恕兵衛の 「生と死を巡る若き海軍士官の覚悟」2

 池田氏は石原都知事の神奈川県立湘南中学→高校の9年先輩です。湘南中学は神奈川1中・2中横須賀中学と並んで神奈川県の名門校の一つです。横須賀軍港等の多くの海軍施設の近くだったからでしょう。これ等の中学には海軍軍人の子弟が多く入学していました。先輩・後輩の関係からも話は弾んでいたのでしょう。

 戦後は脇目も振らずに、建築の仕事に没頭していたが、現在は日本の戦後文明のあり方を反省、今は長崎県の岬の林の中に住み自然的生活を送られている由。

 九死に一生を得た戦後ではあったが、御子息(小学校の教師をしていた)が小学生の頃「お父さんは随分こと悪いことをしてきたんだね」と言われたが、それに対しては何も言わなかった。

 しかし、毎年4月7日に鹿児島県坊津で行われている、第2艦隊慰霊祭に或る年の御子息を連れていったところ、御子息は突然号泣したそうです。池田さんは慰霊祭の祭主を務められていたのです。父親が十数時間も4月初めの冷たい海で漂流して最後の一人として助け上げられた、その海を見てのことだったのです。

 池田さんは昭和19年6月マリアナ沖海戦で初陣、さらに10月レイテ沖海戦、20年4月の沖縄特攻に参加しますが、初陣の時は「どう醜くなく死ねるか」「立派に戦死できるか」などばかり考えていたそうです。任務も航海士として「戦闘詳報」を書くのですが、最初は後からみて誤字・脱字ばかりだったが、2度目からはそういうことはなくなった由。3度目の沖縄特攻の時になると生死等は超越というか、余り念頭に無く、淡々とした心境だったとか。

 禅・仏教の悟りなどは分からぬが、悟りを得たと言われる高僧でも、いざという時は取り乱す人も多いとか……やはり死の覚悟等はその都度限り、何度も悟りの境地を求めなければならないのかも知れません。

 池田さんは大正13年1月生まれですから、マリアナ・レイテの時は20歳、沖縄の時は21歳です。私のその年齢では一足違いで戦争は終わっていました。私は敗戦に打ちひしがれて虚脱感に捉われていました。振り返ると恥ずかしいです。併し自分がその戦闘の場に立たされたら立派に戦えたかと思うと、頑張って戦えたと思います。

 池田さんの御子息に似た話は沢山聞いています。或る校長先生が、若い女教師に「私の兄は特攻隊で戦死しました」と言ったら、その女教師は「先生のお兄さんは侵略者だったのですね」と言った由。また呉出身の女性が「私は侵略基地であった呉で生まれました」と新聞に投書しているのを読んだことも有ります。

 恐ろしきは教育・宣伝。今の日本の体たらくは、アメリカの日本弱体化の深謀遠慮の行きつく先であったと、65年を思いやる現在です。

 それにシナの「戦わずして勝つ」孫子の兵法をそのまま地で行くやり方。
 日本は負けないで盛り返さなければ!!

 次回は敗戦前後の生と死の問題・見聞を記します。



(「生と死を巡る若き海軍士官の覚悟」 了)

※恕兵衛さまのお手紙はまだまだ続きます


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