した際は、もうダメかと生きた心地がしなかったようです。

戦局が逆転し、今度は父が捕虜になりました。何とその際、以前捕虜であったオーストラリア兵の方がいて、その際毛布を与えてくれた事をとても感謝され、チョコレートや様々な食料を戴いたそうです。

終戦となり、日本への帰国は2年近くたってやっと帰って来れたそうです。

父は戦場での教訓から、どんな時にでも困っている人は助けるように、そうすればいつか自分が困っている時に助けてくれる人が現れると教えてくれました。

昭和33年の静岡沖での台風災害には、商売先のお得意さんにトラックで、援助物資の缶詰を届けて、大変感謝されたそうです。

また私が子供の頃には、靖國神社や乃木神社、東郷神社にも連れて行ってくれました。

父は亡くなるまで、戦友会には欠かさず出席していました。
生涯の友として交流をはかっていました。

― つづく -


*☆*゚ ゜゚*☆*☆*゚゜゚*☆*

これから「山」さまの記事が楽しみな方は、
人気ブログランキングFC2ブログランキング のクリックをお願い致します。

※姉妹サイト【日本を】『日本解体法案』反対請願.com【守ろう】では、様々な周知活動を行っております。

何卒皆さまの温かいご協力をよろしくお願い申し上げます。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 3

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス
ガッツ(がんばれ!)

この記事へのコメント