九太郎の「憂国の詞」-第九回- 「終戦と云う敗戦-後編-」 9/11

②.満州事変

昭和6年9月18日午後10時20分頃、奉天北方約7.5㎞の柳条湖で当方の南満州鉄道の線路が破壊されました。 

実は此の工作は前記関東軍参謀の板垣征四郎大佐と同石原莞爾中佐が首謀して行われたもので、関東軍は直ちに近くの張学良の宿営の北大栄を占拠し翌日までに奉天、長春、栄口の各都市を占領しました。 

此の時に一人北京に在って実権を握っていた張学良は之を日本軍の挑発と受け止めて国際世論を背景に平和解決を望んだと云う事は、折から勃興して来た中国共産党等への対策に余念が無く、更には戦闘に自信がなく、寧ろ米国の支援に確信を持っていたのでしょうか3日後の21日に国連に提訴しました。

一方の日本軍部は19日午前7時に陸軍省、参謀本部の首脳会議を開き、小磯軍務局長の「関東軍今回の行動は至当の事なり」との発言に一同異議無く兵力増派を提議し之の閣議提出案を決めましたが、同日10時よりの閣議で時の陸軍大臣の南は関東軍増援を提議できず反対に事態不拡大の方針が決定されました。 

そこで陸軍の作戦課では「事態不拡大の閣議決定には反対しないが、関東軍の機宜の措置は拘束しない」と云う「時局対策」を策定し南陸相や金谷参謀長の承認を得ました。

関東軍兵力の総数は前記の通り非常に劣勢であったので林銑十郎朝鮮軍司令官は19日、取り敢えず飛行隊2個中隊を派遣し引続き混成旅団の派遣を計画し軍部は天皇の奉勅命令を受けようとしましたが之が若槻首相に遮られ、結局は21日に林朝鮮軍司令官の独断の形で混成第9旅団に満州への進撃が開始され、翌22日の閣議では出動したからには致し方ないと事後の形で承認され、更に之に関する経費の支出が議されて正式の派兵となりました。

此の派兵を受けて関東軍は北部満州へも進出し翌昭和7年の2月にはハルピンを占領しました。斯くて軍部の独断専行により始まった満州事変は、前述の陸軍による陸軍大臣の撤収権、即ち内閣崩壊権をちらつかせ乍ら軍の先行を以て満州の略々全域を制圧しました。即ち政府では21日の閣議により之を事変と見做し、24日の閣議で「不拡大」の方針を決めていました。

その間にはアメリカのスティムソン国防長官は日本に対し戦線不拡大を要求しましたが、之を受けた日本の金谷陸軍総長の命令が届く前日の6年10月8日、石原の率先指揮の下に爆撃機12機を以て錦州攻撃を始めスティムソンの激怒を買い幣原の国際協調主義外交は一頓挫しました。 因に錦州は満州の支那との境界の万里の長城に近く、奉天を撤収した張学良は此処に拠点を移していました。

因に日本軍は陸戦規定を守り略奪を働く事なく張学良の個人資産には手を付けず、予て学良と親交のあった関東軍の本庄繁は事変後に奉天に残された学良の財産を貨車2両に積み、北京に逃れていた張学良の許に届けましたが学良には受け取りを断ったもののその荷物の行方は分からなくなりました。


(続く)

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