一阿の 「英人の見た海軍兵学校」 1
最近、「文春」で藤原正彦の「日本国民に告ぐ」を読んだが、実に明快なわが祖国に対する国家観であり、歴史観だと感銘を受けた。ただ一箇所だけ、どうもいただけないとおろがある。それは、112頁 の「・・すなはち、日本にとって自衛の戦争であった。と証言したのであった(マッカーサー)。これは、ドイツに、明確な世界制覇の意思と共同謀議があった のと対照的である。日本の陸海軍は終始いがみあって、そんな上等な野望のかけらも持ち合わせていなかったのである。」 格調の高い文章を書きながら、ここ のところだけは、如何にも野卑た表現に堕ちている。
保守の論客で、特異な位置を占める西部 邁もテレビの対談で硫黄島の戦いで、陸軍の奮戦を論じた後で、海軍は物資が豊富でアイスクリームを舐めていたと、とんでもない事を言っていた。
又、国士と言われる西村真悟も山本五十六提督を「統帥権を悪用してハワイを攻めて、日本を敗戦に導いた張本人」と根も葉もない作り話を、聴衆に吹聴する始末。
三人とも大変影響力のある立派な人である。それゆえに今の日本の軍隊に対する理解がどれほどの物であるかが、分かるような気がする。
上記の方々は日本の良心とも言うべき知的指導者です。然し本当の帝国陸海軍の姿を体得しておられるとは限りません。此処に掲げるのは戦前敵国であったイギリス人の出版した書物の一部抜粋です。何かの参考になれば幸いです。
「英人の見た海軍兵学校」 セシル・ブロック著 昭和17年3月 発行
セシル・ブロック 昭和7年アメリカに留学中の英人セシリ・ブロックは、江田島で英語 を教えるようにとの招聘を受けて、日本の地を踏む。其の後3年間彼は江田島で暮らした。教養のある若いイギリス人が江田島で、旺溢する海軍魂に触れて、強 く心を動かされる。彼は帰国してケンブリッジ・スクールの教師となったが、江田島生活を回顧して筆を取った。其の後、日本は英米に宣戦し、英国が緒戦マ レー沖海戦で英国の誇る新鋭戦艦プリンス・オブ・ウエールスとレパルスを瞬時にして失うにいたるや、彼はこの書を出版することを決心した。自国民が日本の 実力を知る一助にもなればと思ったからである。
1、 兵学校の歴史
海軍兵学校とイギリス
海軍兵学校は、徳川幕府が廃絶され、日本が欧米の文化を、取りいれるやうになった明治の御代(1867~1912)の最初の大きな収穫の一つであった。
最初兵学校は、東京の築地に在ったが、明治21年(1888)今日の所在地に移された。日本の「ポーツマス」ともいうべき「呉」と瀬戸内海の南端に近い「宮島」との間にある。神戸から150哩。日本国内の西洋化した生活や活動の雰囲気からはるかに離れているのが「江田島」である。
維新の際に、日本人は国内の政治を建て直し、新しい制度を設けるために範を西洋に取ったのであるが、近代的海軍を新設するに当たっても、イギリスから教訓を取り入れて、その業を始めようとした。そこでイギリス海軍大佐ルーシアス・ダグラスの指導下にあった海軍士官他34名の海軍使節団は、明治6年(1873)日本に到着し、海軍兵学校の指導に当たった。
兵学校の生徒館には日、英両国を結びつける絆を思わせる写真が沢山ある。かってプリンス・オブ・ウエルスであったウインザ公爵が、今上陛下の御弟宮高松宮殿下と並んで大講堂の階段の上にいられるところを撮影したものもある。1922年(大正6年)に、ウインザー公爵が日本を訪問したときには、高松宮殿下は兵学校の生徒であらせられたのである。ウインザー公の弟グロスター公爵も、1929年 (昭和4年)に、天皇陛下へガーター勲章を贈呈する任務を終えてから兵学校を訪問している。私は、兵学校の生徒に有益な影響を及ぼすことが出来ると、当局から認められた多くのイギリス人の列に加わったのである。
(続く)
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保守の論客で、特異な位置を占める西部 邁もテレビの対談で硫黄島の戦いで、陸軍の奮戦を論じた後で、海軍は物資が豊富でアイスクリームを舐めていたと、とんでもない事を言っていた。
又、国士と言われる西村真悟も山本五十六提督を「統帥権を悪用してハワイを攻めて、日本を敗戦に導いた張本人」と根も葉もない作り話を、聴衆に吹聴する始末。
三人とも大変影響力のある立派な人である。それゆえに今の日本の軍隊に対する理解がどれほどの物であるかが、分かるような気がする。
上記の方々は日本の良心とも言うべき知的指導者です。然し本当の帝国陸海軍の姿を体得しておられるとは限りません。此処に掲げるのは戦前敵国であったイギリス人の出版した書物の一部抜粋です。何かの参考になれば幸いです。
「英人の見た海軍兵学校」 セシル・ブロック著 昭和17年3月 発行
セシル・ブロック 昭和7年アメリカに留学中の英人セシリ・ブロックは、江田島で英語 を教えるようにとの招聘を受けて、日本の地を踏む。其の後3年間彼は江田島で暮らした。教養のある若いイギリス人が江田島で、旺溢する海軍魂に触れて、強 く心を動かされる。彼は帰国してケンブリッジ・スクールの教師となったが、江田島生活を回顧して筆を取った。其の後、日本は英米に宣戦し、英国が緒戦マ レー沖海戦で英国の誇る新鋭戦艦プリンス・オブ・ウエールスとレパルスを瞬時にして失うにいたるや、彼はこの書を出版することを決心した。自国民が日本の 実力を知る一助にもなればと思ったからである。
1、 兵学校の歴史
海軍兵学校とイギリス
海軍兵学校は、徳川幕府が廃絶され、日本が欧米の文化を、取りいれるやうになった明治の御代(1867~1912)の最初の大きな収穫の一つであった。
最初兵学校は、東京の築地に在ったが、明治21年(1888)今日の所在地に移された。日本の「ポーツマス」ともいうべき「呉」と瀬戸内海の南端に近い「宮島」との間にある。神戸から150哩。日本国内の西洋化した生活や活動の雰囲気からはるかに離れているのが「江田島」である。
維新の際に、日本人は国内の政治を建て直し、新しい制度を設けるために範を西洋に取ったのであるが、近代的海軍を新設するに当たっても、イギリスから教訓を取り入れて、その業を始めようとした。そこでイギリス海軍大佐ルーシアス・ダグラスの指導下にあった海軍士官他34名の海軍使節団は、明治6年(1873)日本に到着し、海軍兵学校の指導に当たった。
兵学校の生徒館には日、英両国を結びつける絆を思わせる写真が沢山ある。かってプリンス・オブ・ウエルスであったウインザ公爵が、今上陛下の御弟宮高松宮殿下と並んで大講堂の階段の上にいられるところを撮影したものもある。1922年(大正6年)に、ウインザー公爵が日本を訪問したときには、高松宮殿下は兵学校の生徒であらせられたのである。ウインザー公の弟グロスター公爵も、1929年 (昭和4年)に、天皇陛下へガーター勲章を贈呈する任務を終えてから兵学校を訪問している。私は、兵学校の生徒に有益な影響を及ぼすことが出来ると、当局から認められた多くのイギリス人の列に加わったのである。
(続く)
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