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一阿の 「澎湃寄する海原の」 14(最終回)

2017/06/30 07:00
敗戦によって、わが国は 帝国海軍聯合艦隊と同じやうに教育の中枢まで撃破され、東京大学はGHQの連れて来たCIE(Civil・Information・and・aducationSection)の共産党どもにより、左傾化して行きました。

頭だけ優秀な人材は、司法 行政 立法の枢要な地位につき、実業・マスコミ・研究機関、また教育畑にばらまかれ、若者の教育に携わりました。戦後72年、今でも、この左傾化は止まりません。害虫が草木の芯深く卵を産みつけるやうに彼等は我が国体の髄に観念の卵を産みつけたのです。五十年や百年でこの卵は死に絶えません。かっての敵(連合国)はわが国の解体が目的ですから当然のことです。

われわれは、もっともっと自分の国が戦争に負けたのだと腹に据えてかからなければ国家の再建は難しいのです。国は元に戻さなければなりません。昔は野党と言っても天皇陛下を中心にしたリベラリスト達であり、マルクス・レーニンを頭に頂く反日集団とは違います。そのことは「昭和精神史」(桶谷秀昭)
や産経新聞の「独立不羈・河合栄治郎とその後の時代」 によく書かれています。

それに日本の国籍を持っていても、台湾や朝鮮半島の血脈を受け継いだ人間が我が国政に関与し、日本国の皇統を論ずる危ふさは、身の毛がよだちます。もっとも、他国の人間であれ、日本国籍を取れば日本人ですから、職業は自由です。問題は彼等の皇統観に在ります。ワールドスタンダードや人権団体の土俵で相撲を取ってもらっては困るのです。私が昨年12月10日 「澎湃寄する海原の・1」を書きましたのは、丁度8月に 今上陛下が御宸襟を国民に垂れ賜うた直後であり、有り難い日本に生を受けて90年、祖国の変わり果てた姿を見るにつけ、この悲しみを少しでも言葉に残したいと思ったからです。

「江田島健児の歌」は兵学校創立50周年記念に50期の在校生徒が作詞したと言いましたが、52期に高松宮宣仁親王がいらっしゃいます。「高松宮日記」は国宝級の歴史資料ですが、宮が大正10年海軍兵学校に入学されてから27年間、市販の日記帳20冊に誰にも知られることなく書き綴られたものです。中央公論社から出版されたこの書籍の編纂には、阿川弘之(予備学生2期)大井篤・豊田隈雄(51期)千早正隆(58期)野村実(71期・一阿の分隊監事)等11人が参画してをられます。

日記について云々する能力を持ちませんが、ただこの中に、マッカーサーによって廃絶された11の宮家の名前が出て来ますので挙げてをきます。伏見宮:閑院宮:久邇宮:山階宮:北白川宮:梨本宮:賀陽宮:東伏見宮:朝香宮:竹田宮:東久邇宮。皇統を断とうとしたGHQが施した施策の一つです。としたら何故日本国民は宮家を元に戻さないのか?。それは彼等が施した教育改革や神社の弱体化や歴史の軽視や極東裁判史観やありとあらゆる巧妙な悪巧みによって国民の本心良心の圧力が低くなっていることに起因すると考えられます。

そして今や、女性宮家の創設とか、女系天皇への議論とか、二千六百年続いた高貴な日本国の解体へのベクトルが固定化しつつあります。民進党の党首や共産党や市民と称するサヨクの人達が皇室典範を変えろと声高に叫びます。しかも国際的な力まで借りて典範の改変を目指します。そう言えば、昔外務官僚だった小和田氏は国際司法裁判所の長官をしていましたね。このチャイナスクールの長老は宮内庁にも力を持っているのは当然です。

私は宮内庁の左傾化が最も危険だと思っています。日本の皇室は人徳があるとか富があるとか至高の美術品の所有とか、西欧の王室、メヂチ家やハプスブルク家と言った方々とはわけが違うのです。御存在そのものが至高の価値であり国の象徴です。二千六百七十四年間続いた男系男子の皇統は世界にはありません。ただ、過ぎ去ったことにだわり、くよくよするのはイケマセン。逆境の中、自らの力で祖国の本質を悟り、力強く進んでいる若い人達と一緒に、明るく勇ましく進むべきは当然です。

何度も言いますが、「有史悠々数千歳皇謨仰げば弥高し♪」(江田島健児の歌)にも歌われているやうに、萬世一系の皇統を70年や80年の浅薄な観念で変えてしまってはならんと言うことです。変わってしまった国体は二度と元にもどりません。 「もろこし我がてうに、もろもろの智者達のさたし申さるる、観念の念ニモ非ズ。又学問をして念の心を悟リテ申念仏ニモ非ズ。ただ往生極楽のためニハ、南無阿弥陀仏と申て、疑なく往生スルゾト思とりテ、申外ニハ別ノ子さい候ハず。但三心四修と申事ノ候ハ、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生スルゾト思フ内ニ籠リ候也。此外ニをくふかき事を存ぜバ、二尊ノあハれみ二ハズレ、本願二もれ候べし。念仏ヲ信ゼン人ハ、たとひ一代ノ法ヲ能能学ストモ、一文不知ノ愚とんの身二ナシテ、尼入道ノ無ちノともがなニ同しテ、ちしやノふるまいヲせずして、只一かうに念仏すべし。」。これは、法然上人の一枚起請文の原本です。

1212年 1月25日に80才で入寂される2日前、衰弱の極致にあって夢に現れた母(韋提希夫人)の求めた浄土ゑの道を諭された言葉です。一般には愛弟子源智に残したものと言われていますが、梅原猛は夢に出てきた母に残した言葉と言っています。母の秦氏は賀茂神社と関係があり、今の百万遍知恩寺の境内には他の浄土宗の寺にはない賀茂神社が祀られています。母は難しい漢字は読めなかったので、分かり易いカタカナを使いました。(「法然の悲しみ」:梅原猛) これは入寂の2日前に示した法然の凝縮した分かり易い教えです。 他力本願とか浄土宗と言った宗教界だけの物語ではなく、我が国の底にある「心」の基本です。「観念」が大切なものを知るのに如何に邪魔になるか、その両刃の愚を説いています。「支那や我が日本国の色々な識者が議論している観念の念ではなのだよ、また学問をして大切なものが何かを研究してわかった観念ではないのだよ。」 と優しく語りかけます。

今やわが国は先進国の仲間入りをし、民主主義国と言われます。戦前は軍国主義で独裁国家と思っている人が殆どです。テレビなんかでは、北朝鮮批判の番組で解説者の落語家が「もっとも、日本も戦前は同じやうなことをやっていたんだから・・・」と鼻でせせら笑いします。彼は戦前生きていたわけではなく、全て聞きかじりか戦勝国(マッカーサー)が施した教育を受けた結果なのです。決してそうではありません。そんなに長くはありませんが、90年生きたこの身体が戦前の方が、静かで豊かで和やかであったと言っています。頭が理解しているのではありません。萬世一系の皇室と共に国家の底に流れて来たそれは潜在意識と言ってもよいものです。

市民の意識の左傾化は戦後だけの物語ではなく、明治維新に西欧から流入した近代意識の害毒の部分とも関連しています。戦後、勝者の文化であった民主主義の上澄の観念と合体してわが国を犯しているのです。勿論徳川時代の末期に洗礼を受けた西欧の文化は、わが国にはかけがえのないものでした。然しこの中にはちゃんと消化しなければ中毒を起こす「観念」が寄生していました。外来文化に内在する害毒を本居宣長は悟っていました。そして69才で「古事記伝」を著します。「観念」の念にもあらず。・・・ 法然上人が諭した言葉は、本居宣長にも受け継がれ、やがて我が国の最高の知性と言われた小林秀雄が
戦後の観念の泥沼の渦の中で、「本居宣長」を書いて生命を終えます。「観念」は共産主義に結びつき、浅はかなマスコミの煽動 に結びつきます。

我々の心の底には観念を超えた日本人の血(潜在意識)が流れています。しかしこれは自覚出来ません。いよいよの時に初めて力を出します。でもそれでは遅いのです。日本人には西欧の「観念」にもまして優れた「何か在るもの」を持っています。それは本居宣長が愛した古事記や日本書紀や万葉集の中に現れています。日本人の誇りを捨てて、共産党の言うやつな平等とか階級とか人間と言った「観念」の麻薬に犯されないやうにしなければなりません。そこには皇室もなければ日本国家もないのです。

ヘーゲルの例の「アウフへーべン」の餅つきの末に出来た「共産主義」 。この観念は地球上の何億の人を殺し、どれだけの国を破滅させたか?まだ分からないのか、と言いたい。その共産党がニコニコしながら、世界の平和と人々の幸せを叫ぶ不思議さ。資本論なんて読んだこともない蓮舫がこの共産党と握手し、自分の嫌いな議員に罵詈雑言を浴びせかける図は正に応仁の乱です。彼等にとって「皇統」なんてどうでもよいのです。これを面白可笑しく好意を以て報ずるマスコミには特に注意したいものです。

こういった集団にとって安倍内閣は生命を犯す天敵です。今の状態は第一次安倍内閣に対する攻撃方法ととてもよく似ています。外交 国防 経済 治安と殆ど関係のないことばかりを取り上げて、共産党的に憲法と結びつけて毎日攻撃するのです。我々は衆愚です。かれらは衆愚をごまかす方法に長けています。前回は見事成功して天下を取りました。しかしこの四年間の恐ろしいまでの国家の衰退ぶりと生活の困窮振りはまだ我々の胸に新しいものがあります。又、そんな世界へ誘い込もうとするのか?と怒りさえ感じます。

やがて世界は一つになるかも知れない。それは神のみぞ知る。人類の心の中の中が本当に一つになった時、世界は一つになる。少なくとも、物理的に一つになっても世界平和とは言わない。そんな時が来るのだろうか。来るかも知れないし、来ないかも知れない。それまで世界の国はそれぞれの国体を信じて進むのが良い。急いで疑わしい観念に飛乗ってはいけない。大怪我をする。日本は日本の国体を鎮るのが一番。それには国を鎮る軍隊が要る。

戦争をしない軍隊。そんなものがあるのだろうか。ある。それは、大日本帝国海軍の条約派の信念だったのです。

淡交とふ / 言の葉に添ひ/ 水温む
先日の産経新聞に載っていた和歌山のある女性の句です。段の一番最後にありました。「これは水交会のロビーだな。」と思いました。山梨勝之進提督の「君子の交わりは淡きこと水の如し」の額書が掛かり、ふと目を落とすと、温い水を湛えた池があります。きっとこの方はご家族かご先祖に海軍の方がをられたんだと和やかな気持ちになりました。



― 終わり ―


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一阿の 「澎湃寄する海原の」 13

2017/06/02 07:00
聯合艦隊司令長官山本五十六は酷熱のラバウル基地で、連日純白の第二種軍装を着用し、出撃してゆく零戦隊員の一人一人に、心を込めて敬礼を送ってをられました。最初から勝てないと分かっている戦いに、軽薄な政治家や極右の人間や、何にも増してマスコミの無責任な煽動により、ドイツ病にかかったまま国家は、戦うことを決めてしまった。戦うと決めた以上、武人として死力を尽くして国を護るのは自明の理です。祖国を護るため、智胆勇の極致を尽くし、身は鴻毛の軽きに思う存念は江田島時代から出来てはいるが、我が亡き後の日本の運命・・・。

同期の堀悌吉や信頼する米内光政や山梨勝之進はいるが・・・。彼の頭をよぎるのは、あの時の無念の憶いだったかも知れない。昭和15年9月16日、 及川古志郎に聯合艦隊と第一艦隊の分離時自分を第一艦隊に米内光政を聯合艦隊にそれぞれ司令長官として配置するやう頼んだ時のこと・・・。本当の胆は伏見宮ご退任時、 米内光政を軍令部総長にと先の先を告げていたら・・・。希しくも、まさにその日昭和天皇が大本営参謀総長・閑院宮載仁親王と軍令部総長・伏見宮博恭王の勇退を内大臣・木戸幸一に相談なさったのだ。木戸日記からは、木戸の言上した内容は分からないが、昭和天皇の御意図に賛成であったことは確かだ。翌17日、侍従武官長・蓮沼 蕃が天皇に呼ばれ、その実現方を指示される。

蓮沼は、交代を当時の陸相東条と海相の及川に計る。東条は直ちに同意したが、及川は19日朝、蓮沼を訪問して、伏見宮博恭王の交代は「絶対に困る」と確答してしまう。及川は米内を尊敬しその能力を認めていた。しかし、それ以上に伏見宮の影響下にあった。

山本五十六長官の「米内光政・軍令部総長」の悲願はここに潰える。! やがて、(昭和16年1月7日)東条内閣の大本営政府連絡会議で、海相が開戦に賛成しない場合には、避戦主義のもと辞職をほのめかしつつ、最後まで抵抗した東郷茂徳外相が海相を支持することは確実だ。さらに、東郷と歩調をあわせて最後まで納得しなかった賀屋興宣蔵相も海相を支持することはほぼ確実と思える。外相・海相・蔵相が避戦主義に出る場合、海軍が賛成しなければ戦争は出来ないと言明していた東条が、戦争反対にまわる可能性はかなりある。永野の軍令部(伏見宮の御勇退後、永野修身が軍令部総長)は、和戦いずれにも応じ、政府を倒す考えはないと言っているから、問題は杉山の参謀本部のみである。

杉山が抵抗しなければ、昭和天皇が東条の指導力に期待なさったように、連絡会議は避戦で一致し、杉山が抵抗すれば、杉山の辞職か更迭と言うことになる。閣僚の意見が一致しておれば、内閣総辞職には至らないはずである。このやうな場合には、参謀本部や国民の一部からまず海軍が非難され、戦争の出来ない海軍は「無用の長物」との声が起こる。しかし、まさか陸軍がクーデターに出るやうなことはあるまい。陸軍、特に参謀本部には、第一部長・田中新一中将を中核とする何人かの極めて積極的な開戦論者がいたけれども、参謀本部に不穏な動きがあったと言う証拠はない。

戦後、わが分隊監事・野村実博士が当時の海軍大臣・嶋田繁太郎に面談された時にも、陸軍側にクーデターの気配を感じたことは、全くなかったと証言している。日本の戦争計画・作戦計画とそれに基ずく開戦論は、ドイツがヨーロッパで勝利するであろ、最悪の場合でも不敗であるとの大前提で、全てが考えられていた。ドイツが現実の歴史のように敗れるのに開戦すると言うのは、狂人の論である。いくら当時の陸海軍が、精神主義になり、組織が制度疲労に陥っていたとしても、陸海軍の指導部が狂人の集団である筈はない。あとから検討すると、真珠湾攻撃の時にはすでに、ドイツ軍の力は伸び切って、モスクワ前面の作戦では敗退していたのだが、日本の指導者はそれを知らなかった。開戦論の大前提であったドイツの勝利ないし不敗は、必ずしも確実ではなかったのだ。

昭和16年1月7日山本が及川に送った書簡は「・・・自ずから他にその人ありと確信するは、既に曩に口頭を以て意見を開陳せる通りなり。・・ 」とあくまて米内を聯合艦隊司令長官に推薦している。その理由は以前に述べました。 あの東条内閣大本営政府連絡会議の場に、嶋田繁太郎海相でなく山本五十六海相であったなら、そして軍令部総長が永野修身でなく米内光政であったなら日本の歴史は変わっていたでせう。いま、ここに空しいタラレバの話しをしているのではありません。一般に太平洋戦争の研究では、開戦は日本にとって不可避であったと言う意見が多い。しかし、この戦争の不可避論は歴史的にはまだ証明されていないし、歴史をつくるのは人、特に指導者であることを思うと、日本にとり、太平洋戦争を避ける道は真珠湾攻撃の直前まで、決して閉ざされてはいなかったのです。

戦後の自由主義 民主主義の浸透、米ソ冷戦の谷間をぬっての経済的発展から、300万の人命の犠牲を払い祖先伝来の多くの財産を消尽したとしても、日本にとり太平洋戦争があった方がよかったと言う意見が力を得ている。しかし果たしてそうであろうか。? 海軍大臣として示した米内光政の見識と人柄から、昭和天皇の周辺では、米内を健康を害している内大臣湯浅倉平の後任者として、更には主相として考える向きがあった。

これらの情報は、元老・西園寺公望の秘書であった原田熊雄から山本五十六にもたらされた。それは原田が昭和14年11月30日、横須賀に在泊する旗艦「長門」を訪れたときであった。「海軍部内に大将はかなり沢山出たけれども、万一軍令部総長が辞された場合、あとを受け継いでゆく見識人格ともに真に信頼するに足る、軍令部総長は米内大将以外にはない。永野大将あるいは加藤隆義、長谷川大将のごときがあるが、それはとても問題にならん。」「自分はどうしても、陛下の幕僚長として米内大将がご奉公することが、むろん国家のためにもなり、また海軍のためにもよいと思う。」山本の原田に対する言葉だったが、この意見は原田から内大臣秘書官長・松平康昌に通じた。

しかし 米内は昭和15年1月に内閣を組織し、しかも予備役に入ってしまった。首相となるのはともかく、予備役になるのは軍令部総長に就任するのに、決定的な障害となる。ときの海相・吉田善吾や海軍省人事局長・伊藤整一(沖縄への「大和」特攻を指揮し最後は司令長官室に内から鍵をかけて「大和」と共に沈んだ。)は米内を現役に残そうと説得したけれども、米内自身がどうしても聞き入れなかった。

何度も言うやうに、予備役からは軍令部総長に推薦することは出来ない。ここから山本の苦闘が始まる。最後まで開戦を阻止せねばならぬ。太平洋戦争の直前に、責任の立場に立っていた海軍首脳の中で、もっとも早く、またもっとも強く開戦に傾斜していったのは軍令部総長の永野修身であった。永野の代わりに米内がそのポストに就いていたら歴史はどのように転回していっただろうか、この思いが私の脳裏からはなれないと野村実博士(一阿の兵学校時代の分隊監事・大尉・歴史学者・学術会会員)は言ってをられます。

緒方竹虎の米内を書いた「一軍人の生涯」はすがすがしい名著だが、私が八角にインタビューしたとき、八角三郎が協力しなければ、この著書は完成しなかったのでは・・」と。(緒方竹虎が、「朝日」で主筆をしていたころは、まだこの新聞もいまのやうにひどくはなかった。また緒方は首相になる直前病を得て逝ってしまう。) 野村 実は言う。「米内への大命降下は、昭和天皇と湯浅内府との合作と考えていた。」 八角三郎にインタビューした時の彼の言葉であった。(昭和38年12月20日)

私はその後、入手出来る限りの資料を集めて検討し、「米内光政の離現役と復帰」 と題する論文にまとめた。この論文は、日本歴史学会の『日本歴史』に掲載され、さらにあとで、わたしの学位論文(慶応義塾大学)の一部となったが、結論は八角の言明と同様だった。野村分隊監事(オ305) が戦後 膨大な資料を読破分析して、学問的見地から帝国海軍のありようと精神を記述された。それは米内光政・山本五十六を中心にした帝国海軍条約派の歴史的な意義でもありました。おやじ(分隊監事)は分隊会でも押し付けがましいことは一切話されず 「この辺にしておきませうか?、つつけますか?」と聞かれるのでした。

個人的な思いや感情は厳しく排除されました。しかし逝かれる最後の分隊会でポツンと「田結は早くいってしまったからナ〜。」 と独り言のやうにつぶやかれたのでした。 個人的なことは一切口にされなかっただけに、私はふと不安を感じていました。教官はその年の暮れ亡くなられました。田結とは71期のクラスヘッド田結保大尉(府立一中より兵学校まで主席を通した英才。昭和17年10月、軽巡「筑摩」にて戦死・サマール沖。21才)のこと、野村実は同期次席。翌年の分隊会で奥様は「主人は海軍の歴史研究にほとんどその生涯を捧げ、私どもの私的な時間はございませんでした。」と申されるのでした。その時私は、ふと、「教官は信頼する期友田結大尉の代わりに、自分の人生をかけて戦前燻し銀のごとき光を放っていた帝国海軍条約派の歴史を研究されたのだ。」 と思いました。

戦後、戦勝国の対日政策に流された浅薄な評論が横行しましたが、「凡将山本五十六」はじめ目を覆うやうな海軍批判本が氾濫しました。歴史は勝者によって作られます。そのお先棒を担ぐのがマスコミです。司馬遼太郎と仲が良く、産経新聞の主筆から筑波大学に移った青木彰(75期)はよく言っていました。戦後のマスコミが堕落したのは、マッカーサーの言うことを聞いてをけば、兎に角安全だとの安易な風習が染み着いてしまったからだ、と。

我が国は二千六百七四年の歴史の中で初めて外敵との戦いに敗れました。そしてかっての敵の言うままに、 軍備に意を用いず、「平和」「平和」 と言い暮らして72年。防衛費がGNPの1パーセントを超えたと言っては騒ぎ 北朝鮮が優れた弾道ミサイルを開発したと言っては騒ぐざまは、国民の感情を煽って国家を破滅に導いた戦前と何ら変わらない姿です。応仁の乱の頃、「この頃都に流行るもの夜討ち 強盗 偽綸旨(りんじ) 下剋上する成り出者・・・」なる落首があります。公序良俗が乱れた時代です。

粕谷一希が今の世を応仁の乱に準えました。この乱れた時代に畏れ多くも皇室に関する典範をいらったり宮家についての定めを決めてはならんのです。パイプをくわえた敵軍の大将がまずやったことは、国体の解体 つまり天皇制の廃絶です。これは連合国の停戦条件を無視したものです、武装解除した国ではやりたい放題です。

しかし当時の日本国民の一億決死の尊皇の情と共産党勢力が今ほど強くなかったことからあきらめました。まして朝鮮戦争で武装解除した旧海軍の見事な機雷除去能力を見るにつけこれを味方につける利を悟ったのです。そして天皇の御退位を諦めました。まして第一生命ビルでの昭和天皇とのご対面。この時陛下は「私はどのような処遇を受けてもよい。国民の安寧をのみ願う。」 とのお言葉に、心を打たれ、迎えるときは、傲然と自室に座っていましたが、お帰りの時は、わざわざ一階の出口扉までお見送りするのです。

しかしその後彼は宮家の廃絶に走ります。今皇位を継ぐ宮家が少ないと民進党あたりが騒ぎますが、女性宮家創設の前にする事があるだろうと言いたい。国体を考えると安倍首相が皇室典範の基本的な改編を先にのばそうと言う方針は正しいと言わざるを得ない。昭和21年から24年までの東大経済学部の状態は全く共産党勢力下にあったと言ってもよい。河合栄治郎教授を追い出し共産党の教授連がGHQのバックアップの下猛威を振るっていました。口では学問の自由とか言っていましたがひどいものでした。

大内兵衛 有沢広巳・山田盛太郎 国を売った横田喜三郎 共産党ではないけれども 宮沢俊義 や南原繁 数えるときりがありません。推計学の泰斗 増山元三郎がこの手法はわが国のやうな利益主体の資本主義社会では数字が誤魔化されるから正確には有効ではない。本当に役立つのは、中国のやうな共産主義社会です。と講義する始末。日本教育のヒエラルキーの頂点をなす学校がこの始末ですから、後は推して知るべしです。


ー つづくー


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一阿の 「澎湃寄する海原の」 12

2017/04/30 08:07
「澎湃寄する海原の大濤砕け散るところ」で、始まる「江田島健児の歌」は、「機(とき)到りなば雲喚(よ)びて、天翔け行かん蛟龍の、池に潜むにも似たるかな、斃れて後に止まんとは我真心の叫びなれ。」で終わります。

これは大正8年、兵学校創立50周年記念に第50期生徒神代猛男が作詞したのだと、初回に申しました。斃れてのちに、祖国の安寧を見守ってをられる樋端(といばな)久利男大佐は51期です。ブーゲンビル島ブインの上空で戦死されました。

P38が16機、群れをなして待ち構えていました。山本五十六連合艦隊指令長官自ら、前線の将兵を慰励する為、ラバウルから翔び立つ一式陸攻に副官として同乗し、長官を守るやうにすぐ後部の座席に座ってをられたのです。樋端(といばな)久利雄大佐の逸話は沢山あります。海軍部内で、その成績や逸材振りは群を抜いていました。私は幼稚園から85年親しくしている友達がいます。ある日、彼に樋端大佐を知っているか、と聞きました。故郷が徳島の大川だと知っていたからです。

すると、「知るも知らぬも、俺の一番尊敬する人や。」と答へたのです。友とは神戸の長田小学校(菊水が帽子の紋章=楠正成)も神戸二中(会下山の麓・湊川のほとり=正成戦死の場所)も同期、しかし、旧制高校からは別でした。彼は五高(熊本)ー京大、そしてリベラルの路線です。

「親父から樋端さんの名前はよく聞いた。大川・・白鳥で樋端(といばな)の名前を知らぬ人間は居らん。貧しい農家の三男で、海兵に合格し、抜群の成績で卒業、数々の作戦で名を馳せた。「樋端」の名を知らんやつはもぐりや」 全く海軍とは縁もゆかりもない友人の方が、私よりよく識っていたのには驚きました。 「樋端ターン」は有名です。

日支事変の頃、新聞にはよく「重慶、渡洋爆撃」の記事が踊りました。その頃、飛行機はプロペラで時速た400キロが良いところです。まして 深夜何の目標もなく海を越え、千キロも飛んで帰るなんてことは、GPSのない時代には、至難の技です。しかし海軍航空隊にはそれが出来たのです。 航空用の天測を使い、空に輝く恒星を六分儀で捉え自機の位置を知る高度の技術を習得していました。 天測は勿論大航海時代からありましたが、20ノット〜30ノットの艦上の作業です。航空機となるとスピードは何倍にもなります。極めて高速て精密な作業が要ります。

さて、問題は重慶上空の空中戦です。蒋介石はソ連から購入した イ-15 イ-16 etcの新鋭機を多数上空に配備しています。そこで樋端大佐は奇抜な作戦を思いつきます。つまり、戦闘機は長く飛べないので、一旦ターンして引き返すと見せかけ、追って来た敵機の燃料が切れるのを見届けてから、重慶を爆撃し多大の戦果を挙げたのでした。世に言う「樋端ターン」です。 最後の連合艦隊指令長官 小澤治三郎は「わしに航空作戦を教えて呉れたのは、樋端だ。」 と言っています。彼の戦死は中央にショックを与へ、日本海海戦の最高の功労者、秋山真之の死にも例えられました。

51期には 小園安名 大井 篤 実松 穣 の諸先輩もいます。小園安名大佐は敗戦時302空(厚木)の司令で首都防衛の任に当たっていました。海軍最大最強の航空部隊です。首都をまもる司令は樋端大佐が最適だったのです。敗戦時、大佐は国体から考えて降伏は有り得ないと、徹底抗戦の信念を変へませでした。玉音放送は中央の偽作だと考えたのです。「302空は降伏せず。以降指揮下より離脱する。」。まだ厚木には秋水(ジェットエンジン)も零戦も彗星も彩雲も月光も勢揃いしていました。

しかし既に玉音放送があり、わが国は終戦を受け入れております。彼は米内光政や高松宮の説得にも肯んじなかったのです。しかし8月22日ついに302空は武装解除されます。23日山澄忠三大佐等(大本営厚木連絡会)の片付けの後一週間後、マッカーサーがパイプをくわえて厚木に降り立つのです。小園大佐はマラリヤの為40℃の高熱を出し、解熱剤を打とうとした者達を拒否したので、数人で取り押さえ、海軍病院(精神科・現在久里浜の国立アルコールセンター)に閉じ込められた上、精神錯乱として手足をしばったまま飲ませず食わせず放置するのです。よく命がもったものです。

やがて軍法会議にかけられ、海軍の軍籍を剥奪された上、無期禁固刑に処せられます。彼が出所するのは、昭和28年恩赦によってです。(講和条約締結)。 しかし海軍の軍籍は剥奪されたままです。そして、昭和35年昭和11月1日鹿児島の一農民として人生を終えます。奥様に軍人恩給が支給されるのはずーっと後のことです。

小園大佐を悪く言う人は一人もいません。あの坂井三郎(零戦の撃墜王)も生命の恩人と書いています。反抗罪で銃殺を覚悟していたところ不問に付してくれた のは時の副長 小園大佐なのです。ラバウルの下士官・ 兵の食事が余り劣悪だったのので文句を言ったところ、若手の士官が激越な叱責をするので、彼(坂井三郎)は遂に威嚇の発砲をします。副長(小園大佐)の前に立たされた坂井上等兵曹は腹の底から真実を告げます。小園は一言「何故俺に直接言わん」と裂帛の気合いを発し、翌日から下士官・兵の食事は改善され、坂井三郎にはなんのお咎めもなかったのです。更に小園は斜銃の発明をします。

ラバウル航空隊は、マリアナ沖海戦後B17の夜間爆撃にあい被害が増えていました。ラバウルへ赴任した小園は敵機の弱点が機体の下部後方にあることを見つけ、攻撃機前方の銃を斜上方に向け固定させたのです。探照灯の光に照らされたB17の胴体下部は丸見えですが、零戦の機影は見えません。この小園式斜銃によってあれほど猛威を振るったB17は、次々と撃ち落とされ、ピタリと襲来は止まりました。やがて302空の司令として首都防衛に当たった際にも、あの「空の要塞」 「B29」 を80機も撃墜しました。斜銃のお陰です。

B29は8000b を飛行し、 零戦は 6000bまでが限界です。彼はこの敵機を6000bまでおびき寄せたのです。剛胆でしかも温情溢れる小園安名大佐を悪く言う人はいません。けれども正邪から言うと、「邪」であり、君命に反した国賊です。

しかし、レイテ特攻で出撃しながらサンベルナンジノ海峡を出たところでニミッツの反撃に曝され理由不明のまま謎の反転をして帰国した栗田艦隊のあの栗田長官と小園大佐のどっちが好きかと聞かれたら、間髪を入れず「小園」と私は答えるでせう。゛世の中の大切なことは大抵好き嫌いて決まる。と言う人がいます。私もそう思います。

小園さんが何故玉音放送を信じなかったか。当時の中央が乱れていたことを知っていたからだ、と言うむきもあるくらいですから、そうかも知れません。純真で純粋な小園さんのことです。昔(2010・1〜2)瑞雪というブログ名で投稿してくれた友人がよく言ったものです。「大東亜戦争を戦ったのは海軍では50期代だ。」 そう言えば、60期代は大尉 70期代は 候補生上がりでした。75期はまだ候補生にもなっていませんでした。尤も70期の散華率は最も高いと言われています。諸先輩のご冥福を祈ります。

瑞雪はあれからすぐ先輩の後を追いました。いい男だった。それにしても、この最も大事な好き嫌いの感情を煽るのが「マスコミ」です。戦前は海軍の条約派の方々が生命をかけて開戦阻止に奔走しても、「朝日」を始めとするマスコミが如何に国民を煽り戦争へと駆り立てたか。それはこの胸に鮮明です。

そして戦後はマッカーサー万歳 共産党万歳。抗日 反日 リベラルと 驚くやうな変身振り。今や、共産党が胸を張り、平和呆けした観念的な左翼政党が目先のことだけにウロチョロする落ちぶれた日本の姿を見て、大正8年の記念歌「斃れて後に止む」の覚悟そのまま、祖国の為に戦われた諸先輩方は、どのやうなお心で見ておられれでせう。

一阿も小学二年で今上陛下こ生誕のサイレンを聞き、ヒットラーユーゲント と講堂て握手し王兆銘が派遣した少年達と合唱し、二・二・六事件も生でニュースを聞き、山本五十六 長官が亡くなってからだけれども海軍の飯を食い、戦後は河合英治郎を追い出した共産党の教授連中の講義を聞き、企業多角化・高度成長期のサラリーマンをやり、平和 平和 リベラル 軍備反対 軍事予算がGNPの1% を超えたと言っては騒いだ時代を過ごしてきました。

そして心の中にはっきりと残っているのは長い戦後のことではなく、あの一年八ケ月の海軍兵学校の生活です。 粕谷一希が今の世を「応仁の乱」に例えたことがあります。何かどこか狂っているやうに感じてなりません。 早く マスコミでない、もっと本質的な心が日本の心を感じてくれる日の来ることを切に祈ります・・・。


ー つづくー


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一阿の 「澎湃寄する海原の」 11

2017/04/03 07:00
前回は、伏見宮博恭王殿下の御生涯を少し詳しく書きました。それは、戦前帝国海軍が如何に、日独伊三国協定に反対し、開戦を阻止しやうと必死の努力をしたかを具体的に述べるためです。敗戦後、戦勝国の教育や宣伝を信じた日本国の知識層は軍隊と言うと戦争が好きで、まるで暴力集団のやうに思っていますが、そうではないのです。自分の国は自分で守る。全ての国はそれが基本です。

だのに、わが国だけは、よその国に守ってもらうと言う変な憲法を、変と思わないでやって来ました。憲法改正絶対反対と、共産党と一緒に騒いでいたら、二千六百有余年も続いた希有な国も地上から消えてしまうかも知れません。決して大袈裟なことを言っているのではありません。アインシュタインやロスチャイルドやモルガンやテビアスやメニューインやあらゆる学会・財界・芸術界の著名な方の多いユダヤの人達がどのような人生を歩んでいるか。チャンとした祖国を持たない民族の悲哀がひしひしと伝わって来ます。

地球上のあらゆる民族に排斥されたユダヤ民族が流浪の果てに、シオニズムによりイスラエル国を造りますが、どんなに日本が羨ましかったでせう。 ところが、日本の現状はマスコミ始め平和ぼけしたリベラルと称する識者・政治家・市民達は、祖国を忘れた流浪の民のやうに「人権」「人権」と叫び 、兎に角安倍内閣を潰そうと躍起です。

日本をどこへ持って行こうとするのか目標もなく、最近では天皇制を廃止しやうとする共産党と手を組む始末です。安倍政権がなぜそれ程イヤなのか、それは日本が昔のやうなチャンとした国家になってゆくのがイヤなのです。これまで、厳しい世界の動乱をよそに、また、「恨」を民族的習性に持つ隣国や反米諸国の地政学的結束を知ってか知らずか、平和・平和と叫んでをれば、それで飯が食えた時代が過ぎて行くのが具合がわるいとしか思えません。

安倍政権はとにかく、教育法を改正し、防衛省を創設し、集団的自衛権に道をつけ、乱れきった「公序良俗」を何とか立て直し、ささやかですが、国防に力を入れて来ました。最近では、「かが」建艦まで漕ぎ着けました。反日・亡国論文が生活の糧であった人達にとってはそりゃあ憎いに違いがありません。

森友学園に国有地を安く売ったと騒いでいますが、彼らが政権を取った時は、どうだったでせう。北京にいた日本大使(ある商社の社長をやっていた男)は奔走して、東京の一等地(中国大使館に隣接した広大な国有地)を中国に提供したではありませか。8億や10億の話ではありません。 この時、朝日 毎日 等サヨク系新聞は殆ど記事にせず、識者や市民さん達は全く無関心だったのを思いだしませう。

その後この商社は中国の商圏を随分と拡張したと言う話です。あの菅直人の時代です。北朝鮮が益々核武装を高度化し、中国の尖閣列島侵略が現実味を帯びて来ている時に、国家観のない議員達が森友森友と歓声を上げている様を見ると、世界のチャンとした政治家や識者は失笑しているのではないでせうか。

さて、山本五十六長官は、伏見宮博恭軍令部総長が御高齢の為身を引かれる後任に、米内光政海軍大臣をと奔走していました。前回の「澎湃寄する海原の10」でもお分かりのやうに、伏見宮は海軍部内では「艦隊派」的なお考えを持たれ、然も殆ど絶対的な権威そのものでありました。

昭和15年9月15日 夕刻、海軍省構内の南西隅、日比谷公園の反対側にある海軍大臣官邸で、日独伊三国同盟条約についての海軍首脳者会議が開かれました。山本五十六も瀬戸内海の柱島泊地から上京し、会議に参加します。会議の冒頭、軍令部総長の伏見宮が発言します。「ここまで来たら、仕方がないね。」 この発言が、同盟についての議論を封じました。反対するつもりで上京した山本は、わずかに 「この条約が成立すれば、アメリカと衝突するかも知れない。現在の航空兵力では、甚だしく不足している。」 との主旨を述べたに過ぎません。会議は日独伊三国同盟に賛成と決定してしまいました。

山本は翌日16日午後11時には離京し夜汽車で呉に帰らなければなりませんでした。彼は不安を必死にこらえていました。翌16日朝、山本は海軍省へ行き及川海相に会います。「あるいは、ドイツのため火中の栗を拾うことになるかも知れないが、アメリカはなかなか立つまい。」及川はのんびりしている。 これではとても危い。一刻も早く、米内光政を博恭王の後任の軍令部総長にしなければいけない。山本は焦ります。

しかし、博恭王に軍令部総長の席を譲れとは誰も言えない。その上、予備役から現役への復帰と言う難問もある。米内は総理大臣で現役から予備役に編入されている。 ふと、山本に妙案が浮かびます。現在、連合艦隊指令長官と第一艦隊指令長官の分離が検討されている。この案に従って、まづ米内を現役に復帰させ連合艦隊指令長官にする。自分は第一艦隊指令長官に残れば、全てが無難に進む。その時、山本は連合艦隊指令長官と第一艦隊指令長官を兼務していました。

やがて、時期がきたとき、博恭王の退任、米内総長の実現と言うことになるのではないか。山本は及川に、この米内の現役復帰を、思い切って進言しました。16日午後11時、東京駅のプラットフォームには、親友の堀 悌吉が見送りに来ていました。首脳者会議に呼ばれていた第二艦隊指令長官の古賀峯一とは同じ寝台車で同行となります。しかし、堀も古賀も山本の進言はまだ知りません。今から考えると、この時山本五十六は、単刀直入に、「米内総長案」を及川に進言した方が、日本の歴史の為には良かったかも知れません。

昭和天皇が、山本の進言と日時を同じくして、博恭王更迭の意向を開示なさるのです。昭和天皇は9月16日、内大臣木戸幸一に、参謀総長閑院宮載仁親王とともに、博恭王の勇退につきご相談遊ばされたのです。木戸の日記からは木戸が言上した内容はわかりませんが、天皇の両総長勇退の御意図に賛成であったことは確かです。翌17日、侍従武官長の蓮沼蕃が呼ばれ、昭和天皇からその実現方を指示されます。

その時点では陛下はご存知なかったけれども、米内内閣が倒れたのは、参謀次長の沢田茂と陸軍次官の阿南惟幾が共謀して、閑院宮にお書き頂いた辞職勧告文を畑俊六陸相に突きつけ、後任陸相を出さなかったからですが、閑院宮が参謀本部の部下に担がれているだけの存在であったことは、すでに明らかでありました。

海軍部内では、昭和天皇と博恭王とのご見解の相違が表面化したことは度々ありました。また、昭和天皇が国際協調を重視され、博恭王が国家主義的なお考えであったことは、今まで申し述べて来ました。昭和天皇は条約派的であられるのに対し、博恭王は艦隊派的お考えでありました。山本五十六は海軍航空本部長 海軍次官 として長く中央にあり、このことに気づいていない筈はありません。

それにしても、昭和天皇が、博恭王の更迭を木戸に言明なさった日と、山本が米内連合艦隊指令長官案を及川に進言した日が全く一致するのは、運命的でさえあります。

昭和天皇の指示を受けた蓮沼は、総長の交代を東条陸相と及川海相にはかります。東条は直ちに同意するのですが、及川は「博恭王」の交代は「絶対にこまる」として、9月19日朝、蓮沼を往訪して確答します。海相就任後まだ二週間の及川が、いくら天皇のご意向であるとは言え、博恭王に伺候して退陣を要求する勇気が無かったのだと考えられます。やがて、10月3日に杉山元が参謀総長に、伏見宮博恭王は留任となります。あれほど山本が日本の行く末の為熱望した。米内軍令部総長の実現は、ここに潰えます。

私が18才の時、江田島の海軍兵学校の一号時代、分隊監事 野村 実 大尉 (防大教授・文学博士)はこう結んでおられます。 昭和15年9月16日朝、山本が及川に、米内の連合艦隊司長官の先に軍令部総長が最終の目標であることを打ち明けていたら、及川は博恭王につぎのやうに言うことができなかっただろうか。

「侍従武官長が参りまして、陛下の思召しを伝えてまいりました。いまは元帥府は、伏見宮殿下 閑院宮殿下 梨本宮殿下のお三方で構成され、両殿下が軍令部総長と参謀総長であられますから、元帥府は全く有名無実となってをります。陛下は時局の進展とも関連し、軍事上の最高顧問である元帥府の確立を望まれ、両統帥部を臣下から任命し、両殿下がもっぱら元帥府にあられて、陛下をお助けいただくことを、ご期待しておられます。軍令部総長の後任としては、軍令部関係の勤務も多く、連合艦隊指令長官 海軍大臣 総理大臣 を歴任した米内が適任と考えますので、陛下にお願いして現役に復帰させ、総長に任命していただけたらと思います。」

とにかく 絶好のタイミングであったチャンスは空しく去った。野村分隊監事は「澎湃寄する海原の・5」 でも述べましたが、いつも水のやうに透明で静かな方でしたが、この時ばかりは、熱情溢れ、まるで自分が、海軍大臣及川古志郎になりかわったやうな迫力で文字を綴ってをられます。 日本をこの苦境に追い込んだ瞬間が、よほど胸に響かれたのでせう。

銀鷹会の席で70期の三浦 節さんと 「世が世なら、野村さんは海軍条約派の総帥になってをられたろうに。」と話しあったものです。 何故、何度も何度も 無き兒の年齢を数える愚を繰り返すのか。それは若い方々に、かってわが国には、決して戦わない、非常に強い軍隊があったことを知ってもらいたいからです。それは、『大日本帝国海軍条約派』です。私はいつも あの 「河合栄治郎」 の人生と重ねて見ています。


ー つづく ー


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一阿の 「澎湃寄する海原の」 10

2017/03/07 07:00
「海軍軍人で政治に関与するのは、海軍大臣ただ一人である。」という言葉は 兵学校時代よく聞きました。青年将校達の最高の憧れは、連合艦隊司令長官であり、決して海軍大臣や軍令部総長ではありませんでした。

さて、 伏見宮博恭(ひろやす)王のことを知らなければ、昭和の日本海軍を理解することは出来ないとよく言われます。博恭王は、明治8年伏見宮貞愛(さだなる)親王の第一王子として生れ、9才の時、華頂宮を継がれます。華頂宮博経(ひろつね)親王は伏見宮から出られ、華頂宮を創られますが、アナポリス(アメリカ)の海軍兵学校時代、訓練中負傷され、これがもとで亡くなります。伏見、華頂両宮家は協議の結果、勅許を得て、博恭王を華頂宮の後継者とします。

やがて博恭王は明治天皇の聖旨により、明治19年4月、築地・海軍兵学校の予科生徒となります。戦前は皇族男子は健康と能力さえ許せば、海軍将校か陸軍将校になるのが原則でした。その後、伏見宮博恭王はキール(ドイツ)の海軍兵学校に入られますが、その経歴は、海軍軍人の尊敬を集め、中心的存在とるのに十分なものがありました。

しかし運命が博恭王を艦隊派的お考えに導いて行きます。そして条約派的お考えの昭和天皇と微妙に違う立場にたたれます。(このことは後で述べます。)当時築地海軍兵学校は、浜離宮に向かい合う広大な地域を占めていました。現在は中央卸売市場 海上保安庁水路部 国立ガンセンター等になっています。博恭王が築地海軍兵学校で学ばれた3年間は、いわゆる鹿鳴館時代で生徒が華美に流れ、自由民権思想に影響されて、政治に興味を持つことを慮って、明治21年8月、江田島に移されました。

さて、博恭王は少佐のとき華頂宮から伏見宮に復帰されますが、 宮のご性格をよく現している事件が起きます。昭和2年8月24日 夜半、島根県 美保ヶ関沖の暗夜の海上で、連合艦隊の基本演習が行われていました。ワシントン軍縮条約によって、主力艦・空母を劣勢比率に制限された日本海軍では、必勝戦法の一つとして、夜戦が最も重視されていました。美保が関事件として知られるこの夜の大惨事は、水雷部隊の暗夜高速の襲撃運動中に起きました。駆逐隊の一番艦「神通」と後方から突進して来た駆逐艦「蕨」が衝突したのです。 「蕨」は火炎を発し、艦体が切断されて沈没、104人が死傷しました。

次いで軽巡隊二番艦「那珂」と突進中の駆逐艦「葦」が衝突しました。「葦」は三番砲から後部を切断され29人が死傷したのです。二隻の軽巡にも大損傷がありました。「神通」 艦長 水城圭次大佐は責任を感じて、同年12月26日、自刃して果てました。このとき、軍事参議官であった伏見宮博恭王は水城大佐の自刃に深く感動され、自ら水交社へ赴いて礼拝する意向を示されました。

海軍軍令部長 鈴木貫太郎は、岡田啓介海相と相談し、御付武官の差遣が適当であろうと御進言申し上げたのですが、伏見宮は自分の礼拝によって遺族が迷惑したり、世間が騒ぐことのないことを確認すると、通常礼装で、水交社に赴き、水城の霊に深く礼拝されたのでした。当時の皇族のお立場は今と全く違います。伏見宮と水城大佐は生前何ら特別の関係はなかったのです。

お若いころ、伏見宮は海軍少佐で、第三分隊長として「三笠」の後部砲塔を指揮されますが、東郷平八郎司令長官のもとに黄海海戦を戦って負傷されます。殿下(伏見宮)は海軍軍人として最も重要な操艦の技量にも優れ、周囲の敬意を集めるのに充分な能力を持ってをられたのです。やがて昭和7年2月海軍軍令部長に親補され、大東亜戦争前の日本海軍の政策決定に、重大な影響を与えるやうになられます。

ところで、第一次・第二次の世界大戦の基調をなすのは、イギリスとドイツの対立ですが、特にウィルヘルム二世の海軍政策とヒットラーの東方政策が、イギリスを刺激したことに起因すると言われています。日本は第一次世界大戦では、イギリスと同盟してドイツと戦い、第二次大戦ではドイツと同盟してイギリスと戦いました。前者では、勝利者の列に連なり、後者では国家を滅亡の淵に投げ込みました。

さて、昭和天皇が、国際協調を重視され、常に平和をお望みであったことは疑う余地がありません。昭和天皇の御生誕は、明治34年、翌年には日英同盟が締結されています。爾来20年間は、日英同盟の全盛期でした。また大正デモクラシーの時代でもありました。皇太子時代には、イギリスに外遊遊ばされ、イギリス王室とのご親交もお有りになりました。陛下が海軍条約派的お考えの持ち主であったことは、これらの背景と無関係ではありません。

しかし一方、伏見宮は、海軍軍令部長・軍令部総長であり、大東亜戦争の直前約10年近く、海軍部内ではほぼ絶対的な権威を持っておられましたし、昭和天皇といえどもこれを無視することは容易ではなかったのです。 日本を奈落の底に突き落とした日独伊三国同盟に昭和天皇は反対のお立場をとられ、伏見宮は賛成の側に回られます。前にも申し上げましたが、陸軍は明治以降ドイツに学び、海軍はイギリスを範としましたので、必然的にこの同盟に対して、採るべき道は違っていました。

陸軍は日独伊同盟に賛成し、海軍は反対でした。ただ既述のやうに、海軍の中でも、艦隊派は賛成の気持ちを持っていました。 ここで申し上げたいのは、観念的に是非善悪を決めつけ、サヨクリベラルのえらいおじさん達のやうに、戦争責任を追求して、極東裁判がどうの軍部がどうの、軍国主義がどうのと、「歴史の綾」 を無視して、無国籍人のごとく、子供っぽい断定で結論をだすことだけはしたくないのです。

日本の軍隊は万葉の「防人(さきもり)」の時代から歴史の中を流れてきました。それは、歴史と共にあります。進歩的有識者達が簡単に軍部を批判し、返す刀で「反省」「懺悔」のビラを撒き散らす様を見ると、私は詩人那珂太郎(海軍兵学校・国語教官)が「鎮魂歌」(藤村記念・歴程賞)で書かれた一節を思い出します。「・・・戦後の高みから、平和時の正論をもって、自らの心の痛みなしに批判し断罪する者が・・・」と。

我が分隊監事・野村 実 大尉(歴史学者・文学博士)も開戦までの微妙な成り行きを「万事塞翁が馬」という表現を使って歴史と対応させてをられます。 前ブログで述べましたが、山本五十六長官は、この日独伊同盟には絶対反対でした。全力を尽くして同盟阻止を画策します。しかし ほんの僅かの齟齬がこれを阻みます。

ところで、明治天皇はお年齢(とし)を召されてから、ご病弱な嘉仁親王(大正天皇)の行末を案じられ、伏見宮博恭王を親王の「相談相手」として起用なさるお心を持ってをられたと拝察されます。ある時、戦艦「朝日」の艦長であった伏見宮が士官室にこられた時、士官一同の前で、「自分は艦長としては、これがおしまいかも知れない。実は明治天皇の思し召しもあって、皇太子殿下の御相談相手になるかも知れない。それで、皆しっかりやって、『朝日』の成績を揚げてもらいたい。」と述べてをられるのです。

(明治44年) 昭和天皇は少年時代から、明治天皇や大正天皇とそのやうな関係におられた伏見宮博恭王の姿を見聞して成長されました。昭和天皇の即位大礼は、昭和3年11月でしたが、すぐあと12月4日に横浜港外で、大礼特別観艦式が行われます。伏見宮は即位大礼に参列された後すぐ海軍大将・軍事参議官として、お召艦、戦艦 「榛名」に乗艦し、昭和天皇が東京駅につかれるまで、ずっと天皇と共にありました。大正時代の日本海軍にとって、博恭王は昭和天皇の分身でさえありました。

博恭王が海軍軍令部長に就任すると、昭和天皇と博恭王の距離は益々接近され、博恭王の御発言は、海軍部内ではほぼ絶対的な権威を持っていましたので、前にも書きましたやうに、昭和天皇といえどもこれを無視することは容易ではなかったと、拝察されます。博恭王は日本海軍の誕生と共に歩まれ、日本海軍が消滅した敗戦の翌年亡くなりました。日本海軍の齢(よわい)とほぼ同じなのです。

しかも、昭和天皇は条約派的お考えを持たれ、博恭王は艦隊派的なお考えで進まれました。山本五十六、米内光政、各提督と伏見宮軍令部総長御退任の問題は次に述べます。昭和15年 ドイツの快進撃を見て、マスコミを始め国民の殆どが、ドイツ病にかかり、熱病に我を忘れていた時に、昭和天皇は如何に御宸襟を痛められ、日本海軍の条約派の提督達が苦慮したか。

大切なことは、目に見えないところにあります。 我々の先祖が国を守り国民を守るのに、どんなに苦労したか、そして命を擲ったか。それは歴史の底を流れて、日本国の潜在意識になっています。「やまとごころ」です。他の国の意識や観念に染まり、目に見えることだけに現(うつつ)をぬかし、リベラル リベラルと叫ぶのはとても危ない。日本は共産主義国家でもなくアメリカでもロシアでもありません。戦後70年間、我が国は変な方向に行ってしまっています。

早く元に戻らないと子孫に桜の美しい祖国を引き継げなくなります。北朝鮮が弾道ミサイルを三発日本の排他的経済水域に、正確に撃ち込んだその日に、小さな地方問題を手柄顔に、安倍叩きに余念のない共産党や民進党等々の面々をみていると、背筋が寒くなります。


ー つづく ー


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一阿の 「澎湃寄する海原の」 9

2017/02/13 07:00
「Fleet in Being」 と言う言葉があります。戦前の帝国海軍が守ってきた考え方です。攻撃するのが目的ではなく、存在自体が国力であり国防になると言う考え方です。

僅か1年8ヶ月の兵学校生活では、海軍の幼稚園生で、とても戦前の深い帝国海軍の事情は語れません。ただ、戦後分隊会で話された野村実分隊監事(大尉・文学博士・「澎湃寄する海原の」5参照)のまことの言葉は伝へたいと思います。

海軍には、「艦隊派」と言われる海上艦艇に重きを置く保守的なグループと、大鑑巨砲にこだわらず国際条約を重視し「Fleet in being 」の考えを重視するグループがありました。この方々は、航空戦力を重視しました。山本五十六長官(元帥)もその一人です。生命をかけて終戦の工作をされた、鈴木貫太郎、米内光政 井上成美 、と言った提督は条約派です。人口に膾炙している方々には 堀 悌吉 山梨勝之進提督がいます。

堀悌吉は山本五十六と同期(32期)であり親友でした。山梨勝之進は今でも表参道の「水交会」のロビーに掛かっている扁額「君子交淡如水」(君子の交わりは淡きこと水の如し。=水交会の由来。)を書かれた方です。戦後、学習院院長、皇太子(今上天皇)の御養育係をされました。例のヴァイニング夫人が米国から派遣され、軍国主義にまみれた文化的後進国 日本の皇太子に民主主義を注ぎ込むのだ、と手ぐすね引いてやって来ますが、山梨勝之進に触れ、すっかり心が変わり、自分は思い上がっていたと反省しながら帰米したと言われます。

さて、山本五十六は何時艦隊派から条約派に変わったのでせうか?ロンドン海軍軍縮会議は昭和5年4月22日に調印され、山本は一行と共に北野丸で神戸に帰着しますが、その日(6月17日)港内の船上から反町栄一にあてて、「会議の成績に鑑み、汗顔の至りに御座候」と書簡をしたためています。これは前にも書きましたやうに、ロンドン ブロクナーハウスでの対立で、彼がこの条約に不満を抱いていたことを表しています。

この対立が、東京の海軍省と軍令部の対立に移り、やがてそれが倒閣運動に絡んで、政友会と民政党の対立に移行して行きました。帰国した山本は、かっての海軍大学校時代の尊敬する教官であった海軍次官・山梨勝之進や、同期の親友・海軍省軍務局長 堀悌吉が、気性の激しい軍令部長 加藤寛治や政治的策動の多い末次信正などに、「統帥権干犯」のスローガンのもとに攻撃されたのを知ります。山本は自分のいない6ヶ月間に海軍中央部で起こった変容ぶりに衝撃を受けたと思われます。山梨は末次と喧嘩両成敗の形で、軍令部出仕に退いていました。

「統帥権干犯」の言葉を新造したのは、後に二二六事件の黒幕として刑死した、北一輝です。 もともと、「統帥権」などと言う魔物には海軍軍人は関心はなかったのですが、政争には絶対中立であるべき海軍が、不用意に巻き込まれて行きます。前述しましたやうに、山本五十六は、純軍事的な考え方と交渉技術の上から、条約調印に反対したのですが、「政友会」の代議士達が、未熟な軍事理論を振りかざし、倒閣の目的だけの論陣をはるのを正視出来なかったでせう。

今もそのやうなことが、「民進党」の代議士あたりの発言にほの見えます。山本は帰国後、病気と称し、一切の面会を断ち、鎌倉の自宅に引きこもります。しかし 山本は条約調印が軍事的には、大して問題はない、と気づいたはずです。かれは航空兵力のことを考えておりました。気を取り直した山本に待っていたのは、海軍航空本部技術部長のポストでした。こう考えると、山本がロンドンから神戸に帰着した、昭和5年6月17日が、その考え方が艦隊派的から条約派的に移行した分岐点と考えられます。山本が本当に残念がり、後悔の臍を噛んだことが一つあります。

なぜこんな死んだ兒の歳を数えるやうなことばかり書くかと言いますと、今の識者と言われ、サヨクリベラルの人達が、一度も軍隊の経験もなく、軍隊がまるで国家や平和を壊す魔物のやうに思い込んでいる様子を見て、決してそうではないことを告げたいからです。

「戦闘」と言う言葉で、頭のテッペンから黄色い声を出して倒閣の目的だけの為に防衛大臣にくってかかる姿を見るにつけ、まるで87年前に逆戻りしたやうな錯覚に陥ります。軍隊と言うものは。共産党の言うやうな人を殺す集団でもなく、侵略を目的とする集団でもありません。帝国海軍はマスコミや政府の戦争指向に対し、昭和天皇の大御心を体して、最後まで戦争に反対したのです。昭和天皇は条約派的なお考えを持たれ、伏見宮は艦隊派的なお考えでした。このことは後で述べます。

陛下が如何に米内光政を信頼されたかは、よく知られています。「軍隊」と言うと、陸軍も海軍も混合し、艦隊派も条約派も知らず、反対 反対と叫ぶ人達は、本当に・・・「平和を愛する諸国民の公正と真義に信頼して、われらの安全と生存を確保」・・・出来ると信じているのでせうか。? どんなに苦しくても、自分の国は、自分で守る、と言うのが、自然の理ではないでしょうか。米国が守ってくれるのせうか、EUですか。ロシヤですか、中国が守ってくれるのですか。

我々はそろそろ共産党の観念と決別し、共産党と手を組んで倒閣のみに狂奔している民進党やこの種野党のヴェクトルを変えて行かないと、気がついた時には、時既に遅しの危険を味わはないとも限りません。 さて日本の帝国海軍は最後まで戦争に反対をしました。それはまだ国力が戦争に耐えるほど成熟していないと分析したからです。国力と言います。国力は戦力 経済力 外交力 政治力 文化力教養力 健康力等々色々あると思いますが、今でもその50%は戦力が占めているのではないでせうか。日本には戦力はありません。経済力その他、だけで、諸外国と対応するのは無理があります。

再軍備と言っても、航空母艦や戦車やミサイルを造れと言っているのではありません。 宇宙をも含め、日本国民の全知全能を集中して、自分たちの生命と安全と幸せを守る組織を創ると言うことです。機密を守ると言う一つをとっても、民間と軍隊では全く違うのです。戦後どれだけ大切な機密が盗まれたか? 。わが国がスパイ天国と言われる所以です。

さて、山本五十六が、ハワイ空襲の構想を、海軍大臣の及川古志郎に打ち明けたのは、昭和15年11月下旬でしたが、その時はまだ、あとでハワイを空襲することになる第一航空艦隊は、編成されていませんでした。

この時、海軍中央部は、連合艦隊司令長官と第一艦隊司令長官を分離する方針を検討していました。山本が兼務していた2つの司令長官のポストを分離し、また第一航空艦隊を新編する日は、昭和16年4月と計画されていました。山本は次のやうな書簡を、及川に出しています。「小官は本ハワイ作戦の実施に方りては、航空艦隊司令長官を拝命して、攻撃部隊を直率せしめられんことを切望するものなり。爾後、堂々の大作戦を指導すべき大連合艦隊司令長官に至りては、自ずから他にその人ありと確信するは、既に曩に口頭を以て意見を開陳せる通なり。

・・・この書簡の表面上の意味は、4月の編成換えの時、米内連合艦隊司令長官・山本第一航空艦隊司令長官でやって欲しい。と言うのですが、これだけでは、如何にも不可解なことが多すぎます。

その頃は、国家の政策として、まだ全くアメリカと戦争しやうなどと言う構想はなかったし、むしろ対米戦は避けなければならないと言うのが大勢でした。アメリカと戦ってはいけないと言う山本が、自身でハワイを空襲して、戦争を開始すると言うのは、如何にも合理的ではありません。また避戦派の筆頭の米内が、連合艦隊司令長官として対米戦を指揮すると言うのもなんとなく空想的です。しかしその裏をつめて行きますと、米内軍令部総長への深い伏線であったことがわかります。


ー つづく ー


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一阿の 「澎湃寄する海原の」 8

2017/01/31 07:00
第一次世界大戦の後半、ドイツは国際法を破り、無制限潜水艦戦を宣言します。(1917年、2月1日)。 そして、モンロー主義路線を走って来たアメリカも、遂に対独宣戦を布告しました。(同年 4月6日)。日本はこの1週間後、地中海のシーレーン防衛の為、軽巡 明石 と駆逐艦8隻をマルタ島に派遣します。

この艦隊派遣の、政治的 外交的 軍事的成果が大きいことが、証明され日本海軍は、新鋭駆逐艦4隻を増派し、装甲巡洋艦 出雲 ついで 日進 を旗艦として派遣します。このことは、ドイツの無制限潜水艦作戦の撃破に大いに効果を挙げました。そして日本が拿捕したドイツ戦利潜水艦は日本海軍の潜水艦建造能力を急速に高めたのでした。

爾来日本海軍、現代の海上自衛隊の潜水艦能力は世界でも一二を争っています。地中海で活躍したこれら第二特務艦隊は、大戦終了後(1918年11月11日)講和会議の最中に、イギリス・フランス・ベルギー・イタリアなどを訪問し、日本がヨーロッパまで艦隊を派遣していたことを、連合国諸国民に認識させました。日本は五大国の一つとして大いに重んじられたのでした。この大戦て日本はマーシャル・カロリン・マリヤナ諸島を委任統治地として得ます。

さて最近のことですが、近くの床屋の兄ちゃんに、たまたま3諸島のことを話したら、「あれは、日本が侵略したんではないのですか?」と言うので、そうでないことを説明するのに大変でした。 またいつか、言わないでもいいのに、兵学校の訓練の厳しさを話したら、彼は 「まるで北朝鮮のやうだったんですね。」と答えました。これには往生しました。

戦後 幼い子供達に明治 大正 昭和の正しい歴史を教えず、進駐軍のご機嫌を伺い、共産党を同類項と考えてすごして来た時間がとても勿体無く感じます。国家よりも人権を重んじ、自分の国の歴史を疑い、天皇制を廃し共産社会を作ろうと言う不遜な観念 教義を信ずる人達の政策に同調するヴェクトルは、そろそろ変えないと、「日本の国体」の中の桜が枯れてしまいます。

勿論サヨク・リベラリストにも良いところはあり、全て悪いと言うのではありません。ならば、何故「軍隊」の必要な面を考え、悪い面は改め、良い面を残して「軍隊」を存続させてはいけないのでせう。誰が国を守るのですか。自衛隊では守れない、とちゃんと国会でも答弁しています。悪い面だけをあげつらって、再軍備絶対反対を叫ぶのは、何処かの国を利するだけです。

私はかって、戦後左右両輪があって車は真っ直ぐに進むのに、右の車は戦勝国によって破壊され、左の車だけで走って来た。と言いました。戦後私はまだ大学生でしたが、鉄兜に小銃を持ったM・P(ミリタリーポリス)が宮場前、第一生命ビルの入口にふんぞり返って立ってゐたのを昨日のやうに思い出します。マッカーサーがゐたのです。日本は戦争に負けました。武装解除された日本人の物の考え方が、徐々に、徐々に、銃剣によって、その力を気ずかせぬほど巧妙に、変えさせられたとも言えます。自らの自覚と反省によって変わったと言うよりもです。

この様子は戦前をを知っている者でないと分かりません。(戦前と言っても、敗戦時10才や15才では無理でせう)。デレビやマスコミに従事している人は知りません。彼等は観念です。頭の先の働きです。人は意識出来る世界と意識出来ない世界を持ってゐます。そして意識出来る世界のことが、だんだん意識出来ない世界に染み込んで、信念になって行きます。国家で言えば何世代もかかって国体と言うものになります。だからマスコミは非常に大事で、また恐ろしいのです。我々が思う以上に害悪を流します。

先日、NHKが戦艦「武蔵」の番組を流しました。一見良く出来ているやうに見えますが、実に巧妙に「反戦」「海軍批判」が隠されています。そして最後に必ず92・3才の水兵さんを連れてきて「あんな残酷な戦争はいやだ。」と言わせます。勿論この方も命をかけて戦われた立派な人です。ならば何故NHKは武蔵沈没で泳いだ永末英一(旧民社党委員長)を出さないのでせう。海軍批判に不都合なのです。 彼は最後まで「栗田長官」を敬愛し尊敬し続けました。


ー つづくー


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一阿の 「澎湃寄する海原の」 7

2017/01/26 07:00
「見よ西欧に咲き誇る文華の蔭に憂あり。太平洋を顧みよ東亜の空に雲暗し。」 大正8年、海軍兵学校一号生徒 神代猛男 の作詞したこの歌は不思議に現代にそっくり当てはまるやうです。

神代生徒は50期で、兵学校創立50周年を記念して作詞したことは、前に述べました。大正8年と言うと、ベルサイユ条約で第一次世界大戦の結末が決まった年です。第一次世界大戦は日本は大して戦わず、漁夫の利を得たやうに言われますが、そうではなく、帝国海軍は連合国の中で重要な役割を果たすのです。

大戦前期の帝国海軍の役割は、ドイツ太平洋艦隊を撃滅して太平洋・インド洋の連合国のシーレーンを守ることでした。当時ドイツ皇帝 ウィルヘルム二世は大海軍の建設を目論み、太平洋にも強力な艦隊を送り込んでゐました。その上、黄禍論を唱えるのです。マーシャル・ カロリン・ マリヤナ諸島は独領でしたし、また青島にドイツの軍港を構え、太平洋艦隊の母港にしてゐました、その司令官は音に聞こえた猛将シュペー中将です。連合国船舶16隻を撃沈したあの軽巡エムデンも青島におりました。

青島作戦では、第一艦隊(旗艦・摂津が全面支援。第二艦隊(旗艦・周防)は封鎖と上陸援護です。イギリスの支那方面艦隊の戦艦 1 駆逐艦 1が日本の第二艦隊の指揮下に入り、1914(大正3年)11月7日 ドイツ軍は降伏します。その後シュペー艦隊撃滅とシーレーン確保の為、4つの艦隊が派遣されます。

第一南遣支隊(旗艦・鞍馬・山屋他人中将)。第二南遣支隊(旗艦・薩摩、松村龍雄少将)。 特別南遣支隊(巡戦・伊吹・加藤寛治大佐)。遣米支隊(旗艦・出雲・森山慶三郎少将)です。第一南遣支隊は、シュペーを追って、マーシャル諸島へ進航しますが、シュペーはマリアナ諸島で臨戦準備を完了し、南米に向かっていました。第二南遣隊はカロリン諸島方面でシーレーンの確保に当たりました。特別南遣隊は、主にインド洋でシュペー艦隊が分派した「エムデン」から連合国側の艦船の保護に当たりました。遣米支隊は北米西岸のシーレーンを守ったあと南下してシュペー艦隊を追うことになります。

シュペー艦隊は最初はイギリス艦隊と戦い、コロネル沖海戦で勝ちますが、勝ちに乗じて大西洋に回りフォークランドを占領しようとして接近したとき、イギリス本国が派遣した強力なスタディー艦隊と遭遇し、フォークランド沖海戦(1914・12月8日)で惨敗し、シュペー提督も戦死します。サッチャーが何故フォークランドにこだわったかは、この歴史的事実によるのです。シュペー艦隊が敗れ、極東のドイツ勢力は一掃され、大西洋 インド洋の制海権は連合国側の手中に収まりました。

イギリス海軍は、太平洋をほぼ日本艦隊に任せ、イギリス本国を中心に大西洋・地中海方面に全力を注ぎ得る態勢を得たのでした。 大戦後期の日本海軍の大事な作戦は、第二特務艦隊の地中海派遣です。 この時まではまだアメリカは連合国側として宣戦布告をしていなかったのです。 今、トランプが内向きだと言って騒いでいますが、アメリカは、常にモンロー主義にたち戻り、内向きになる習性があります。

どの国も富国強兵路線を歩むのは当然で、口先で平和平和と言っても世界平和はきません。富国強兵策を採る各国の中で、如何に国を守り、国際平和を実現するかは、リベラルと称し識者と言われる人達が唱えるほど簡単ではないのです。彼らの言うことを聞いていると、まるで日本人は敗戦の瞬間から脱皮した蝶々のやうに、「平和」の観念の空を飛んでいるやうに感じます。物事の自然の理として、自分の国は自分で護らなければならない。最低限度の軍隊(憲法で規定された)をもたなければ、腹を割った交渉さえ出来ません。現代で言えば3つの国を除いて自国一国で自分の国土を守れる国はありません。


ー つづくー


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一阿の 「澎湃寄する海原の」 6

2017/01/20 07:28
短いブログの一節で「軍」について語るのは難しいですが、最近でも「軍」と言うと、余程優れた保守の論客でも、噛んで吐き出す口調で切り捨てるので、すこし思いを述べます。

一体この日本の国を誰が守るのだろう。樽俎(酒を酌み交わして話し合う)だけで、国が守れるのだろうか。アメリカに軍隊はないのか。中国に軍隊はないのか。それ程わが国の軍隊は無道だったのでせうか。

日本の首相が他国を訪れるとその国の戦没者の慰霊碑に参拝する。「靖国で会おう」と純忠の誠を捧げられた我が先祖家族友人の安らぎの杜(もり)靖国神社にお参りでもしやうものなら大変です。マスコミは他人ごと。サヨクマスコミは待ってましたとばかり真っ向から批判する。不思議なことです。

敗戦後70年も経ってこの様(ザマ)はないだろうと思います。蓮舫なんかは勝ち誇ったやうにわが国の防衛大臣を攻め続けます。軍隊について如何に間違った情報が流されたか少し述べてみます。(昔のことですが。) 昔はGNPの概念がありませんから、国力を海軍力で計りました。軍艦は世界中の何処へでも出掛けて戦えるからです。

進駐軍は、予想以上に強かった日本の海軍を二度と立ち上がらせない為に・・・軍縮会議 ― 海軍の反対 ― 暴走 ― ハワイ真珠湾攻撃 ― 敗戦 と言う見え透いた軽い論理で日本国民に反軍思想を植え付けて来ました。(そればかりではありませんが。)軍縮会議と言ってもワシントン会議 第一次ロンドン会議 第二次ロンドン会議 と三回ありますが、山本五十六が無念の打電をした第二次ロンドン会議予備交渉について言いますと、 昭和5年3月13日所謂松平ーリード案が得られますが、この松平は駐英大使で以前から上院議員リードとは親密な関係にありました。

案と言うのは、1. 大型巡洋艦・軽巡洋艦・駆逐艦・潜水艦 トータルのトン数 対米 7.0割 を 対米 .6.975割 大型巡洋艦 対米7.0割を6.022割に 潜水艦 対米 68.497トンを52.700トンにと言う妥協案でした。ロンドン トラファルガー広場のブログナーハウスにいた山本五十六達は熱心な交渉や研究を続けて勝算を得つつありました。

当時フランスは日本より不利な立場に立たされてをり、英米日仏の比率は5:5:3:1.75 でした。フランスの誇りはナポレオン、イギリスの誇りはネルソンです。この両国はいつも争っていました。それにイギリスはアメリカに優越感を持ってをり、これとパリティーになることに微妙な感情を持ってゐたのです。(昔も今もそんなに変わりません。)

クローデル(駐日大使)はかってこんな事まで言うのです。「フランスは海岸や領土を守るため、多くの小艦艇特に潜水艦を必要とする。日本もご同様ならんと思う。各国は自国の安全を主として国防を計画する自由がなければならない。総トン数を決め、その枠内で各国が自由に国防を行うのが良い。フランスは5:5:3:1.75(フランス)の比率は到底忍ぶことは出来ない。」 「この際、アングロサクソンと対立して日本とフランスの関係はあい似たものと考える。」 潜水艦の必要性を強調したフランス海相デュメニルに日本の財部全権は尋ねます「イギリスはどの程度までトン数切り下げを要求してきたのか。」。

デュメニルはいささか戸惑い、随行の海軍将官と目配せし、66.000トンと答えます。 日本政府の妥協案は 52.700トンでしたから 山本五十六始め日本海軍サイドはもう一押しすれば英米は譲歩するとの確信を得ます。更に、フランス主席全権クルディユ主相は3月16日「我々は急ぐことを必要としない。。成功を必要とする。満足な結果に到達出来ると信ずる。」との声明を発表します。

山本五十六以下の日本側海軍随員は日本側の有利な状況を確信します。山本は随員を代表して、日本側の全権 財部に具申します。財部の指示によって、山本五十六は主席全権若槻礼次郎元主相に意見を述べます。ところが、若槻は、その情報はオーソライズされていない。と妥協案以外は受け付けないのです。

その頃英米は慌てて、駐日大使に命じ、当時(昭和5年)の外務大臣幣原喜重郎と外務次官吉田茂に工作します。若槻はこれ以上英米に妥協を求めるのは無理として、政府の全権四人だけで合意のあと,全権顧問や海軍随員に知らすことなく、妥協案を最終案として東京へ請訓するのです。日本は軍縮会議にやぶれ不利な条件を呑むことになります。この時の山本五十六、山口多聞、三川軍一等々の憤懣は計り知れないものがあります。

この時の海軍の軍人達は昭和史の映画などでは、たいてい悪者になっています。石原慎太郎でも、山本五十六が賀屋興宣を殴ったとか殴らなかったとか、くだらんことを言って、当時のリベラル官僚を擁護する愚を繰り返すのです。海軍の横暴を官僚が如何に苦労して食い止めたかの明かしに軍縮会議を例にするのです。こういう人達も今は保守と言われます。前掲の吉田茂や幣原喜重郎の戦後の行動は申す必要がありません。日本国の保守の源流です。

しかし昭和の10年代から敗戦までは明らかにリベラルの側にいました。日本は明らかに大きく「左」に寄ってしまったのです。(左とか右という言葉は使いたくないのですが) 軍の横暴で国民は迷惑し国敗れてやっと人権が認められ、民主主義の有り難さがわかったと再軍備反対、憲法改正反対を唱えるのも議論の一つでせう。

しかし 時々思うのです。このままで本当に我が国は百年後二百年後、いや千年後、子々孫々に残せるのだろうかと。緑の好きな多神教の美しい国が一神教の国に犯されていくつ地球上から消えていったでせう。

軍縮会議の模様は、江田島時代の分隊監事、野村実(大尉)文学博士が、あらゆる資料を精査して得た事実です。かっては航空母艦「瑞鶴」で実戦に参加し軍令部に在籍された方です。戦後、人の話しの又聞きと資料だけで、海軍の長老のやうな格好をしている人が多い中で、貴重な存在と言わなくてはなりません。

「 去年今年貫く棒の如きもの 虚子 」 大晦日から新年に向かって流れる不思議な時間への美意識を虚子は「棒のごときもの」と言いました。 これは虚子の無意識領の物語です。上っ面な観念の世界ではありません。 国家にも潜在意識があります。平安時代からずーっと流れて来た日本人の心。民主主義とか共産主義とか人権とか観念の物語ではありません。日本の大黒柱です。虚子の真似をすると、「戦前戦後貫く棒の如きもの」とでも言いませうか、万世一系の天皇を中心に美しく続いて来た国体です。大和の心です。中国の人々や韓国の人々や台湾の人々にはとても理解し難い心です。

しかし最近我々はこの大切な大黒柱を削って暖を取っている感があります。やがて雪の重みに耐えかねでわが国の屋根が崩れ落ちることはないでせうか。大黒柱を守るために軍隊はあるのです。共産党がいうやうに、人を殺す集団ではないのです。かって、稲田朋美さんの講演を聴い時、彼女はこう切り出しました。「私は法律を学びましたが、先ず学生が読むのは、イェーリングの『権利の為の闘争』です。その第一頁に『相接している国がその境界線の1平方マイルを侵略されて、放置すれば、やがてその国は全土を侵略されるてあろう。』とあります。」と。 ああ、この人はほんものだなと、久しぶりに心の安らぎに似たものを感じました。


ー つづく ー


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一阿の 「澎湃寄する海原の」 5

2017/01/09 07:00
その上、航空母艦「瑞鶴」には我が分隊監事 野村実大尉が乗ってをられた。分隊監事と言うのは、旧制一高に例えると北寮の寮長だった木村健康教授(後、東大名誉教授)のような存在、つまり我々分隊員の親父でした。

野村教官は彦根中学開闢以来の秀才。兵学校 71期 の次席。主席はこれも東京府立1中の伝説的な英才田結保大尉。 彼は前線から一時帰国したとき、母校で短い話をしています。「君達は戦争に心を奪われずに、静かに勉強するのが良い。」と。軍令部は田結大尉戦死(巡洋艦「筑摩」にて)の報を受け、慌てて野村大尉を「瑞鶴」から召還します。二人も海軍の逸材を失う訳にはゆかない。そうして昭和18年我々海軍兵学校の教官になられます。

原爆が落ちた時、野村教官は我がオ305分隊に「情報」の大切さを教へてをられた。今でもあの瞬間の紫の不思議な閃光と地の底から湧き来るやうな振動は忘れ難い。生徒はビリ動きせず、教官の話を聴いてゐた。広島と江田島はそれ程遠くはない。 昼食時、食堂の屋根の上に不思議な雲が湧き上って行くのが見えた。戦後我々生徒は廃墟と化した広島の街を歩いて、復員列車に乗ることになる。

昭和23年以降、幾度も野村教官をお迎へして分隊会をひらいた。帝国海軍の特色や歴史を静かに話された教官は決して大きな声を出されなかった。 海軍と陸軍の差は、国際法を熟知しているが否かにある。海軍は帆船の時代からスクリュー船の時代に急速に移行して、国を護る必要があったので、殆ど直輸入の形でイギリス海軍の手法を学んだ。だから大和魂の上にアングロサクソンの物の考え方があり、陸軍はドイツに学んだので、ゲルマン民族的な思考方法があること。大和魂では何ら変わりがない。そうして話を続けられるのでした。軍縮会議で山本五十六長官の果たした役割の大きさとマスコミや時の政府の誤解の大きさを諄々と説かれるのでした。

野村教官は、戦後東京裁判被告弁護事務に従事ー防衛庁戦史編纂官ー戦史研究室長ー防衛大学教授兼図書館長 を歴任。慶應大学で歴史学を専攻されます、文学博士 日本学術会会員です。彼ほど海軍に関係のある書籍を多数研究した戦史学者はありません。門外不出の宮内庁内部の図書も全て読まれました。そして 感情を交えず極めて客観的に戦史を書かれました。

それを知っていたアメリカのマスコミが、かのハルゼー(大東亜戦争の米国側機動部隊長官)の一代記を編纂するに当たって、真っ先に訪れたのは野村実氏のご自宅でした。最後に「ハルゼーについてどう思うか?」の質問に、教官は「海軍軍人としての戦術・判断・実行力は優れたものがあるが、人間としては尊敬できない。」と答えれれます。「何故か?」に対し、彼は、「キル・ジャップと言う言葉を創り、全軍に流した。人間として如何なものか。」とキッパリ応えられたのでした。マッカーサー万歳の時代にです。

これは教官が亡くなられた後の分隊会で、ご夫人がその場に同席して聞かれた言葉です。「キル・ジャップ」 と 「鬼畜米英」 は変わらんじゃないか、と言う人があるかも知れないが、これは決定的に違う。「人種差別的に虫ケラのやうに踏みにじる所作」と「こん畜生。鬼のやうな奴メ」とではその本質が違うのです。あの静かな主人がキッパリ言い放ったのには驚きました。と御夫人は言われるのでした。

その頃、まだ黄色人種に対する蔑視があった。(トランプ が キル・ジャップ でなけりゃー良いんだが?!(笑))戦争に負けて72年 「平和」 「平和」 と言い暮らして72年。本当に平和になったのか?勝った国が言うならまだ分かるが、負けた国が勝った国に教育され洗脳されて言うのは、どんなもんでせう。観念では何事も変わらない。

資本主義は悪いと批判して観念と憎悪でできたマルキシズムが失敗だと分かるのに地球上のどれだけの富と人命を犠牲にしたか? そしていま資本主義の行く末が問われてゐる。誰も何も分かってはゐない。ビッグバンがあって138億年、やっと ダーク マター なる実態がほの見えて宇宙や生命への半歩前進を開始する時に、何もかも分かった顔をして、72年や100年前の事柄をアンシャンレジームで切り捨てることだけはやめてもらいたい。

地球に生命が生まれて何億年。72年は瞬間の出来事です。昨日の事のやうに切り捨ててはなりません。ちゃんと自国の近現代史を知らなければならないとおもいます。このごろ天気予報がよく当たります。宇宙から見てゐるからです。昔は人工衛星はなかった。国際情勢や国内事情もあまり目先のことばかりに現をぬかすと、「山が動いた。」と糠喜びする愚を繰り返すことになる。リベラルと称するマスコミや学識経験者の皆さん。こういう方々はとても良くもの事をご存じだが、一つだけ大切なことを間違うと我々はそれも信じてしまう。皇位継承問題。 恐ろしい事です。


― つづく −


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タイトル 日 時
一阿の 「澎湃寄する海原の」 4
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。・・・さて、プーチンがやってきて、したい放題をし、言いたい放題を言って、帰って行った。安倍ちゃんも善くやったが、随分とやりにくかったろう。自国に軍隊がないんだもん。昔から樽俎折衝と言う。外交のことだ。相手の戦車の尖った角(つの)をへし折り、それから酒を酌み交わして交渉する。これが外交だ。軍国主義でも何でもない。今も昔も変らない。 ...続きを見る

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2017/01/06 07:00
一阿の 「澎湃寄する海原の」 3
旧制一高は、戦前 若者たちの知性の花園でした。 私の中学では、年に一名トップの生徒が入るか入らぬか。兵学校と一高へは、交代で合格しました。今年は一高、今年は兵学校と言った具合です。 ...続きを見る

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2016/12/19 07:00
一阿の 「澎湃寄する海原の」2
海軍兵学校の神代生徒が十八才で作詞した 「澎湃寄する海原の大波砕け散るところ常盤の松の翠濃き秀麗の国秋津島」を口ずさむと、いつも蕪村の 「稲づまや波もてゆへる秋津島」を思い出します。 ...続きを見る

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2016/12/15 07:00
一阿の 「澎湃寄する海原の」 1
澎湃寄する海原の 大波砕け散るところ 常盤の松の翠濃き 秀麗の国秋津洲 有史悠々数千載 皇謨(コウボ)仰げば弥高し。 ...続きを見る

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2016/12/10 07:00
一阿の 「問わず語り」8 (最終章)
第一章で、降る雪や/明治は遠く/なりにけり(草田男) をあげ、昭和20年8月15日以前と以後では、いふにいはれぬ違ひがあると申しました。そして「問わず語り2」で、桶谷秀昭さんの「昭和精神史」の一読をお勧めしました。 ...続きを見る

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2015/09/29 07:00
一阿の 「問わず語り」7
先月3日に阿川弘之が亡くなりました。しかしマスコミは何故かあまり取り上げませんでした。 連日、芥川賞をとったピース又吉のことで持ちきりです。勿論悪いことではありません。ただマスコミの本質がよくわかります。 ...続きを見る

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2015/09/24 07:00
一阿の 「問わず語り」6
散る花は/かずかぎりなし/ことごとく/光をひきて/谷にゆくかも。 上田三四二(大正12年)の和歌です。西行のやうに、吉野が好きで、この和歌も吉野で詠みました。飯田龍太とも仲の良かった三四二(みよじ)の和歌は日本人の心の奥にある「あわれ」を誘います。 ...続きを見る

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2015/09/17 07:00
一阿の 「問わず語り」5
戦後70年と言うが、戦前70年はどんな時代だったのか。「それは、明治八年、西郷隆盛が城山で自刃し、西南戦争が終結する二年前だ。」と教えてくれる人がいた。 ...続きを見る

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2015/08/23 07:00
一阿の 「問わず語り」4
蛸壺や/はかなき夢を/夏の月 「笈の小文」にある芭蕉の句であることはご存知の通り。明石の人丸神社の石碑に記されている。 ...続きを見る

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2015/08/12 07:00
一阿の 「問わず語り」3
第二次世界大戦の敗戦国でその国の根幹をなす文化までいらい回されたのは日本だけだ。独・伊は彼らと同じ一神教(キリスト教)の国だ。彼等の文化や教育には手をつけなかった。然しわが国に対しては国語にまで関与し日本人の心の中心である神道の権威まで足蹴にした。マスコミは元総理森喜朗を批判するのに彼は「神国日本と言った。」とあげつらう。過日、こともあろうに国会で江田五月が「私は東大で憲法の大御所宮沢俊義教授に日本国憲法を教わった。この私が安保法案は憲法違反だと言うのだから間違いない。・・・」とドヤ顔をするので... ...続きを見る

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2015/07/26 07:00
一阿の 「問わず語り」2
米国は日本人の性情を実に詳しく調べ上げていた。権威に対して非常に弱い。その教育制度は東大を頂点に実に整然とヒエラルキーが出来ている。東大を落とせば後は右へ習えだ。東大を変えれば日本は変わるかも知れない。子どもの心を変えて行けば日本のこの頑強な祖国愛や大和魂や天皇崇拝の国体を変えられるかも知れない。そして東大から保守中庸の教授を追い出し共産党か左翼の教授をずらりと並べた。山田盛太郎・大内兵衛・有沢広巳・美濃部亮吉・と言った具合だ。だから東大の経済学部は「マル経」と呼ばれた。「マル」とはマルクス・レ... ...続きを見る

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2015/07/25 07:00
一阿の  「問わず語り」1
降る雪や明治は遠くなりにけり。 草田男の懐かしい句だ。大正も遠くこそなれ梅香る ―黙魚(那珂太郎)― 。最近は昭和もレトロに入るらしい。 ...続きを見る

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2015/07/24 07:00
一阿の 「九太郎の遺言」 4
(九太郎は自社を育んだ恩人像の二番目に高崎達之助を挙げている。) ...続きを見る

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2014/08/06 07:00
一阿の 「九太郎の遺言」 3
***** ...続きを見る

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2014/07/18 07:00
一阿の 「九太郎の遺言」 2
「記述には相当の細部に亘り記してあり、また事の流れを鮮明にする為必要な限り実名を使いました。」とありますが、一阿の独断で全て固有名詞は排除しました。また此処に挙げるのはそのほんの一部に過ぎません。 ...続きを見る

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2014/07/12 07:00
一阿の 「九太郎の遺言」 1
「談合」 とか 「箱物」と言う言葉が氾濫し始めたのはいつの頃だったろうか?言葉は重いやうでもあるし軽いやうでもある。なんとか言う女子の大臣が「二位ではいかんのか」 とふんぞり返っていた鳩山や菅の時代がその絶頂期だったやうな気もする。 ...続きを見る

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2014/07/08 07:00
一阿の 「年寄りの冷や水(感情的?小保方リーダー擁護論)」
岩崎俊一博士が垂直磁気記録方式を発明したのは半世紀も前だった。この磁気を乗せたテープでソニーは世界を席巻した。 ...続きを見る

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2014/04/25 07:00
一阿の 「木のことば」
    『木のことば』 ...続きを見る

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2014/03/30 07:00
一阿の 「こけし」 (補)
思うおもいをいわぬから・・・を読んで ・・・・・一阿の詩・・・・・ ...続きを見る

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2014/03/22 08:02
一阿の 「こけし」 \
こけしは/なんで/かわいいか/思う/おもいを/言わぬから (堀口大学) ...続きを見る

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2014/03/21 07:00
一阿の 「こけし」 [
32年前、山中慎弥教授の大先達だった岡田義雄所長(阪大・微生物研究所)は話しを続けた。 ...続きを見る

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2014/03/12 07:00
一阿の 「こけし」 Z
「私は海軍兵学校75期の生徒です。終戦後熊本で百姓をしてをりました。」 岡田義雄兄は語り始めた。大阪大学 微生物研究所 所長 岡田教授である。昭和57年2月17日、当時我々は各分野で卓見をもっているクラス メートの話を聴く会があった。 ...続きを見る

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2014/03/09 07:58
一阿の 「こけし」 Y
− 第一次世界大戦の海軍の役割 − ...続きを見る

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2014/03/06 07:00
一阿の 「こけし」 X
「サラエボ」雑観;第一次世界大戦は1914年6月29日 オーストリアの皇位継承者フェルディナンドががサラエボで暗殺されたことに端を発する。この時も舞台はウクライナでありクリミヤだったことはよく知られてゐる。 ...続きを見る

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2014/03/05 08:31
一阿の 「こけし」 W
今は亡き九太郎(ブログ執筆者)に案内されて、私は工業倶楽部の二階ホールにゐた。美術鑑賞会の話しを聴く為である。一昨年の初夏、緑の美しい季(とき)を迎へやうとしてゐた。 ...続きを見る

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2014/03/02 07:00
一阿の 「こけし」 V
明治19年8月 清国 北洋艦隊の丁汝昌は「定遠」に座乗し、「威遠」 「済遠」を連れて示威行動の後、長崎で長崎事件をおこす。ウラジオストクからの帰途であった。 ...続きを見る

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2014/02/26 07:00
一阿の 「こけし」 U
こけしは/なんで/かわいいか/思う/おもいを/言わぬから (堀口大学) ...続きを見る

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2014/02/23 09:32
一阿の 「こけし」 T
こけしは なんで かわいいか 思う おもいを言わぬから ...続きを見る

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2014/02/18 07:00
一阿の 「心柱」W−2
浩安和尚のご子息正興和尚から送られて来た資料に依ると、「当寺の先代住職浩安和尚は安徳天皇は壇ノ浦で崩御されたのではなく、難を逃れられた地で崩御なされたはずだ。そうでないとこのお寺(宝地院)の創建と安徳天皇の崩御された年との間に100年近い開きがある。」といふ確信に近い説を持ってゐました。 ...続きを見る

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2013/08/30 07:00
一阿の 「心柱」W−1
宝地院の浩安和尚は本堂の控の間に長い座卓を置いて、たこ焼きで一杯やっていた。私が駆けつけたのは、彼の命があと三カ月保たないと聞いたからである。喉頭の腫瘍は進んでゐて、手術は出来なかった。医者は彼にそのことを伝へてゐた。 ...続きを見る

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2013/08/29 07:00
一阿の 「心柱」T
神戸、雪の御所町の近くに「宝地院」と言う浄土宗のお寺があります。先代の浩安和尚は飲兵衛の名物和尚でした。佐藤春夫は雑誌「キング」に小説「前途展く」を載せましたが、その中で浩安和尚を主人公龍彦に仕立てて、彼の青年時代の物語を書きました。「キング」の最終号です。昭和57年のことでした。 ...続きを見る

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2013/07/16 07:00
一阿の 「麻酔の話」T B/3
日本民族には「言い訳しない」と言う美徳がありました。しかしすぐ近くの朝鮮半島にはこれがありません。コンプレックスの固まりのやうなこの民族には恨み つらみ 憎しみ悲しみと言った消極的情念からびっくりするやうな嘘をでっち上げ、慰安婦だの侵略だのと泣き喚き、あろうことか米国議会のロビーにまで手を伸ばし「慰安婦・慰安婦」と日本人を貶(おとし)めるのに余念がありません。 ...続きを見る

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2013/06/27 07:00
一阿の 「麻酔の話」T A/3
戦勝国(旧敵国)はまた民主主義だけでは心細かったのでせう。その衣の裾に共産思想を潜ませてをいたのです。だから大学で左翼思想を吹き込まれた河野とか後藤田とか今我々が困っている要因を国家を代表する立場に居ながら作っておいて、何の後悔も反省もないのです。 ...続きを見る

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2013/06/26 07:00
一阿の 「麻酔の話」T @/3
20年ほど前、順天堂病院に茅 稽二と言う麻酔科の先生がゐた。日本麻酔学会の会長だ。飄々として面白い話をした。銀座ヨーソロで一杯やった時大事にしてゐた戦艦大和の切手を呉れた。日本の切手ではない。外国切手だ。「BHUTAN」と印刷されてゐた。日本に「大和」の切手が無くてブータンにあるのを不思議に思った。彼は亡くなったがこの切手は大切にしてゐる。兵学校の76期だった。東大 茅 誠司総長の甥だ。 ...続きを見る

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2013/06/25 07:00
一阿の 「昨日の空」X
天風さんは日露戦争当時、軍事探偵だった。愚老の少年時代は山中峯太郎の「敵中横断三百里」や「日米若し戦わば」なんかを盛んに読んだから、軍事探偵と言へばすぐ分かるが、今の青少年にはピンと来ないかもしれない。 ...続きを見る

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2013/05/16 07:00
一阿の 「昨日の空」W
北鎌倉の友人宅を訪ねると軒にくろがねの風鈴が佳い音を奏でてゐる。音はやがて円覚寺の裏庭の緑に消える。緑風にゆれる風鈴の短冊に「吹毛常磨」と書いてある。主人に意味を尋ねた。 ...続きを見る

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2013/05/12 07:00
一阿の 「昨日の空」V−2
私は思った。本当に「方法」で「一番大切なもの」に到達出来るのだらうか? 二つ目は、お金がなくて天風会へ入れないか縁がなくて入会出来ない人はどうなるのだらう (もっとも学生の入会金は当時千円であったが) 。 ...続きを見る

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2013/04/29 07:00
一阿の 「昨日の空」V−1
今まで蕪村の俳句や中村天風先生のことを書いて来ましたが、これは俳句や天風先生の心身統一法を説明しやうとしたのではありません。それは愚老には荷が重すぎます。 ...続きを見る

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2013/04/28 07:00
一阿の 「昨日の空」U−3
「私は各地の天風会の中で、神戸と言う街に特別な思ひ入れがある。 」羽織袴で結城の紺を粋に着こなし、陛下から賜った印籠を腰に、あの堂々たる声でゆっくりと話されるのでした。 ...続きを見る

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2013/04/22 07:00
一阿の 「昨日の空」U−2
1) 観念要素の更改とは 潜在意識を「暗示」を利用して掃除することです。どんな人間でも1日に二度大変暗示にかかり易い時があります。暗示感受性能の上がる時です。それは夜眠りに入る直前と、朝目が覚めた直後、まだ覚め切らないで、ぼーっとしてゐる時つまり実在意識と潜在意識の接点です。 ...続きを見る

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2013/04/13 07:00
一阿の 「昨日の空」U−1
「皆さん。潜在意識こそが宇宙の無限の力を我がものにする宝庫なのであります。」 中村天風先生は護国寺 月光殿の演台に立っておられた。昭和27年2月のことです。 ...続きを見る

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2013/04/11 07:00
一阿の 「昨日の空」T
凧(いかのぼり)昨日の空の ありどころ 蕪村 ...続きを見る

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2013/04/05 07:00
一阿の 「友人からの便り 『梅の奥』」2
 少し蛇足を申し述べさせて戴きます。 ...続きを見る

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2013/04/02 07:00
一阿の 「友人からの便り 『梅の奥』」1
 「貴兄の梅の奥を読んで感想を申し上げます。・・・国の在り方を育てるのは、国民である」という命題になりましょうか。 ...続きを見る

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2013/03/31 07:00
一阿の 「梅の奥」
梅の奥 誰やら住んで 幽かな灯   夏目漱石 ...続きを見る

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2013/03/23 13:54
一阿の 「知友からのメール」U
 貴兄の「謹賀新年3」及び「知友からのメール」、拝見いたしました。  「観念が一人歩き」しだすと、正に「水戸黄門の印籠」です。「人権」、「人命」、「平和」、「話合い」・・・。  これらの「観念」を前に突き出し、「この観念が目に入らぬか!!」  我が国では、みんな、ひれ伏してしまい、「恐れ入りました」  一言の反論も許されません。 ...続きを見る

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2013/01/27 07:00
一阿の 「知友からのメール」
愚老の「謹賀新年」 を読んだ知友からのメールです。 ...続きを見る

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2013/01/21 07:00
一阿の 「謹賀新年」3
松の内は初雪で終りました。今年は白雪のやうに新鮮な一年でありますやうに。年の初めですから、最後に「観念」と言ふ言葉について考へました。「観念」(例へば平和と言ふ観念)の落とし穴は「時間」の軸を消し去ってゐるところにあります。宇宙を考へるのに、よく時間空間と言ひます。 ...続きを見る

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2013/01/19 07:00
一阿の 「謹賀新年」2
深大寺へ初詣に行きました。寺域にある「波郷」の墓も綺麗に掃き清められてゐます。「吹きおこる秋風鶴をあゆましむ。波郷」あの名句を憶ひながら武蔵野の小径を歩く。 ...続きを見る

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2013/01/11 07:00
一阿の 「謹賀新年」1
皇紀2673年 明けましておめでとうございます。 ...続きを見る

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2013/01/04 07:00
一阿の 「友人の死」 Z
バブルの最盛期、自民党には、例の金の延べ棒が自宅で見つかっで塀の中へ送り込まれた金丸 信がゐた。そして彼の威を借り調子に乗って総裁選びの面接までしていた若者小沢一郎がゐた。 ...続きを見る

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2012/12/07 07:00
一阿の 「友人の死」 Y
「美意識」とはなんだ?。人に聞かれても分からない。昔、若者に 「美しい」 とはどういふことですか、と問はれ、爾来、ずーっと考へ続けても一向に分からない。最近では悔し紛れに、これは分かってはいかんのだと思ふやうになった。ただ、その国の美意識がその国の文化だとは言えやう。英国の美意識は英国の文化。フランスの美意識はフランスの文化。独国の美意識は独国の文化。お互いに文化は尊重し守るものだ。 ...続きを見る

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2012/12/04 07:00
一阿の 「友人の死」X
日清戦争の時代と平成の御代で国を守る覚悟に何故これほどの差があるのだらう。 ...続きを見る

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2012/11/27 07:00
一阿の 「友人の死」W
前回は「清」(中国)の水兵の乱暴狼藉から始まった「長崎事件」に話が及んだが、もう少し続けてみよう。これは勿論明治時代の日本人と今の日本人の覚悟の差を分かり易くするためでもあるが。 ...続きを見る

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2012/11/24 07:00
一阿の 「友人の死」V
80有余年 共に語り合った莫逆(ばくげき)の友が逝ってしまふと周りが急にガランとなる。しかしそれは仕方がない。ただ寂しいのは、友を一人失ふ度に戦前の本当の日本が少しづつ欠けてゆくやうに思へてならなんことだ。 ...続きを見る

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2012/11/14 07:00
一阿の 「友人の死」U
友人と私は少年時代神戸二中(旧制)で学んだ。神戸二中はラグビーが強かった。同志社から神戸製鋼のラグビー部へ、が彼等の道だ。港の近くの東遊園地で一中と戦って何時も勝った。勝つ度に校歌を高らかに歌った。 ...続きを見る

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2012/10/31 07:00
一阿の 「友人の死」T
木犀の香が懐かしい今朝、珍しく友人の奥様から電話があった。 友の急死の知らせであった。小学校以来、淡交80年お互い86才になってゐた。最後のメールは9月18日。これが彼の地上に残した最後の言葉となった。 ...続きを見る

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2012/10/30 07:00
一阿の  「若い友人からの手紙」V
この度は若輩者の駄文を取り上げて頂き、恐縮しております。ややもすれば言葉が先行する未熟な身には冷や汗ものです。只、松山という土地柄への愛しさのようなものは、歳とともに深まってくるように思います。 ...続きを見る

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2012/07/11 07:00
一阿の  「若い友人からの手紙」U
こんにちは。一阿さんの優しいメールを頂き有り難うございました。・・・・・・この頃は縁に生かさていることを、折に触れ思います。 ...続きを見る

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2012/07/10 07:00
一阿の  「若い友人からの手紙」T
ご無沙汰致しております。お変わりございませんか? ...続きを見る

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2012/07/09 07:00
一阿の  「薫陶(俳句とこころ)」 5/5
ワシントン会議(大正11年)で最も面目を失ったのは日本ではなくて、フランスでした。(ワシントン会議はロンドン会議の前の軍縮会議)。 ...続きを見る

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2012/06/30 07:00
一阿の  「薫陶(俳句とこころ)」 4/5
昨日ブログに載せた慎太郎の「日本よ」の一節に関する記事は次のやうなものです。 ...続きを見る

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2012/06/29 07:00
一阿の  「薫陶(俳句とこころ)」 3/5
孑孑( ぼうふら)の身を立てなおす 月夜かな 天魚(眞鍋呉夫) ...続きを見る

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2012/06/28 07:00
一阿の  「薫陶(俳句とこころ)」 2/5
「言葉といふものはポリフォニックなものです。」詩人那珂太郎は静かに語りだしました。 ...続きを見る

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2012/06/27 07:00
一阿の  「薫陶(俳句とこころ)」 1/5
芭蕉が座をもうけ、連中が式目に従って連歌を巻いてゆくその最初の句を発句といふことはよく知られてゐます。 ...続きを見る

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2012/06/26 07:00
一阿の 「神代曙」 7
 「神代曙」の命名が牧野富太郎によることは一番最初に書きました。昭和天皇も愛された文化財ともいふべき「日本植物図鑑」の初版は昭和15年10月、大東亜戦争の始まる丁度一年前に出版されました。そして戦時中毎年版を重ねます。 ...続きを見る

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2012/04/29 07:27
一阿の 「神代曙」 6
 芭蕉が心ひかれ、生涯句作と自分の人生の友とした「荘子」の中の一編「人間世編」に「無用の用」は説かれてゐます。その最後の文章はこうです。原文は省きます。 ...続きを見る

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2012/04/28 07:00
一阿の 「神代曙」 5
 この理性の野のもう一方の旗頭が、小林秀雄です。彼はウァレリーがヨーロッパの魂を愛したように、日本の魂をこころから愛しました。そして日本の土壌と歴史に誇と共感を以て透徹してゆきました。本居宣長のやうにです。しかし多勢に無勢。悪貨は良貨を駆逐するで、結局、底の浅い理性模倣派に今の日本は牛耳られて、まるで社会主義国のやうになってしまいました。 ...続きを見る

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2012/04/27 07:00
一阿の 「神代曙」 4
 「用の無き貌曝しおり小春の日」・・・ は、まさに「荘子」の思想「無用の用」 を心に筑紫男さんが残した辞世の句です。 ...続きを見る

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2012/04/26 07:00
一阿の 「神代曙」 3
  石橋さんの450ページに及ぶ労作の中から一行だけ載せておきます。「・・・『笈の小文』にも「無能無芸にして只此一筋に繋る」 と書いており、芭蕉のお気に入りの文句であったと思われる。 ...続きを見る

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2012/04/25 06:11
一阿の 「神代曙」 2
  龍太の俳文に面白いものがある。「詩人は、詩の眼を持った人でないと理解出来るわけがないが、特別大きなスケールの詩人ともなると、詩の眼だけでは、本当の正体をあらわしてくれないのではないか。・・芭蕉と蕪村は非常に対照的のようだ。蕪村の場合は、萩原朔太郎から三好達治などの労作が、それを証しするように、独自な解明は全て詩人によってなされている。 ...続きを見る

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2012/04/24 07:00
一阿の 「神代曙」 1
 武蔵野、深大寺の裏に神代植物公園がある。花見で賑わってゐる大芝生の少し手前に、「神代曙」 は佇っている。牧野富太郎博士が命名した美しい新種の桜だ。花びらの先へゆくほどに紅が深まり、染井吉野とすこし違った風情を見せる。その味は、夜桜に極まる。照明に照らされた染井吉野は、花雪崩とでも表現しやう。しかしそのよこに佇つ「神代曙」にはポット頬を染めた乙女のやうに「清々しい」風情がある。私はしばし現実を離れ、西行や俊成や定家の時代にあった。 ...続きを見る

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2012/04/23 07:00
一阿の 「紀元節」 4/4
 北朝鮮が人工衛星を打ち上げるといって騒いでいる。国辱ものの防衛大臣・田中・がイージス艦の配備を命令したといふ。わが国は、今 最も信頼される海上自衛隊の頭脳と技術と精神力(文句があるなら集中力)に頼るほかは無い。然し考えても御覧なさい。このイージス艦は誰のお陰でここに存在するのですか。 約30年前、米国ではレーガン時代 我が国では政府はイージス艦導入には無関心で、大蔵省のごときは、この予算措置を絶対受けつけなかったのですよ。進歩的知識人や左翼評論家(殆どそうだが)達は防衛予算が国家予算の1%を超... ...続きを見る

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2012/04/10 07:54
一阿の 「紀元節」 3/4
 政治のことを昔から「まつりごと」といってきました。国の安泰と民草の幸せをお祈りされる天皇陛下の厳かな秘儀は神武の昔から脈々と続いてきました。然し最近チャイナースクールと称する外務省の左派一派が小和田を首魁として宮内庁を支配していると聞きます。勿論羽毛田も小和田の弟子でこの一派です。彼が宮内庁長官といふ立場を利用して、この一派の代弁といふべき進言をしたことは良く知られています。所謂「女性宮家」の創出です。陛下の公務の御多忙を理由に女性宮家を新しく創ろうといふのです。 ...続きを見る

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2012/04/09 07:47
一阿の 「紀元節」 2/4
 平成23年11月23日の新聞に小堀桂一郎東大名誉教授の含蓄のある小論が載ってゐるので以下転記します。 ...続きを見る

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2012/04/08 07:47
一阿の 「紀元節」 1/4
 二月十一日は紀元節だった。戦後は建国記念日といふ。戦前は家家の門に翩翻と日の丸の旗が翻ってゐた。今はない。テレビではこの休日目当ての秘湯紹介に余念がない。日の丸の旗を立てようものなら、あそこの家は軍国主義だと白い目で見られる。 ...続きを見る

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2012/04/07 07:57
一阿の 「焚火」 A/2
海軍兵学校の生活の中で唯一ホットする時間は、就寝後のひと時でした。二分三十秒で服を脱ぎ褌ひとつになり、衣服をキチンとたたみ、チェストの上に90度(直角)になるや うにそろえ、ベッドの足元の毛布を広げ、夏は蚊帳まで釣って2分30秒です。勿論帽子は海岸の方向に一斉に揃っていなければなりません。 「自習室」「寝室」の掃除は15分。木の床にはバケツから雫が分散するやうに手で散水し部屋の隅々は直角に掃き一片の塵さへ残しません。何時か、永平寺の禅僧の修行をテレビで見 ましたが、兵学校の生活によく似ていました... ...続きを見る

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2012/02/11 08:37
一阿の 「焚火」 @/2
 神代植物公園の深大寺門口をでたところに蕎麦屋がある。蕎麦屋の庭で焚火をしている。何時からか私はこの焚火のとりこになった。桜や杉や椎の 木の丸太を一尺くらいに斬りそれに薪割りしたのを三本立てかけて燃やしているのである。薪を少し塩梅するだけで一日中燃えている。手をかざす、背中を炙る、やがて床机のいすに胡坐をかく、なんとも言えず温い、心の芯までほぐれる。蕎麦屋の呼び込みは、「中は暖かくなっております」と言ふが中には入らな い。暖房の暖かさと全然違う。 ...続きを見る

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2012/02/10 09:12
一阿の 「映画 聯合艦隊司令長官「山本五十六」 を観て」 後記
六回に亘って述べてきましたが、この論議は海軍が良いの陸軍が良いのと言った局所的な事を言っているのではありません。海軍も陸軍もそれぞれに如何に国家を守るかの根本の心がありました。その上でのリベラルと保守です。しかし今は違ひます。国家が無いのです。保守とリベラルの差は国を守るか国を壊すかの差で す。今のリベラルという人の多くは皇室に対する尊崇の念は無く、二千年脈々と続いてきた国体への感謝の心はありません。昔、吉田茂は大の軍隊嫌ひでありましたが、上呈文書の末尾には「臣、茂」と書いたものです。 ...続きを見る

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2012/02/02 07:48
一阿の 「映画 聯合艦隊司令長官「山本五十六」 を観て」 E/6
「山本が艦隊派から条約派へ変わった日」 私はかって、「統帥権」の話の時、「条約派」については後日述べる。と申しましたが、お分かりのやうに、「艦隊派」と言ふのは、英米に対して艦隊の比率を 高め外敵にあたらうとする侵略に対しての戦争容認派であり、今の言葉で言へば「右派」でせう。 ...続きを見る

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2012/01/31 08:24
一阿の 「映画 聯合艦隊司令長官「山本五十六」 を観て」 D/6
「フランスの動き」」―現在のやうにGNPの観念の発達していなかった戦前は、国力を軍備で計る傾向があった。世界の洋上のどこにでも出て行ける海軍力の方が陸軍力よりも国際的な尺度となりやすい。 ...続きを見る

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2012/01/30 08:44
一阿の 「映画 聯合艦隊司令長官「山本五十六」 を観て」 C/6
「ロンドン軍縮会議とフランス。そして山本五十六」 ...続きを見る

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2012/01/29 08:28
一阿の 「映画 聯合艦隊司令長官「山本五十六」 を観て」 B/6
山本は堀と違って、ワシントン会議海軍軍縮会議には直接関係はない。軍縮会議で活躍するのは第一次ロンドン会議と第二次ロンドン会議予備交渉である。 ...続きを見る

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2012/01/28 07:33
一阿の 「映画 聯合艦隊司令長官「山本五十六」 を観て」 A/6
戦後70年近く経って、最近保守と言はれる人人でも海軍について正しく理解してゐる人が少ない。これは100年前の遠い思い出話ではなくて、現実に混乱した今の日本を再建する為には、かって祖国の良心であった日本帝国海軍条約派の考えを知ることは大変重要であります。 ...続きを見る

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2012/01/27 07:07
一阿の 「映画 聯合艦隊司令長官「山本五十六」 を観て」 @/6
昨年、暮れ、何十年ぶりかで映画を観た。聯合艦隊司令長官「山本五十六」だ。まことに申し訳ないが、観るといふより検証しに行った感が強い。 ...続きを見る

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2012/01/26 06:54
一阿の 「年始の言葉」 8
詩人 那珂太郎 (福田海軍中尉) は「鎮魂歌」で歴程賞を授与されますが、平成7年7月その日の毎日新聞夕刊に次のやうな記事が出てゐます。「詩人 草野心平を中心に設立された詩のグループ 「歴程」の設定する第33回藤村記念歴程の授賞式がこの程飯田橋で行はれた。 ...続きを見る

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2012/01/16 07:57
一阿の 「年始の言葉」 7
/ あるいは巣鴨の同じ死刑囚第5棟の親しい隣人の、絞首台上に去って行く姿が瞼に迫っただらうか。 ...続きを見る

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2012/01/13 07:13
一阿の 「年始の言葉」 6
詩人 那珂太郎は昭和40年(43才)「音楽」を書いて30年後、73才で「鎮魂歌」を上梓します。これは極東裁判で死刑判決を受けた若い医学生をテーマにした 静かで壮大な叙事詩です。長いので要点のみとします。 ...続きを見る

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2012/01/12 07:58
一阿の 「年始の言葉」 5
「民主主義」。この日本の国で生え育ったものではない借り物の「思想」。正に「観念」です。明治政府が選び、国民が咀嚼して行ったあの方法ではなく、誠にインスタントな方法です。「憲法」も然りです。新仮名遣ひと言う国語の改変。これもまた大したことではないと映ります。戦艦大和が沈むと国民は大変な衝撃 を受けます。しかし文化が静かに静かに変わっていっても気がつきません。 ...続きを見る

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2012/01/11 07:44
一阿の 「年始の言葉」 4
愚老は年始早々から、のんびり詩や和歌の話をしているのではなくて、今まで起りこれから起るであらう色々の国家的危機が、我々の言葉の乱れ、心の乱れから 来ていることを言ってゐるのです。 ...続きを見る

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2012/01/10 07:16
一阿の 「年始の言葉」 3
この詩は昭和40年教官の第二詩集「音楽」の中にあります。那珂太郎を詩人名鑑でひいてみると「ー第一詩集ETUDE(50年)から15年を経た音楽 (65年)では日本語の音韻性を追求、響き合う頭韻や脚韻、掛け詞を駆使して現代詩の新領域を拓き・・・誠実で官能的な一つの哲学で貫かれており、かって清岡卓行は(虚無の優しい保留)といみじくも評した。 ...続きを見る

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2012/01/09 08:44
一阿の 「年始の言葉」 2
那珂太郎はかっての生徒達から受賞を祝福されると、ぽっと頬を染め「そんなことを言はれると困る」と恥入るのです。今上映中の「連合艦隊司令長官山本五十六」に、山本がやがて兵学校長に任命される井上成美第四艦隊司令長官にたいし若者の教育を真に頼むくだりが有りますが、井上が採った手段の一つが最優秀の普通科の教官を集めることでした。 ...続きを見る

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2012/01/08 08:05
一阿の 「年始の言葉」 1
明けましておめでとうございます。若水を汲んで、神棚に供え、口を漱ぎ、日の丸の国旗を高々と掲げました。気持ちのよい元旦です。 ...続きを見る

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2012/01/07 08:00
一阿の 「『信天翁』の『群青』を読んで。友人Bの手紙。」
◆信天翁の 「群青」 http://si-tarou.at.webry.info/201109/article_12.htmlを読んだ感想の友人Bの手紙。 ...続きを見る

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2011/10/09 07:58
一阿の 「『信天翁』の『群青』を読んで。友人Aの手紙。」
◆信天翁の 「群青」 http://si-tarou.at.webry.info/201109/article_12.htmlを読んだ友人Aの手紙。 ...続きを見る

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2011/10/07 07:33
一阿の 「おっちゃん」
万葉の和歌「・・椿市の・・」を教えてくれたのは、今年95才の友人です。彼とは昭和28年兵庫県三田の療養所で会いました。爾来、私の最も大切な友人です。同じ病室の向かいのベッドに寝ていました。彼は37才私は27才でした。彼は「私はこの療養所へ来る前の晩、女房に別れてくれるよう頼んだんだ。あまり貧しかったからナ。・・すると女房は、はい何時でも別れます。でもそれは貴男が療養を終わって元気になられたらネ、と言いよるんだ。」とのろけられ往生しました。 ...続きを見る

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2011/09/14 07:35
一阿の 「むらさき」 2/2
フジテレビあたりは見たくもない韓国ドラマをぶっ続けに流して恥じません。彼らの狙いはこんな立派な王朝(麗々しく着飾った)を日本の帝国主義に侵略された。と言う筋書きです。しかし考えてもみませう。その頃彼らには 布を染める技術さえ無かったのです。だからみな白い衣を着てゐたのです。染色の技術はわれわれの先祖がおしえました。彼等は民度が低く、とても近代資本主義が咀嚼出来ませんでした。それで、親鳥が幼鳥に餌を与えるように、われわれ日本人が口移しの方法で近代資本主義の生き方を教へて行ったのです。恩を仇で返すを... ...続きを見る

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2011/09/12 06:01
一阿の 「むらさき」 1/2
むらさきは/灰さすものぞ椿市(つばいち)の/やそのちまたに/あいし娘(こ)やたれ。(よみ人しらず)。 ...続きを見る

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2011/09/11 07:23
一阿の 「羊頭狗肉」 2/2
「羊頭狗肉」と言う言葉がある。店頭に羊の頭を掲げて実は狗の肉を賈うことだ。民主党と言う党がある。櫻井よしこさんが指摘するように、リベラル民主主義の本家のような貌をしてその実、国家観の無い唯物論者の寄り合い所帯に過ぎない。それも自由をわきまえ国家観のある英国労働党とかドイツ社会民主党ならまだましだが、社会主義とは名ばかりの中国共産党に敬語を使い崇め敬うマルクス理論信奉活動家の寄せ鍋みたいなものである。 ...続きを見る

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2011/09/06 07:50
一阿の 「羊頭狗肉」 1/2
9月2日の産経の正論欄で岡崎久彦氏が「日本と言う国を素人の生体実験に供したような鳩山・菅時代がやっと終わったという声が街にあふれている」と書いている。 ...続きを見る

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2011/09/05 06:40
一阿の 「煙草の煙」
「よくこんなところで物が考えられますね。」黄色く色づいた銀杏並木のすぐ脇の16番教室へ入ると、大塚久雄教授は窓際に歩み寄って静かに窓を開けるのでし た。教室は煙草の煙でムンムンしていた。昭和21年晩秋、学生達は自由に席に座って煙草を吹かしていた。昨日煙草の配給があってすこし豊かな気持ちだったのだ。タバコと言っても綺麗に巻かれた巻き煙草ではない。タバコの葉っぱを刻んだやつだ。それを鉛筆に細長い紙を貼り付けた手製の煙草製造器で寿司を作る 要領で巻く。タバコの紙は英語の辞書を一枚づつ破って当てた。 ... ...続きを見る

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2011/08/31 07:15
一阿の 「軍歌演習」 5/5
◆岡 潔さんの文章 ...続きを見る

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2011/08/29 08:27
一阿の 「軍歌演習」 4/5
 後年日本を侵食したハル(米国の国務長官になった)はこのコミンテルンの指令を受けて いたのです。これが分かり戦後米国ではマッカーシーを先頭に膨大な赤狩りが行われたことは有名です。ルーズベルトもロックフェラーもロスチャイルドもみん なユダヤです。このことは前にも書きました。 ...続きを見る

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2011/08/28 08:45
一阿の 「軍歌演習」 3/5
8月21日(日)には4000人の老若男女と一緒に台場のフ ジテレビへデモに行ってきました。フジテレビは韓国人の持株が26,8%もあり法規制の20%を6,8%も超えています。現内閣の下では法務省も総務省も 見て見ぬ振りです。議決権を持たぬ株といいますがそれは言い訳に過ぎません。放送内容は目に余るものがあります。 ...続きを見る

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2011/08/27 08:18
一阿の 「軍歌演習」 2/5
昭和24年奈良女子大の教授になられた世界的数学者、岡 潔さんは、こう言っておられます。「今の教育制度は進駐軍が師範学校を二段とびに大学にする等、だいぶん無理をして作ったものだが、しかしそれをはぐくみ育てたのは日本人である。それでも原則から悪くしたのに害がこの程度で済んでいるのは、日本人が情操中心でこれまでやて来た民族だからで、欧米のように意志中心の国なら、すみずみまで原則に支配されるからもっとひどいことになっていたに違いない。 ...続きを見る

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2011/08/26 06:47
一阿の 「軍歌演習」 1/5
 昔、江田島で軍歌演習と言うのがありました。生徒が日曜日外出から帰ると、西生徒館前の校庭大芝生に円陣を作り、円形に行進しながら 大音声で軍歌を歌うのです。一号の軍歌係生徒が「軍歌集第17頁 艦艇勤務」「分隊 〜進め」で始まります。 ...続きを見る

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2011/08/25 06:27
一阿の 「海ゆかば」 続編
終戦記念日、組織の底に反日左翼のイデオロギーがとぐろを巻くNHKが、相も変わらず「日本は何故かくも強大な米国に向かって戦いを挑んだのか」とか「何故国民を犠牲にして戦い続けたのか」とがなり立てる声を尻目に、今愚老は「海ゆかば」(海軍兵学校第73期生徒戦死者追悼文集)を紐解いてゐます。 ...続きを見る

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2011/08/19 07:09
一阿の 「海ゆかば」
愚老の前に一冊の古ぼけた小誌があります。ネイビーブルーの表紙に金文字で「海ゆかば」と書かれています。海軍兵学校第七十三期生徒の追悼 文集です。愚老より二才年上、つまり一号生徒の文集です。 ...続きを見る

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2011/08/15 06:48
一阿の 「吉田 学兄をしのぶ」 続編
後記:吉田 学兄について。 Googleの吉田学に関する記述を補足しながら少し述べてみたいと思います。 ...続きを見る

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2011/07/29 07:29
一阿の 「吉田 学兄をしのぶ」 本編
京橋の画廊で75期主催の絵の展覧会があった。小さな一枚の額が懸かっていた。気取らないさわやかな絵であった。絵の下に吉田 学とあった。会場に居た彼を見つけて誉めると、照れくさそうに「俺みたいな初心者でもこうして出していると、他に出してくれる人があるかも知れないからナ」と言った。何の気なしに、早く逝ったK兄の思ひ出を話すと、急に目を輝かした。「貴様も親しかったのか。俺は特に彼には深い思ひ出がある。」いい奴だったな。二人の思ひは同じであった。 毎年、盆の頃になるとS兄と鎌倉光明寺のK兄の墓参をしていた... ...続きを見る

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2011/07/28 08:18
一阿の「涼しい夏」
夏は有り難い。朝 昼 夕 水をかぶればすっきりする。いよいよ猛暑のころは、風呂に水を張って飛び込む。水から上がった身体は爽快でクーラーの比ではない。しかし これには一寸した工夫がいる。 ...続きを見る

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2011/07/06 07:36
一阿の 「今は昔」
「今は昔」で始まる平安末期の面白い説話集があります。「高名の木登り」もその中にでてきます。いつの世も昔は良かったと多少末世思想に浸るものですが、此の時代はこれから平家と源氏が争いながら日本の国を盛り立てて行く少年期であるのに反して今は世界を相手に戦って敗れ、大日本帝国憲法を引き抜かれ敵国が植えた「日本国憲法」と言う毒の木を後生大事に育て、この木の梢で一国の総理が亡国の歌をさえずっている哀れな現状です。今は昔と言いたくなります。 ...続きを見る

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2011/07/02 06:01
一阿の 「梅雨空と一つの心配」
4月14日昼、孫正義社長は東京汐留の本社社長室で韓国通信最大手、KTの李錫采最高経営責任者(CEO)と会食した際、日本企業向けデーターセン ターの釜山設置を即決した。と新聞にでてゐました。震災による情報寸断の危険は避けなければなりません。当然のことです。 ...続きを見る

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2011/06/26 08:07
一阿の 「恥をしること 続」
前回の「恥」を知ること。の中で「統帥権」が出て来ました。統帥権と言うとすぐ、軍部の横暴ー侵略ー敗戦ー反軍(反日)ー平和 と繋がります。65年の間にNHKや朝日新聞によって徹底的に我々の頭に擦り込まれました。これはかっての敵国(米英露支那・蒋介石 毛沢東・etcのプロパガンダです。それをそっくり頂いたのがわが国の左翼の連中です。 ...続きを見る

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2011/06/17 07:02
一阿の 「恥をしること」
テレビのチャンネルを捻ったら偶然NHKの教育番組にぶつかりました。普段はNHKは殆ど見ません。この放送局は左翼思想に毒されてゐて中国を愛し尊敬するやうに内容を実に巧妙に構成してゐます。 ...続きを見る

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2011/06/13 06:28
一阿の 「坂の下の闇」
松山から友人がやって来た。肺ガンを克服して元気な顔で現れた。肺炎にかかり、ついでに医者が調べたらガンが見つかり、放射線と抗がん剤の治療を続けたらしい。「何が幸いが分からん」と彼は言った。 ...続きを見る

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2011/06/08 07:58
一阿の 「戦友の思い出」
「俺は、提督田中頼三(第二水雷戦隊)と木村昌福(第一水雷戦隊)が好きだ。」よくそう言った。ヨーソロの金森さん(上等兵曹)にバリックパパンの思い出話を聞きながら、彼とは良く飲んだ。宇部興産が未だ首相官邸のすぐ下にあった頃よく彼の会社を訪れた。仕事をした思い出は殆どない。結局二人で飲むために 五時ごろ彼の部屋を覗くのだ。部下達に「頼むぞ」とひとこと言って部屋を出る。彼は佳い飲み屋をよく知っていた。安くて美味くて女将が綺麗で店に品があるところはそうざらには無い。然し彼は知っているのだ。 ...続きを見る

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2011/06/06 07:16
一阿の 「花筏」 3
子供の頃、お盆やご先祖の命日になると、旦那寺の和尚さんが訪ねて来て、お経をあげて帰りました。夏は和尚の後ろに座って団扇で風を送るのが役目でした。 何回、何十回と重なると訳の分からんお経を覚えてしまひます。門前の小僧みたいなものです。 ...続きを見る

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2011/06/02 09:04
一阿の 「花筏」 2
原子力を論ずるのに物質や科学の面からだけでは非常に偏った危険な結論に陥る危険性があります。 ...続きを見る

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2011/05/30 07:27
一阿の 「花筏」 1
◆散る花はかずかぎりなし ことごとく光をひきて谷にゆくかも。 ...続きを見る

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2011/05/29 08:57
一阿の 「蝉時雨」
「蝉が庭の桜の木から湧くように沢山鳴いていたわね。」と従姉弟が言った。92才である。腰を打って入院している。見舞いに行った。目は見えない。戦前の話が出来るのは私しか居ないので、心待ちにしている。 ...続きを見る

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2011/04/14 08:01
一阿の 「イカナゴの釘煮」
風光るころになると、淡路のいかなごの釘煮が届く。明石や加古川の知友からも送ってくる。有り難いことだが、今年は駄目だろうと思った。関東東北大震災のあとである。しかし途絶へなかった。 ...続きを見る

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2011/04/02 07:32
一阿の 「関東大震災と永井荷風」(後編)
永井荷風は戦前 戦後、一貫した態度を貫きました。傍観者と自由主義です。戦後は志賀直哉や正宗白鳥と一緒にいち早く文壇に返り咲きました。 ...続きを見る

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2011/03/30 07:27
一阿の 「関東大震災と永井荷風」(前編)
永井荷風が大正十二年九月一日に起きた関東大震災をどう感じたのか、ふと興味を引き、あの有名な「断腸亭日乗」を紐解いてみた。 ...続きを見る

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2011/03/29 08:24
一阿としろうのメール 〜大震災によせて〜
◆一阿⇒しろうへのメール ...続きを見る

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2011/03/20 07:35
一阿の 「佐久間艇長と夏目漱石」 其の七
水漬きつつ電灯きえぬ真黒なる十尋の底の海の冷たさ ...続きを見る

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2011/01/26 08:40
一阿の 「佐久間艇長と夏目漱石」 其の六
漱石はその頃持病の胃腸疾患で吐血し長与病院に入院中でした。佐久間艇長の遺書を病床で読み深い感銘を受け、心から追悼文を送ったのです。彼は丁度朝日新聞 に「門」を連載していました。「草枕」「虞美人草」の絢爛たる文体を経て「それから」「こころ」とともに彼の深い沈潜と実りの時でありました。 ...続きを見る

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2011/01/25 08:48
一阿の 「佐久間艇長と夏目漱石」 其の五
漱石は明治43年3月から6月にかけて、朝日新聞に「門」を連載中であったが、胃腸疾患のため喀血し長与病院に入院中であった。病床で佐久間艇長の遺書を読み、心を込めて追悼の文を書いた。その一部を載せる。    ...続きを見る

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2011/01/24 08:25
一阿の 「佐久間艇長と夏目漱石」 其の四
世界は驚いた。それもその筈、この事故の少し前イギリスの潜水艇が、同じ状態で発見され、引き上げられた時、艇内は沈没直後の阿鼻叫喚が想像出来る状態であったからです。つまり艇員達は我先に逃れやうと、水明りの漏れるハッチの下に折り重なって倒れていたのです。 ...続きを見る

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2011/01/23 07:44
一阿の 「佐久間艇長と夏目漱石」 其の三
薄れ行く意識の中で彼は必死に気力を奮い立たせ、わが国の潜水艦開発の将来を思うのであった。急速に欠乏してゆく酸素、ガソリンの噴射による悪ガスの充満、凍えるような寒さ、次々に倒れ行く部下、その中で彼はかじかむ手に鉛筆を握らせ、やっと開いた手帳に字にならない字を刻んでゆく。 ...続きを見る

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2011/01/22 07:59
一阿の 「佐久間艇長と夏目漱石」 其の二
「ヨイショ!ヨイショ!」と四、五人の水兵が力一杯しかし息苦しげに排水ポンプを押している。その声が次第に嗄れてゆく。佐久間は長谷川中尉と門田上等兵曹を呼んだ。二人とも腰まで海水につかっている。ガタガタ震えガチガチ歯を鳴らしている。 ...続きを見る

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2011/01/21 08:28
一阿の 「佐久間艇長と夏目漱石」 其の一
賀正 明けましておめでとうございます。 みんなで力を合わせ、今年も我が国を、先祖から引き継いだ本当の日本の国へ、戻してゆきませう。 ...続きを見る

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2011/01/20 08:00
一阿の 「猿の反省」 D/5
如何に国が繁栄したやうに見えても砂が崩れればあっという間に楼閣は崩れる。彼等旧制高校出身の人は楼閣を築くこと、そして我々は楼閣を守ること、なによりも万世一系の天皇陛下をお護り申し上げ国体を護持することに生命をかけねばならなかったのだ。砂を叩き固める役目は我々であったのだ。しかし猿はそれをしてこなかった。兵学校を出ながら旧制高校出の人達のやうに楼閣を築くことに意をもちいてきた。 ...続きを見る

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2010/12/23 06:03
一阿の 「猿の反省」 C/5
80も半ばになるとデモの最後尾についても朝から九時間の行動にはいささか腰がふらつく、しかし帰りには若者の国を想う心の強さに打たれ、元気一杯で帰途についている自分を発見する。愚老(猿)は最初に東山魁夷の「道」の話をした。猿は本当にこのやうな正しい大らかな道を歩いて来たのだろうか。地球の中心にコンパスを立てて一分動かすと地表では1852メートル動くことになる。一度では100キロ以上の差がつく。ましてかっての敵国が敷設した亡国の道を一心不乱に歩いていたとしたら。猿は慄然とする。 ...続きを見る

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2010/12/22 08:43
一阿の 「猿の反省」 B/5
敗戦直後、「国体論争」といふのがあった。名著「法の究極にあるもの」を著された尾高朝雄教授と宮沢俊義との間であるが、決着がついたといふ話は聞かない。尾高教授は「戦いに負けても国体は厳然としてのこる」といふ立場を取られ宮沢は「敗戦と同時に天皇中心の国体は既に変わった」といふ考えに立った。 ...続きを見る

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2010/12/21 06:53
一阿の 「猿の反省」 A/5
昔、杉並区から立候補した松本善明の街頭演説を阿佐ヶ谷の駅頭へ聞きに行ったことがある。トラックの上に善明さんがいたが、その隣に何と山田洋次がいるではないか。「とらさんの」のあの山田洋次監督だ。愚老は我が目を疑った。彼は共産党員ではあるまい。しかしシンパであることだけは間違ひない。狡知に長けたNHKや左翼系のマスコミ特に朝日系の報道機関は反日、非日の尻尾を隠して国民を無国籍市民社会へ誘ふのだ。 ...続きを見る

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2010/12/20 07:56
一阿の 「猿の反省」 @/5
昔、舞台で片手を前について反省する猿がゐた。・・・昨今の祖国の状況を見ると、 海軍の幼稚園生であった愚老は、反省しきりである。茜色に染まった夕暮れの遠い富士を見ていると、「一生掛けて随分遠くへ来てしまった。」とふと思ふ。 ...続きを見る

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2010/12/19 09:25
一阿の 「善魔」  2/2
私たちは、今国を崩壊させるような悪い暗示に十重二十重に取り巻かれています。知識が潜在意識に沈みこむ貴重な入り口は暗示なのです。かっての敵国アメリカのGHQはこの想像以上に美しく精神的に豊かで静かで和やかな国、そして不思議なくらい強い神秘的な国を二度と立てないようにしないと子々孫々まで不安がのこる。 ...続きを見る

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2010/10/26 07:04
一阿の 「善魔」  1/2
岸田今日子の親父さんは有名な劇作家岸田国士(くにお)だと言うことはよく知られている。彼の作品に「善魔」があります。悪魔があるように善にも魔物が住んでいて善魔と言うらしい。 ...続きを見る

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2010/10/25 08:09
一阿の 「毒を以て毒を制す。」
過激派の内ゲバチンピラにも似て、大声を張り上げ恫喝してみせる仙石の三文芝居は見飽きた。国会を何処だと思っているのだ。ファッション会場と思い違いをした蓮舫と好一対だ。このやうな子供じみた未熟人を政権の場で教育して行くには時間がかかる。そのうちに国は滅びる。 ...続きを見る

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2010/10/22 08:05
一阿の 「デモの日記」
前を小学生が歩いていました。彼は尖閣諸島侵略絶対反対の紙を六本木の通行人に示しながら歩いていました。横にお母さんが日本の国旗を高く掲げて進んでいました。隣の青年は尖閣諸島は日本の領土のプラカードを高く上げていました。後の老人は疲れたでせう。と私に飴をくれました。 ...続きを見る

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2010/10/18 07:32
一阿の 「こぼれ話し」 5
 世の中には、目に見えるものと、目に見えないものがある。久保の心は子供のこころをいつも訪れていたのだ。父親の身体は目に見えるものであり、こころは目に見えないものだ。子供は目に見えないもので育つ。これは大正生まれの爺さんの繰り言ではない。 ...続きを見る

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2010/08/31 11:41
一阿の 「こぼれ話し」 4
 鎌倉光明寺墓参の帰りには、ご遺族のお宅を弔問する。今も久保のおおらかな笑顔が我々を迎える。前回書いたが、生きていたら、83才だ。この居間は生前のまま保存され、困った時は今でも、枕元に立って指針を告げてくれると奥様はおっしゃる。 ...続きを見る

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2010/08/30 06:57
一阿の 「こぼれ話し」 3
 お盆の頃になると、親しい友人と鎌倉光明寺境内にある久保正大(まさたか)兄の墓参りをする。「潮願院本誉浄海正明居士」仏の名前である。 ...続きを見る

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2010/08/28 06:23
一阿の 「こぼれ話し」 2
 今日出海の兄貴は今東光だが、昔参議院議員の選挙に出馬したことがある。選挙違反で運動員が捕まったが、「しょうがないな、あそこの坊主は、酒ばかり飲みよって」といつもの飲み屋で酒杯を重ねながらボヤいた。昔はのんびりしていた。 ...続きを見る

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2010/08/26 07:36
一阿の 「こぼれ話し」 1
 昔は良かった。これは年寄りの繰言である。然しどうも最近の政治家は人間が小粒になったような気がする。 ...続きを見る

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2010/08/24 06:30
一阿の 「『キル ジャップ』ということば」 5
さて人が死に行くとき、何を考えるかは、人によって異なります。このたび一阿が 挙げた物語は、国家の事を真剣に考えて散華された人のことです。NHKが放映するのは国家よりも個人のことを大切にする人の物語りです。どちらも大事です。 ...続きを見る

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2010/08/20 06:59
一阿の 「『キル ジャップ』ということば」 4
終戦記念日前のある夜、2時頃に目が覚めて中々寝付けないので、テレビのチャンネルをひねると、例によってNHKが反戦番組をやっていた。ニューブリテン島のラバウル防衛戦の模様である。個々の将兵の最後まで戦う姿勢は心を打ったが、結局NHKが言わんとする落とし穴がいやな雰囲気を心に影を遺す。玉砕しなかった将校2人を切腹に追い込むと言う物語です。 ...続きを見る

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2010/08/19 06:40
一阿の 「『キル ジャップ』ということば」 3
この文章は市丸少将が、硫黄島の第27航空戦隊指令部のある地下20米の壕の中で書き上げたものであるが、英訳は、三上兵曹に委託した。三上兵曹は其の使命感に興奮を禁じ得なかった。と言うのは市丸司令官はふだんから、三上兵曹にも日本側の正義を分り易く理路整然と教えて居た。しかも兵曹は二世である。ハワイでは違和感のなかで辛い立場にあり、日本では又逆に、白い眼で見られた。 ...続きを見る

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2010/08/18 06:41
一阿の 「『キル ジャップ』ということば」 2
     「ルーズベルトニ与フル書」 ...続きを見る

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2010/08/17 06:05
一阿の 「『キル ジャップ』ということば」 1
「kill japs]と言うのは、ハルゼーの発明した「合い言葉」です。ハルゼーはご存知のごとく、先の大東亜戦争で日本海軍と戦った米国海軍の指揮官です。山本五十六元帥に擬すべき人物とされて居ます。 ...続きを見る

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2010/08/15 08:25
一阿の  「英人の見た海軍兵学校」 11
 * 一阿のひとりごと・・・・・ ...続きを見る

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2010/08/07 07:16
一阿の  「英人の見た海軍兵学校」 10
 生徒隊の組織    生徒隊の組織は相当複雑である。学級は第一学年、第二学年、第三学年、第四学年と呼ば れる。又生徒のクラスは、兵学校が創立された年から数えた年数、を以って呼ばれる。例えば、1931年(昭和6年)に入学した生徒は、第六十ニ期と呼ば れ、1939年(昭和14年)に入学したクラスは七十期なのである。 ...続きを見る

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2010/08/06 06:19
一阿の  「英人の見た海軍兵学校」 9
(最後に、兵学校の生徒が激しい訓練だけを受けていたのでないことを少し述べよう。) ...続きを見る

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2010/08/04 06:15
一阿の  「英人の見た海軍兵学校」 8
  玉座とご真影のある大講堂は、イギリスの大学の礼拝堂に似ている。皇室崇拝の中心となるべき場所は、この大講堂であって、祭日には全校の人々が、ここに集まって、御真影に最敬礼をするのである。 ...続きを見る

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2010/08/03 06:16
一阿の  「英人の見た海軍兵学校」 7
 ところで、日本人の考えている「忠義」ということを、理解するためには、神道がいかなるものでであるかを理解する必要がある。      「神道」の文字通りの意味は、「神々の道」ということである。この原始的な宗教は日本 の国家的な存在と密接な関係がある。「古事記」は世界創造について述べている点で、キリスト教の聖書とよく似通っている。天地創造の男の神は、「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」、女の神は「伊弉冉尊(いざなみのみこと)」である。「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」の右の眼から 天照大神すなはち太陽... ...続きを見る

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2010/08/02 06:31
一阿の  「英人の見た海軍兵学校」 6
  江田島の宗教 ...続きを見る

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2010/08/01 06:27
一阿の  「英人の見た海軍兵学校」 5
(文頭で述べたように、この文章は、一英国人が昭和7年から昭和10年まで江田島の海軍兵学校で英語を教えるうちに、その教育の雰囲気と精神に感銘を受け、自国に帰ってから記したものです。) ...続きを見る

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2010/07/31 06:15
一阿の  「英人の見た海軍兵学校」 4
 水泳訓練の猛烈さ ...続きを見る

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2010/07/30 06:46
一阿の  「英人の見た海軍兵学校」 3
訓練 訓練 猛訓練    江田島の体育はこれまた猛烈である。その主なものは、柔道 剣道 相撲 棒倒し 操艇  水泳等の規則正しい訓練である。生徒のゲームはラグビー サッカー バスケットボール 及びテニスである。次に生徒の時間割は随分負担の重いものであ る。一日のプログラムが、どんなに忙しいものであるかは、左に掲げる時間表を、一見しただけで分かると思う。 ...続きを見る

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2010/07/29 07:55
一阿の  「英人の見た海軍兵学校」 2
印象深い校長の訓辞・・ ...続きを見る

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2010/07/27 07:34
一阿の  「英人の見た海軍兵学校」 1
 最近、「文春」で藤原正彦の「日本国民に告ぐ」を読んだが、実に明快なわが祖国に対する国家観であり、歴史観だと感銘を受けた。ただ一箇所だけ、どうもいただけないとおろがある。それは、112頁 の「・・すなはち、日本にとって自衛の戦争であった。と証言したのであった(マッカーサー)。これは、ドイツに、明確な世界制覇の意思と共同謀議があった のと対照的である。日本の陸海軍は終始いがみあって、そんな上等な野望のかけらも持ち合わせていなかったのである。」 格調の高い文章を書きながら、ここ のところだけは、如何... ...続きを見る

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2010/07/26 07:32
一阿の  「朝鮮半島の有事」 2
 以下 田尻会長資料による。 ...続きを見る

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2010/07/22 09:18
一阿の  「朝鮮半島の有事」 1
 7/9(財)史料調査会会長、田尻正司氏(兵学校73期)の話を聞いたのでお伝えします。史料調査会は終戦時米内海軍大臣の指示に基ずき、富岡軍令部第一部長の構想のもと、設立(S21.3.2)維持(64年間)されてきた、我が国の安全・防衛問題を研究する極めて少ない公益法人です。 ...続きを見る

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2010/07/21 08:43
一阿のことば  「軍艦のうどんやさん」2
 松永大尉の本を読むと何時も彼のことを思い出します。「思い出のネービーブルー」のなかにうどんや屋さんのことがこんな風に出て来ます。 ...続きを見る

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2010/07/10 10:05
一阿のことば  「軍艦のうどんやさん」1
 昔、銀座の「ヨーソロ」で飲んでいた特、時々兵学校68期の松永市郎さんにお会ひしました。松永海軍大尉は香取 陸奥 榛名 古鷹 那珂 名取 葛城 に乗艦され終戦の時は岩国航空隊基地通信長でした。松永さんには「先任将校」と「思い出のネービーブルー」という名著があります。 ...続きを見る

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2010/07/09 07:22
一阿のことば  「美しい日本」20
 女性大臣が黄色い声を張り上げて、国益度外視の仕分け采配を振るったり、反米反米と特定のイデオロギーを胸に沖縄の町を走り回っている姿を見ると、真に我が国の為に生命をかけて将来の幸せを子孫に残そうと奮戦された先輩に、何と説明したら よいのか、恥ずかしくて顔向けが出来ません。どんなに時間がかかろうとも、この外来種を一本一本引抜いて、本当の日本にしたいものです。 ...続きを見る

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2010/07/06 08:36
一阿のことば  「美しい日本」19
 「一億玉砕か未来ある敗戦か、歴史はこの人を必要とした。」とその帯にある阿川弘之著 「米内光政」に「・・・あのいくさでは、日本本土が戦場にならず、国が分割されず、私どもが今こうして安穏に暮らしていられるのに、米内光政という一海軍軍人がどのような役割を果たしたか、きれいに忘れ去ってしまっていいのか知らん・・・」とあります。この米内光政と肝胆相照らした「山本五十六」は、昭和 11年海軍次官に就任し井上成美(しげよし)軍務局長と海軍大臣米内光政と共に、身命を賭して「日独伊三国同盟」に反対したことは、よ... ...続きを見る

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2010/07/05 09:32
一阿のことば  「美しい日本」18
 さてそのときの彼の話しによると、自分は大変親不孝で、親の言うことを振り切って、音楽大学に入り、そこでコントラバスを習得し、今(昭和50年代半ば)は広島の音楽大学で教鞭を取り、時々寺に帰ってくる生活です。然し最近自分の不孝を悟りもう一度高野山で修行し、本格的な僧侶の資格をりました。そしてお詫びに「教信沙弥の生涯」という作曲をして寺に奉納しました。そして若しよければと、 彼が音楽活動をしていた裏の「法泉院」へ案内するのでした。 ...続きを見る

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2010/07/04 07:14
一阿のことば  「美しい日本」17
 別府から土山まで別府鉄道が走り、その途中に野口と言う町があると言いました。野口には 教信寺があります。教信寺は教信沙弥を祭り、河野一族の一遍上人が、ここで、往生したいと念願して、立ち寄ったことは国宝「一遍上人絵巻」に描かれていま す。私は別府に居るときは一度もお詣りをせず、東京に来てから一遍さんを知り野口の教信寺に心惹かれて訪ねることになります。別府や野口や教信寺はそれほ ど人口に膾炙していません。それより別府は「陣内智則」の故郷だと言ったほうが分かりがよいかもしれません。 ...続きを見る

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2010/07/03 08:06
一阿のことば  「美しい日本」16
 私の最初の課長は三浦さんと言って大人物でした。仇名は「おとん」でした。「お父さん」の略です。加古川の飲み屋で私が飲めないのでジュースを注文すると、悲しそうな顔をされました。酒に品種があるように人間にも品種があるのかな、と 言って彼の学生時代の話をしました。「京大時代に始めて先輩に「芋ぼう」でご馳走になり一升ずつ飲んで帰った翌日、未だ酔いが残っているうちに行ったら安くつく、と言うので二人でのみに行ったが、二升ずつ飲んでその日は自分が先輩を背負って帰った。」それが彼の酒に触れた最初だというのです。... ...続きを見る

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2010/06/23 09:13
一阿のことば  「美しい日本」15
播州に野口と言う町があります。野口は別府鉄道の途中の駅でした。別府鉄道は1984廃止されるまで、多木製肥所(多木化学)と別府化学(住友精化)の過燐酸石灰や硫安等を別府から山陽本線の土山まで運んでいました。別府鉄道は多木製肥所が所有していました。  ...続きを見る

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2010/06/22 09:05
一阿のことば  「美しい日本」14
 当時最も若く候補生として、ニミッツやハルゼー傘下の米国海軍と戦った方々がもう九十歳に近いのです。左翼の学者や評論家やマスコミの解説者と称する連中が、海軍や陸軍で祖国の為に命をかけて戦われた所先輩を、まるで自分達とは別種の民族 のごとく、軍閥とか軍国主義とか言い放って無責任な生き様をしているのを見ると、美しい日本の各地の山々にある、連合艦隊の慰霊碑の神霊がさぞ悲しんでおられると思います。諸先輩は自分の家族であり父や兄や従兄弟や叔父伯父では無いか。貴方方こそ非日本人ではないのかと言いたい。 ...続きを見る

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2010/06/21 07:12
一阿のことば  「美しい日本」13
 昭和16年頃は、旧制中学から旧制高校へ行く者も選ばれた者とされ、その中でも、一番二番の者が旧制一高と海軍兵学校へ行きました。ここに海軍兵学校第73期・「海ゆかば」(追悼 遺稿集)が有りますが、その序の一部を転記します。 ...続きを見る

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2010/06/20 09:40
一阿のことば  「美しい日本」12
 巡洋艦「摩耶」の慰霊碑は、神戸「摩耶山」の山上、天上寺に有ります。昭和59年10月 23日建立されました。丁度、摩耶がサンベルナンジノ海峡の直前で沈んでから40年が経っていました。魚雷4発を受けたのが、10月23日であったことは前に書きました。 ...続きを見る

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2010/06/19 08:07
一阿のことば 100 「美しい日本」 11 〜救国戦線 出航用意錨上げ〜 D
さて本論にもどります。 15  20世紀には大きなことが二つおこった。一つはユダ ヤの国家建設と、二つは日本の国家崩壊だ。ユダヤはダイヤモンド(オッペンハ イマー家)と金(ロスチャイルド家)で、地球上のほとんどの富を握りさらにアメリカの 金融市場をも動かしていた。しかし国家の無い惨めさを悟って、国家建設へと動き やっと国家を作った。そして日本。二千年以上の歴史を有する、見事な国家が国民 の意識の変化で、今や金銭に明け暮れ、特に田中角栄以降、列島改造と称し て経済のみを重視し、中国におもねり始め... ...続きを見る

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2010/06/15 08:20
一阿のことば 99 「美しい日本」 10 〜救国戦線 出航用意錨上げ〜 C
 「救国」全国国民総決起集会リポートの合間に、独り言を入れます。  六月十三日の産経新聞、産経抄をお読みになった方も多いと思いますが、小林秀雄が何故 大作「本居宣長」を著したか、を端的に分かりやすく表現しておられます。「ガラス瓶」も三月中旬ころ何度も書きました。「てふてふということ」・・その中で昭和の初期の小学校六年の国語教科書の文章をのせました。 ...続きを見る

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2010/06/14 06:54
一阿のことば 98 「美しい日本」 9 〜救国戦線 出航用意錨上げ〜 B
9  この日本の国の主権を踏みにじって、うら若き有為の青年や少女を拉致した北朝鮮の秘密工作員の救命 解放を嘆願したのは「菅」と「千葉景子」だったのだ。「そんなことがあったの」では済まされない。国家にとって最も大切な「主権」を彼等は命がけで守ろうとする意思が無いように思われる。「市民」たる所以であろう。それが首相と法務大臣と言うのは由々しき事態である。 ...続きを見る

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2010/06/13 09:41
一阿のことば 97 「美しい日本」 8 〜救国戦線 出航用意錨上げ〜 A
以下一阿が感銘を受けた話を順不動でかきつづる。 ...続きを見る

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2010/06/12 08:43
一阿のことば 96 「美しい日本」 7 〜救国戦線 出航用意錨上げ〜 @
 「美しい国創生」を唱えられた元首相安倍晋三はじめ憂国の士40名余りが集まった六月九日の砂防会館の「救国」「全国国民総決起集会の模様をお知らせします。                  記  「君が代」斉唱・・・会場 1000人を越す老若男女高らかに君が代を斉唱。ベートーベンの第九より美しく高らかに会場に木霊し響きわたった。魂の声であった。このような君が代は一阿84年の人生ではじめてであった。 一度も君が代を歌ったこともない男、国歌国旗に反対しつづけてきた男。こんな者が日本の首相になったの... ...続きを見る

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2010/06/11 09:41
一阿のことば 95 「美しい日本」 6 〜巡洋艦「摩耶」〜 A
その頃の戦闘は、アナログでしたから先に敵艦を見つけた方が有利です。大体水平線上に艦形が見えてからでは遅いので、マストが見えるか見えないかのところで発見して報告しなければなりません。それには測距儀の幅が広いほど有利です。戦艦 「大和」の索敵能力はずば抜けていました。「最後まで、測距儀の眼鏡にしがみついていた。」と彼は言います。 ...続きを見る

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2010/06/08 08:37
一阿のことば 94 「美しい日本」 5 〜巡洋艦「摩耶」〜 @
神戸は六甲と摩耶に抱かれて、平安の昔から長い歴史を見てきました。巡洋艦「摩耶」は昭和五年十一月八日神戸川崎造船所で呱々の声を上げました。進水式を行ったのです。そのころ日本国中大変でした。モラトリアムで神戸もご他聞にもれず大恐慌です。海軍省は艦政本部臨時艦船建造部を川崎造船所内に設け、艤装中だった「足柄」(巡洋艦)と潜水艦の工事を続行、川崎造船所は危機を脱します、神戸財界からも支援があり本艦は完成します。そうしてこの艦を「摩耶」と命名するのです。難産でした。   一等巡洋艦「摩耶」 完成   ... ...続きを見る

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2010/06/07 09:39
一阿のことば 93 「美しい日本」 4 〜駆逐艦「雪風」〜
羽黒、鳥海、摩耶、愛宕、。熊野、足柄、那智、高雄。五十鈴、最上、利根、筑摩。 ・・・これは、大日本帝国の帝国海軍、連合艦隊に所属した一等巡洋艦の名前です。 ...続きを見る

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2010/06/05 08:15
一阿のことば 92 「美しい日本」 3
一遍上人(1239〜1289)の熊野詣のことを書こうと思いますが、これは我々の先祖が如何に心豊かに仏教を吸収し、古来の神道と融合熟成していったかを知るよすがとなるからです。神道と一体の皇室こそが日本文化の中心なのです。 ...続きを見る

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2010/06/04 08:15
一阿のことば 91 「美しい日本」 2
国宝「一遍上人絵伝」にこの教信寺が描かれています。「聖絵」は一遍さんが亡くなって(1289)十年後に彼の一番弟子、聖戒によって完成しますが、その中に「いなみのの島にて臨終すべきよし思つれど・・・」とあります。つまり一遍は印南野の教信寺を終焉の地と考えていました。どうしてでしょう。「捨ててこそ。」に生涯を貫いた彼は死に際して死骸を「野にすててけだものにほどこすべし」といっています。まさに一遍の脳裏には教信の往生の様子が描かれていたのでしょう。 ...続きを見る

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2010/06/03 08:37
一阿のことば 90 「美しい日本」 1
「お前のおやじは偉かった。村の為にこんな良いことをした。」「お前の先祖は立派な武将だった、この地方の為に生命を懸けて戦った。」こういわれた子供は、「ようし俺も頑張るぞ」と奮起するでしょう。 ...続きを見る

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2010/06/02 08:52
一阿のことば 89 「皇統の危機」 9
我々はお盆のとき「迎え火」を焚きます。仏壇で行うので仏教の行事と思っている方が多いのですが、これは「神事」なのです。柳田国男も日本人の文化を論じる中で、日本人の死は死であって死ではない。 ...続きを見る

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2010/06/01 08:16
一阿のことば 88 「皇統の危機」 8
このブログをご覧の方は、「皇位継承の危機いまだ去らず」(扶桑社新書・桜井よしこ 大原康男 茂木貞純)を読まれることをお勧めします。明日でこの話は終わりますが、続けて来ました「皇統の危機」は上記出版記念会で桜井よしこさんが話されたことをかいつまんで話しております。 ...続きを見る

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2010/05/31 07:22
一阿のことば 87 「皇統の危機」 7
時代で言えば、孝謙天皇までの六方は飛鳥、奈良時代であり其の後平安、鎌倉、室町、安土桃山まで九百年以上は絶えてなく、後の二方は、江戸時代初、中期と言うことになりますが、これらのご即位は、皇室の長い歴史の中で例外的なものでした。政府資料ではこれを三つに分類しています。 ...続きを見る

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2010/05/30 07:23
一阿のことば 86 「皇統の危機」 6
現状は、明治37年当時よりもっと深刻なのです。何故露国のバルチック艦隊が喜望峰を回り、一万二千余里もかけてウラジオストックへやってきたのでしょうか。日本海大海戦で東郷平八郎元帥が、対馬沖でこれを捕らえ撃滅したからよかったものの、若しウラジオストックへ逃げ込んでいたら、状態は今の中国共産党の海軍(北海艦隊、東海艦隊、南海艦隊)と同じで、太平洋進出を虎視眈々と狙っていたでしょう。 ...続きを見る

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2010/05/27 09:05
一阿のことば 85 「皇統の危機」 5
皇統は2670年続いてきました。皇室中心の日本の国は、現在生きている我々だけでなく、父祖から引継ぎ子に孫に伝えて行くべきものです。 ...続きを見る

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2010/05/26 09:02
一阿のことば 84 「皇統の危機」 4
日本は素晴らしい国です。日本の歴史を紐解いてみますと、どんなに権力を持った人も皇室だけは無視する事が出来なかったことがわかります。  ...続きを見る

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2010/05/19 06:46
一阿のことば 83 「皇統の危機」 3
去る三月二十七日、「私は昭和二十年十月ベトナムで生まれました。」と桜井よしこさんは話し始められました。「皇位継承の危機いまだ去らず」の出版記念会です。東京プリンスホテル、桜は五分咲きで増上寺の向こうに東京タワーが見えました。 ...続きを見る

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2010/05/18 09:11
一阿のことば 82 「皇統の危機」 2
連合軍はどんなに日本の天皇を廃絶したかったでしょう。それが出来なかったのです。生命を懸けて我々をお守りくださった父や祖父や友や兄や先輩300万柱の御蔭で。 ...続きを見る

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2010/05/16 09:51
一阿のことば 81 「皇統の危機」 1
昔、尋常小学校の国史の時間、天皇がとてもお困りになられた時代があって、衣の代わりに蚊帳を纏われ、皇居の屋根からは雨漏りがした。と教えられたとき、生徒達はあまり畏れ多いので、ザワザワとざわついたものです。昭和十年前後の頃です。 ...続きを見る

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2010/05/15 08:32
一阿のことば 80 「国家ということ」 5
一昨日、昨日、今日と三日に亘って中国共産党の「日本第二期解放工作要綱」を掲載しています。30年も前の文書を今更と思はれる方があると思いますが、割合良く知られた政治工作員のためのこの作文を読んで居ますと、30年かけて日本は彼らの思う通りになりつつあるのではないか、と言う確信になる恐ろしささえ感じます。 ...続きを見る

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2010/05/10 07:16
一阿のことば 79 「国家ということ」 4
B 「民主連合成府」を大衆が許容する温床を作り上げること。これが本工作の任務である。その反対の論調を挙げさせてはならぬ。しかし「マスコミ」自体に「民主連合政府」樹立の主張をなさしめてはならぬ。 これは敵の警戒心を目覚めさす自殺行為に等しい。 「民主連合政府」に関する事柄を全く報道せず、大衆はこの問題について全く、無知、無関心 であることが最も望ましい。 本工作の進展につれて、日本の反動極右分子が、何等の根拠も掴み得ないまま、焦燥に耐え得ず 「中共の支配する 日本左派勢力は、 日本赤化の第一歩... ...続きを見る

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2010/05/09 08:03
一阿のことば 78 「国家ということ」 3
目に見えないものを言葉というマチエールを使って眼に見えるようにするのが文学だ。と教えてくれた友人のことを前に書きました。このまま敷衍すると、大抵のことが説明できます。 ...続きを見る

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2010/05/08 07:37
一阿のことば 77 「国家ということ」 2
三月の上旬、ファーブルの昆虫記にでているミクロガステルという小さな虫のことをかきました。キャベツの青虫の天敵です。この虫は青虫の体内に寄生しその血液を吸って成長します。一気に吸うと青虫が死んでしまうので、チビチビ吸って青虫の生命が果てるころ、その身体を食い破って出てきます。 ...続きを見る

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2010/05/07 08:26
一阿のことば 76 「国家ということ」 1
 四月二十八日の産経新聞・正論欄に東京大学名誉教授小堀桂一郎さんのことばが載っていました。これは愚老がブログで拙文を書いてきた70回分の要約だと思いましたので一部再録させもらいました。或いはお読みになった方も多いと思います。 ...続きを見る

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2010/05/06 09:42
一阿のことば75 「おじょん」 2
私の最初の結婚は昭和28年である。其の頃は青野ケ原の禅寺(慶徳寺)の風呂場に筵を敷 いて住んでいた。妻は病気で寝ていた。神戸医大の上月教授はあと三ヶ月と私にそっと耳打ちした。正確には未だ妻ではない。私は「結婚式を挙げる」と木村に電報した。彼はやってきた。馬小屋程は広くない筵の上で、私はそっと妻を起こし、母が着物を羽織らせた。牧師も神主も居なかった。此のニ中の友人と母と妻 と私は軽くお辞儀をした。これが結婚式であった役場へ行って入籍の手続きをした。家内は三ヶ月後に亡くなった。 ...続きを見る

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2010/05/03 08:11
一阿のことば74 「おじょん」 1
若い人に昔の物語を伝えるのが一つの役目なので、恥を忍んで若い頃の個人的な物語をします。 ...続きを見る

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2010/05/02 10:06
一阿のことば73 「敗戦後のこころ」
此の文章は昨年暮れしーたろうがクリスマスメッセージの記事1、クリスマスメッセージの記事2を書かれた時に、一阿が書いた文章です。私は右でもなく左でもなく日本人です。一人でも多くの方に読んで頂ければ幸いです。 ...続きを見る

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2010/04/30 08:53
一阿のことば72 「天長節」
今日四月二十九日は天長節です。今日の佳き日は大君の生まれ賜ひし佳き日なり。♪ ...続きを見る

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2010/04/29 21:43
一阿のことば 71  「昔の小学校 3」
朝日輝く神撫で*(かんなで)の 清き姿を仰ぎつつ 雄雄し進まん国のため 雄雄し進まん君のため    * 神撫で・・神が長田の里を慈しみ撫でると山になった。      神戸の中央の高取山のこと。      この麓に長田神社があり長田小学校はこの神社の隣。      御祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)官幣中社 ...続きを見る

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2010/04/28 08:04
一阿のことば 70  「昔の小学校 2」
一阿は小学四年は昭和十一年でしたが、 大正時代の内容と大した差はありません。 それも其のはず国家の教育の基本方針はそんなにぐらぐらする筈も 在りませんから。考えを述べます。 ...続きを見る

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2010/04/14 09:09
一阿のことば 69  「昔の小学校 1」
国が国体を考えず、民が真剣に国体を心配する妙な国になってしまった 腹立たしさをかみ締めて、昔の学校のことを考えています。 期待の新党が生まれましたが、党の方針に「憲法を改正する」だけではなく、 「国体を基に戻す」とはっきり謳ってもらいたいものです。 そして「万世一系の皇室を守護する」と。 ...続きを見る

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2010/04/13 09:31
一阿のことば 68  「ふとした思い出 4」 
海軍に山梨勝之進という大将がおられました。 (かってこのブログに投稿された吉田 学 元海幕長は山梨大将に仕へました)。 山梨大将は戦後学習院の院長でした。 ...続きを見る

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2010/03/25 07:44
一阿のことば 67  「ふとした思い出 3」
昭和17年の夏。神戸は緑に包まれ、戦争の匂いはそれほど激しく街を包んでは いませんでした。 ...続きを見る

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2010/03/24 09:52
一阿のことば 66  「ふとした思い出 2」
それもそのはずGHQはチャントした保守の教授は全て、パージにかけ 放逐していたのですから。 学問の雰囲気を持った教授はごくわずかでした。 ...続きを見る

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2010/03/23 09:20
一阿のことば 65  「ふとした思い出 1」
鳥雲に 忘れしことの 限りなし。  一阿 ...続きを見る

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2010/03/22 09:20
一阿のことば 64  「てふてふのこと 6」
「てふてふのこと」も安西冬衛の三行詩に始まり、 戦後の文部省や国語審議会の日本国語に対する誤導問題から 文語文のことになり、やがて昔の尋常小学校の国史教科書(文語体)の 韓国併合と本居宣長へ続きました。 ...続きを見る

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2010/03/21 08:51
一阿のことば 63  「てふてふのこと 5」
前回からの続き、「尋常小学国史 下巻 第四十五 本居宣長」  国史の 「上」は尋常小学五年の教科ですから下巻は六年、満十二歳の教科です。 続けます。 ...続きを見る

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2010/03/20 10:17
一阿のことば 62  「てふてふのこと 4」   
前回は「韓国併合」でしたが、今回は「本居宣長」を載せます。 ...続きを見る

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2010/03/19 14:59
一阿のことば 61  「てふてふのこと 3」   
前回のブログでお約束した、戦前の尋常小学校国史教科書下巻の内、 第五十一明治天皇の七 節韓国併合と、 第四十七本居宣長の原文を載せます。文語文です。 一阿は全く同じ内容を口語文で習いました。 ...続きを見る

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2010/03/18 09:25
一阿のことば 60 「てふてふのこと 2」  
昭和27年内閣官房長官名で各省庁次官宛に依命通知された 「公用文作成の要領」は、 ずっとその統制色が引きずられ、 今日なお日本国国語を劣化させつづけております。 ...続きを見る

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2010/03/15 08:27
一阿のことば 59 「てふてふのこと 1」  
    てふてふが     だったん海峡を     渡っていった という有名な三行詩が あります。一羽の蝶が真っ白な薄い羽を上下に、 てふてふと扇ぎながら何一つ無い紺青の海原を北に向かって飛ぶ様子を、 安西冬衛は詠いました。これを     ちょうちょうが     ・・・・・     ・・・・・ とすると、何のことだか分からなくなります。重たい蝶々は海に落ちて 死んでしまいます。 ところが今は蝶々はちょうちょうで、決しててふてふではありません。 ...続きを見る

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2010/03/14 10:05
一阿のことば 58  「国基研レポート 6」  
◇大岩雄次郎さん 子供手当てを含め民主党のかなりの政策は、 正当性をキチンと説明できない限りバラマキと 言われても仕方が無い。 今最も大事なことは、製造業を立て直すことだ。 生産性を上げるお金の使い方をしないと、あらゆる政策がばら撒きに終わる。 民主党は 小沢氏の一言で政策論議をする場を断ってしまって、 隠蔽された囲いの中で独断的に物事が進んでいるかに見える。 ...続きを見る

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2010/03/13 09:33
一阿のことば 57  「国基研レポート 5」  
◇桜井よしこ さん 鳩山政権のこの半年間はプラスのものは何もなく、全てマイナスでした。 鳩山政権を事実上支配する小沢さんで、 全く変わらないものと180度変わったものがあります。 変わらないのは権力への執念と日本に対する考え方です。 ...続きを見る

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2010/03/12 09:46
一阿のことば 56  「国基研レポート 4」
◇潮 匡人さん 鳩山政権はインド洋での海上自衛隊の給油活動を終了させると言う暴挙に出た。 朝鮮半島で 米韓の作戦計画が発動された時、 日本のできる事は非戦闘地域で米軍に給油活動をするくらいだ。 政権は変わったが国家の基本問題は何も変わっていない。 無自覚の度合いは更に深くなっている。 ...続きを見る

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2010/03/11 09:21
一阿のことば 55  「国基研レポート 3」
 「国基研シンポジュウム」は去る2/25に 次の六名のパネリストによって催されました。 会場で簡単に筆記しただけですので、 意を尽くせませんが、ご覧ください。 ...続きを見る

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2010/03/10 09:49
一阿のことば 54  「国基研レポート 2」
*小沢氏の君臨は日本の恥 桜井よしこ氏の今週の直言(2/8)。によりますと 今から30年前小沢氏は父佐重喜氏を偲ぶ文章の中で、 政治資金に起因する腐敗を防ぎ政治倫理を正しく保つ為には、 小選挙区制の導入と政治資金の公営化がどうしても必要になる。 これは父佐重喜の主張と重なる。と言っています。 親子二代にわたって燃やし続けた執念は実り、 小選挙区制は実現されました。 では果たして政治資金を巡る腐敗は消え、 政治家の倫理観は正されたのでせうか。 明らかに否です。 ...続きを見る

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2010/03/09 08:39
一阿のことば 53  「国基研レポート 1」
先日「産経抄」にキャベツの青虫の話が出ていました。 全く同感で、心を打ちましたので、かい摘んでお話しします。 ...続きを見る

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2010/03/08 09:55
一阿のことば 52 「ケルトの木 6」
さてこうしてABCDラインが出来上がって行きます。 Aはアメリカ、Bはイギリス、Cは 支那、Dはオランダです。 東南アジヤにはオランダの植民地が多かったのです。 ...続きを見る

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2010/03/04 08:40
一阿のことば 51 「ケルトの木 5」
前にも言いましたが、大塚久雄は「近代欧州経済史序説」で イングランドのヨーマンリイ (羊飼い)は自分の敷地を囲い込んで、 これがおれの敷地だとして羊を育て毛を刈り毛織物を作り再生産を始めた、 こういう中規模の自営農の囲い込み運動(エンクロージャー ムーヴメント)が、 資本主義のはじめだとして人間類型と言うことを言い出します。 ...続きを見る

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2010/03/03 08:53
一阿のことば 50 「ケルトの木 4」
戦前我々は、祖国を神州不滅と呼びました。私は今もさう思っています。 然しそれは万世一 系の天皇と、武士道があってのことです。 ...続きを見る

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2010/03/02 09:50
一阿のことば 49 「ケルトの木 3」
美しい心を持ち、勇敢で、地球を汚さず、自然と共に生きた、見事な民族ですが、 この民族 は今は地球上に存在しません。 ...続きを見る

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2010/03/01 08:46
一阿のことば 48 「ケルトの木 2」
あのマルセル・プールストは「失われた時を求めて」の中で、 古代ケルト人のことを 「亡くなった人の魂が一定期間、樹木や植物や石の間に閉じ込められ、 親しい人がそのそばを通るとき、魂は彼等を呼ぶ。 呼ばれた人が気がつけばそこで魂は出会い、やがて永遠の命に入る。」 所謂霊魂不滅の思想を持った人と書いています。 ...続きを見る

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2010/02/28 08:45
一阿のことば 47 「ケルトの木 1」
ケルトと言う言葉を聞いたことがあると思います。 最初に思い出すのは、アイルランドや小泉八雲や ジェイムス・ジョイスかもしれませんね。 然し古代ケルトの人達は自分達の歴史を一切書き残さなかったので、 正確なことは分かっていません。 ...続きを見る

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2010/02/27 07:59
一阿のことば 46 「ヨーソロのこと 5」  
「・・・すべてが取舵一杯とばかり左に左に流れていって、 日本人でありながら祖国を、自らの父祖を悪しざまに罵り、 歴史を現在の価値観で断罪し、外国に謝罪することが良心的なんだという。 ...続きを見る

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2010/02/25 08:14
一阿のことば 45 「ヨーソロのこと 4」  
最後にもう一つこころに強く残っていることがあります。 いまから20年ほど前、たまたま3人の兵学校75期の友人と ヨーソロで飲んでいたときのことです。 ...続きを見る

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2010/02/24 09:30
一阿のことば 44 「ヨーソロのこと 3」  
次に白州次郎のこと・・・ ...続きを見る

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2010/02/23 08:24
一阿のことば 43 「ヨーソロのこと 2」
この女将と京都から進出してきた「おそめ」のお菊ママとの戦いは、 川口松太郎が小説「夜の蝶」(昭和32)で書いて人気になりました。 それはやがて吉村公三郎監督の映画「夜の蝶」になり一世を風靡します。 まち子役が京マチ子、お菊役が山本富士子でした。 ...続きを見る

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2010/02/22 09:38
一阿のことば 42 「ヨーソロのこと 1」
銀座に、昔ヨーソロ(宜候)という海軍バーがありました。ヨーソロとは、 宜しゅう候、ある目標に直進する。と言うことです。 富士山ヨーソロとは富士山に艦首を向けて直進する、です。 ...続きを見る

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2010/02/21 09:10
一阿のことば 41 「佐久間艇長 3」
余談があります。 ちょうど同じような時期にイタリヤの海軍で潜水艇が沈没しました。 ...続きを見る

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2010/02/17 09:04
一阿のことば 40 「佐久間艇長 2」
この教育参考館のなかで、一阿が何時も足を留めたのは、 「第六潜水艇、佐久間艇長の手 帳」の前でした。 ...続きを見る

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2010/02/16 08:52
一阿のことば 39 「佐久間艇長 1」
時計を逆に廻し、爺さんは江田島の海軍兵学校自習室にをります。 ...続きを見る

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2010/02/15 08:35
一阿のことば 38
大学に入って初めて夫々の専門分野の勉学に入り、 社会生活、社会貢献への準備をします。 ...続きを見る

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2010/02/12 10:06
一阿のことば 37
旧制高校では語学(英、独、仏)を徹底的にやり、後は哲学でした。 3年間は「人生とは」 「自分とは」「国家とは」「愛とは」等々を考え続け、 特に大学受験なんて考えなかったのです。 ...続きを見る

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2010/02/11 12:27
一阿のことば 36
爺さんの繰り言と思って聞いてください。 ...続きを見る

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2010/02/10 09:44
一阿のことば 35
恐ろしいのは、この事が一切目には見えず進行していることです。 表面では、いまだに GDPはほぼ中国と並んでいますし。 ...続きを見る

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2010/02/09 09:09
一阿のことば 34
一阿が最初の頃、書いた桶谷秀昭の昭和精神史に 「昭和20年11月に日本国憲法が公布さ れ、 そして平安朝以来の歴史を持つ国語体系の破壊をもたらす 現代かなづかいが制定された。 そして12月には米国式6.3.3制の新学制が予告された。」とあります。 ...続きを見る

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2010/02/08 09:21
一阿のことば 33
今のマスコミや識者の言うことにフラフラついてゆくと、 とんでもない所へ行ってしまい ます。 ...続きを見る

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2010/02/07 09:54
一阿のことば 32 「〔しーたろう〕のクリスマスメッセージへの返信6」
昭和50年代でしたか、尾崎巌という慶応の教授がいました。 同期でした。 ...続きを見る

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2010/02/03 08:44
一阿のことば 31 「〔しーたろう〕のクリスマスメッセージへの返信5」
一阿がずーっとまえに書いた講座派(共産党)の山田盛太郎が 日本の産業を分析して二重構造となずけ 今では、世の中に定着してしまいましたが、この考え方が、 先に書いた近代資本主義の萌芽期にプロテスタンティズムの精神を持った 立派な労働者を単に賃金のみを求める人と解釈した 精神の貧しい知識層を代表した考えです。 ...続きを見る

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2010/02/02 09:40
一阿のことば 30 「〔しーたろう〕のクリスマスメッセージへの返信4」
それから、「禁欲」という言葉を使いますが、 これはパウロが新約聖書の中で述べているあのマラソン競争の例え、 褒美を得んものと、あらゆることを忘れて 目標にむけて突っ走る行動力を言います。 「祈りかつ働け」の精神です。 ...続きを見る

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2010/02/01 11:35
一阿のことば 29 「〔しーたろう〕のクリスマスメッセージへの返信3」
後で述べますが、自立自営の心を持った人たちが、 今まで述べた資本主義の精神を内に秘めた場合、 経営を大きくして近代的な産業経営者になり、 取り残された人々がみずから進んで経営内の規律に 服するような近代的な労働者になって行きますが、 この両者とも今まで述べたようなピューリタンの心が絶対必要なのです。 ...続きを見る

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2010/01/31 09:33
一阿のことば 28 「〔しーたろう〕のクリスマスメッセージへの返信2」
少し退屈ですが、後で日本の武士道と密接に関係し、 そしてわが国が決して侵略国家ではないと言う事と結びつきますので 我慢して聞いて下さい。 ...続きを見る

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2010/01/30 09:20
一阿のことば 27 「〔しーたろう〕のクリスマスメッセージへの返信1」
しーたろうさんの去年のクリスマスの贈り物に キリスト教の精神と武士道についての素晴らしい言葉がありましたが、 一阿がつねずね考えていた事がありますので、聞いて下さい。 ...続きを見る

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2010/01/29 12:28
一阿のことば 26
憲法を改正し自力で国を護れるようにしなければ国は滅びます。 ...続きを見る

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2010/01/16 08:43
一阿のことば 25
軍隊という言葉ですべての軍をバッサリと切ってはいけません。 軍の中には我々の兄や父や叔父や従兄弟が日本の国を 命がけで護る為に戦っておられたのです。 ...続きを見る

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2010/01/15 09:01
一阿のことば 24
軍隊に対する考えもタシ算ヒキ算で行きたいものです。 ところがどうでしょう 今軍隊というと市民と称する人達は身震いするほど嫌います。 ...続きを見る

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2010/01/13 10:46
一阿のことば 23
何故軍隊特に海軍のことを何度も何度も書くかと言うと、 あらゆる国家は政治と軍の二輪で走っているからです。 そして私は海軍のことしか知らないからです。 経験しない事を書くと作り事になる恐れがあります。 ...続きを見る

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2010/01/12 10:38
一阿のことば 22
「後で、その方が申されますには、 『私は出来ることなら第一線でお国の為に戦いたかった。 そして靖国神社に行きたかった。』 ...続きを見る

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2010/01/08 09:18
一阿のことば 21
我々生徒はそのご人徳を慕い昭和55年東京で三十三回忌を挙行しました。 当時NHKの名物アナウンサーであった篠田英之介に司会を依頼します。 彼も江田島の同期でした。 彼が読んだ追悼の辞のごく一部を載せます。  ...続きを見る

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2010/01/07 09:40
一阿のことば 20
私事になるかも知れませんが、 少し海軍兵学校の教官の事を書くことをお許し下さい。 ...続きを見る

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2010/01/06 09:32
一阿の 「普通の気持ち」 7
※管理人〔しーたろう〕から皆さまへのご連絡※ 12月15日の天皇陛下と中国副主席とのいわゆる「特例会見」の件、 遠藤健太郎オフィシャルブログさま「外務省『抗議してほしい』」によりますと、 なんと、外務省側があからさまに「抗議して下さい」とおっしゃっている というので、下の記事に文例と書簡・FAXの送付先をアップしております。 よろしければご参照ください。  〔しーたろう〕 ...続きを見る

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2009/12/30 10:39
一阿の 「普通の気持ち」 6
マスコミも学者も文部科学省でさえも国家を無視し 個人をやたら前面に押し出す。 ...続きを見る

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2009/12/29 10:53
一阿の 「普通の気持ち」 5
          我々は戦争に負けたのだ ...続きを見る

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2009/12/28 12:01
一阿の 「普通の気持ち」 4
           日本は戦いに負けたのだ ...続きを見る

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2009/12/27 10:53
一阿の 「普通の気持ち」 3
実に巧妙に仕組まれた潜在意識の改変が此の国でなされた。 ...続きを見る

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2009/12/26 13:13
一阿の 「普通の気持ち」 2
このまま戦争を続けたら、300万の戦死者が出ると読んだトルーマンは 条件付きの終戦を承認した。 ...続きを見る

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2009/12/23 09:55
一阿の 「普通の気持ち」 1
一阿さまの「一阿のことば」が連載途中でございますが、本日から7回に亘り、 「普通の気持ち」という記事をご紹介させて頂きます。これは一阿さまが 平成13年頃に執筆された原稿をこのブログのために校正して下さったものです。 宜しくお願いいたします。                               ブログ管理人〔しーたろう〕 ...続きを見る

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2009/12/22 11:21
一阿のことば 19
※〔しーたろう〕から皆さまへのご連絡※ 12月15日、天皇陛下と中国副主席の会見が行われてしまいました。 遠藤健太郎オフィシャルブログさま「外務省『抗議してほしい』」によりますと、 この問題につきましては、まだまだ関与先への意見書送付が必要なようです。 ...続きを見る

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2009/12/17 09:40
一阿のことば 18
先日国士と言われている政治家の話を靖国会館へ聞きに行きましたが、 びっくりして流石に気の弱い一阿も手を挙げて反論したが、こう言うのです。 ...続きを見る

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2009/12/16 10:00
一阿のことば 17
山本は右翼や特高に生命を狙われます。 そこで米内さんは山本さんをそっと彼らの手の届かぬ連合艦隊へ 転出させるのです。 ...続きを見る

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2009/12/15 13:31
一阿のことば 16
陸軍が推した三国同盟(日独伊)に徹底的に反対し、 米英と戦ってはならないと最後まで抵抗したのです。 山本五十六司令長官はアメリカを熟知し その生産力の強大さも知り抜いていましたので、 戦ったら勝てないことを知り抜いていました。 彼の作戦は米内光政大将を、伏見宮軍令部総長の後に据えることでした。 ...続きを見る

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2009/12/14 08:54
一阿のことば 15
日本の国防は、まさに海からくる敵に備えることであったのです。 悠長に外輪船の時代を過ごしている訳には行きません。 一挙にスクリュー船を購入し英国の海軍の教えを請います。 というよりも英国海軍を直輸入し、築地に海軍兵学校を創ります。 明治8年これは江田島に移設されます。 ...続きを見る

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2009/12/13 09:49
一阿のことば 14
海軍のことを少し話しましょう。 ...続きを見る

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2009/12/12 12:29
一阿のことば 13
私を含め庶民は常に心配であったのだ。 世界第二の経済大国も軍備も砂上の楼閣ではないか。 国体がしっかりしない国の経済なんてあっという間に潰えるのではないか。 ...続きを見る

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2009/12/08 09:14
一阿のことば 12
白い雲は大和の心ひいては大和魂・武士道を措いてほかにはありません。 ...続きを見る

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2009/12/07 10:03
一阿のことば 11
一阿はここで前に述べた昭和精神史の最後のところに出てくる「伊東静雄」の詩を口ずさみます。 ...続きを見る

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2009/12/06 09:58
一阿のことば 10
私の祖父は明治5年生まれですが、明治維新のことを「ご維新 ご維新」と 誇らしげにいっていました。 大村藩が勤皇に味方をしたことが家の誇りでありました。大村藩に仕えました。 ...続きを見る

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2009/12/05 12:35
一阿のことば 9
信じられないほどの力。 内に向かっては私よりも国家や人様のことを先にする忠誠心、克己、忍耐。 外に向かっては生命を鴻毛の軽きにも比す戦闘力。 彼らは信じられなかったかも知れません。 ...続きを見る

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2009/12/04 10:40
一阿のことば 8
つまり東京帝国大学には保守の正当なる学者を皆パージにかけて抛り出し、 共産党員の山田盛太郎(農政学) (党員には講座派と労農派がわかれていた。 彼は講座派の総帥)大内兵衛(財政学)有沢広美(経済政策)コンニャクの 化け物みたいな美濃部亮吉(社会学:当時から一番人気がなかった) それに横田喜三郎(極東裁判の理論的根拠を作り上げた売国奴:国際法)等々。 ...続きを見る

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2009/12/03 13:44
一阿のことば 7
私は言いました。「今ごろそんなことを言われても困る」。 ...続きを見る

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2009/12/02 09:37
一阿のことば 6
先ほど申し上げた海上幕僚長も私と同じ83才ですが、 その当時は20才台の青年でした。 私は吉田茂を「あの男をみなは戦後政治の神様のように言うが、 あれほどの軍隊嫌いはいない。 またマッカーサーもそれを見込んで首相に据えたのだが、 あの時(講和)本当の軍隊を創っておれば、 今のような体たらくにはなっていない。」 ...続きを見る

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2009/12/01 09:58
一阿のことば 5
海上保安庁は昭和23年5月に、海上自衛隊は昭和27年にできますが、 朝鮮戦争のはじまった昭和25年には、運輸省の掃海部隊と海上保安庁がともに関与したことになります。 ...続きを見る

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2009/11/30 10:18
一阿のことば 4
マッカーサーはパイプを咥えて悠々と厚木飛行場に降り立ちました。 それ以降のことは新聞やテレビでよくご存知のことと思います。 ...続きを見る

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2009/11/29 10:38
一阿 一寸遊びます 2
一阿の愚作少し ...続きを見る

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2009/11/28 12:54
一阿 一寸遊びます 1
今日は一寸遊びます。 ...続きを見る

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2009/11/27 14:56
一阿のことば 3
日本は戦争に負けました。当時わが国は人口8500万人世界の人口は25億でした。イタリヤもドイツも途中で手を上げて降参し、最後は日本一国で戦ったのです。世界で一番勇猛で頭もよく人格も高かったのです。こんな国は世界中どこにもありません。 ...続きを見る

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2009/11/26 12:03
一阿のことば 2
彼と同じ年令で海軍兵学校の私の先輩は、19歳でミンドロ島でわずかの手兵を率いて突撃し戦死します。私に破れた靴下の縫い方や、洗濯の仕方を手を執って教へてくれた優しい一号生徒でした。彼は巡洋艦妙高から駆逐艦早霜に配属になりサマール沖で勇戦の末撃破され、生き残りの数名とカッターでミンドロ島に渡り数千の敵に向かって突撃して行かれました。 ...続きを見る

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2009/11/25 19:29
一阿のことば 1
一阿と申します。83才の老人です。大正15年に生まれ昭和20年8月15日は18歳で出撃の直前でした。完全に戦前とは言えませんが、昔の日本を人生の若木のときに深く呼吸しました。 ...続きを見る

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2009/11/24 20:23

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ガラス瓶に手紙を入れて 書き手:一阿さんのテーマ/BIGLOBEウェブリブログ
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