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zoom RSS 一阿の 「澎湃寄する海原の」 13

<<   作成日時 : 2017/06/02 07:00  

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聯合艦隊司令長官山本五十六は酷熱のラバウル基地で、連日純白の第二種軍装を着用し、出撃してゆく零戦隊員の一人一人に、心を込めて敬礼を送ってをられました。最初から勝てないと分かっている戦いに、軽薄な政治家や極右の人間や、何にも増してマスコミの無責任な煽動により、ドイツ病にかかったまま国家は、戦うことを決めてしまった。戦うと決めた以上、武人として死力を尽くして国を護るのは自明の理です。祖国を護るため、智胆勇の極致を尽くし、身は鴻毛の軽きに思う存念は江田島時代から出来てはいるが、我が亡き後の日本の運命・・・。

同期の堀悌吉や信頼する米内光政や山梨勝之進はいるが・・・。彼の頭をよぎるのは、あの時の無念の憶いだったかも知れない。昭和15年9月16日、 及川古志郎に聯合艦隊と第一艦隊の分離時自分を第一艦隊に米内光政を聯合艦隊にそれぞれ司令長官として配置するやう頼んだ時のこと・・・。本当の胆は伏見宮ご退任時、 米内光政を軍令部総長にと先の先を告げていたら・・・。希しくも、まさにその日昭和天皇が大本営参謀総長・閑院宮載仁親王と軍令部総長・伏見宮博恭王の勇退を内大臣・木戸幸一に相談なさったのだ。木戸日記からは、木戸の言上した内容は分からないが、昭和天皇の御意図に賛成であったことは確かだ。翌17日、侍従武官長・蓮沼 蕃が天皇に呼ばれ、その実現方を指示される。

蓮沼は、交代を当時の陸相東条と海相の及川に計る。東条は直ちに同意したが、及川は19日朝、蓮沼を訪問して、伏見宮博恭王の交代は「絶対に困る」と確答してしまう。及川は米内を尊敬しその能力を認めていた。しかし、それ以上に伏見宮の影響下にあった。

山本五十六長官の「米内光政・軍令部総長」の悲願はここに潰える。! やがて、(昭和16年1月7日)東条内閣の大本営政府連絡会議で、海相が開戦に賛成しない場合には、避戦主義のもと辞職をほのめかしつつ、最後まで抵抗した東郷茂徳外相が海相を支持することは確実だ。さらに、東郷と歩調をあわせて最後まで納得しなかった賀屋興宣蔵相も海相を支持することはほぼ確実と思える。外相・海相・蔵相が避戦主義に出る場合、海軍が賛成しなければ戦争は出来ないと言明していた東条が、戦争反対にまわる可能性はかなりある。永野の軍令部(伏見宮の御勇退後、永野修身が軍令部総長)は、和戦いずれにも応じ、政府を倒す考えはないと言っているから、問題は杉山の参謀本部のみである。

杉山が抵抗しなければ、昭和天皇が東条の指導力に期待なさったように、連絡会議は避戦で一致し、杉山が抵抗すれば、杉山の辞職か更迭と言うことになる。閣僚の意見が一致しておれば、内閣総辞職には至らないはずである。このやうな場合には、参謀本部や国民の一部からまず海軍が非難され、戦争の出来ない海軍は「無用の長物」との声が起こる。しかし、まさか陸軍がクーデターに出るやうなことはあるまい。陸軍、特に参謀本部には、第一部長・田中新一中将を中核とする何人かの極めて積極的な開戦論者がいたけれども、参謀本部に不穏な動きがあったと言う証拠はない。

戦後、わが分隊監事・野村実博士が当時の海軍大臣・嶋田繁太郎に面談された時にも、陸軍側にクーデターの気配を感じたことは、全くなかったと証言している。日本の戦争計画・作戦計画とそれに基ずく開戦論は、ドイツがヨーロッパで勝利するであろ、最悪の場合でも不敗であるとの大前提で、全てが考えられていた。ドイツが現実の歴史のように敗れるのに開戦すると言うのは、狂人の論である。いくら当時の陸海軍が、精神主義になり、組織が制度疲労に陥っていたとしても、陸海軍の指導部が狂人の集団である筈はない。あとから検討すると、真珠湾攻撃の時にはすでに、ドイツ軍の力は伸び切って、モスクワ前面の作戦では敗退していたのだが、日本の指導者はそれを知らなかった。開戦論の大前提であったドイツの勝利ないし不敗は、必ずしも確実ではなかったのだ。

昭和16年1月7日山本が及川に送った書簡は「・・・自ずから他にその人ありと確信するは、既に曩に口頭を以て意見を開陳せる通りなり。・・ 」とあくまて米内を聯合艦隊司令長官に推薦している。その理由は以前に述べました。 あの東条内閣大本営政府連絡会議の場に、嶋田繁太郎海相でなく山本五十六海相であったなら、そして軍令部総長が永野修身でなく米内光政であったなら日本の歴史は変わっていたでせう。いま、ここに空しいタラレバの話しをしているのではありません。一般に太平洋戦争の研究では、開戦は日本にとって不可避であったと言う意見が多い。しかし、この戦争の不可避論は歴史的にはまだ証明されていないし、歴史をつくるのは人、特に指導者であることを思うと、日本にとり、太平洋戦争を避ける道は真珠湾攻撃の直前まで、決して閉ざされてはいなかったのです。

戦後の自由主義 民主主義の浸透、米ソ冷戦の谷間をぬっての経済的発展から、300万の人命の犠牲を払い祖先伝来の多くの財産を消尽したとしても、日本にとり太平洋戦争があった方がよかったと言う意見が力を得ている。しかし果たしてそうであろうか。? 海軍大臣として示した米内光政の見識と人柄から、昭和天皇の周辺では、米内を健康を害している内大臣湯浅倉平の後任者として、更には主相として考える向きがあった。

これらの情報は、元老・西園寺公望の秘書であった原田熊雄から山本五十六にもたらされた。それは原田が昭和14年11月30日、横須賀に在泊する旗艦「長門」を訪れたときであった。「海軍部内に大将はかなり沢山出たけれども、万一軍令部総長が辞された場合、あとを受け継いでゆく見識人格ともに真に信頼するに足る、軍令部総長は米内大将以外にはない。永野大将あるいは加藤隆義、長谷川大将のごときがあるが、それはとても問題にならん。」「自分はどうしても、陛下の幕僚長として米内大将がご奉公することが、むろん国家のためにもなり、また海軍のためにもよいと思う。」山本の原田に対する言葉だったが、この意見は原田から内大臣秘書官長・松平康昌に通じた。

しかし 米内は昭和15年1月に内閣を組織し、しかも予備役に入ってしまった。首相となるのはともかく、予備役になるのは軍令部総長に就任するのに、決定的な障害となる。ときの海相・吉田善吾や海軍省人事局長・伊藤整一(沖縄への「大和」特攻を指揮し最後は司令長官室に内から鍵をかけて「大和」と共に沈んだ。)は米内を現役に残そうと説得したけれども、米内自身がどうしても聞き入れなかった。

何度も言うやうに、予備役からは軍令部総長に推薦することは出来ない。ここから山本の苦闘が始まる。最後まで開戦を阻止せねばならぬ。太平洋戦争の直前に、責任の立場に立っていた海軍首脳の中で、もっとも早く、またもっとも強く開戦に傾斜していったのは軍令部総長の永野修身であった。永野の代わりに米内がそのポストに就いていたら歴史はどのように転回していっただろうか、この思いが私の脳裏からはなれないと野村実博士(一阿の兵学校時代の分隊監事・大尉・歴史学者・学術会会員)は言ってをられます。

緒方竹虎の米内を書いた「一軍人の生涯」はすがすがしい名著だが、私が八角にインタビューしたとき、八角三郎が協力しなければ、この著書は完成しなかったのでは・・」と。(緒方竹虎が、「朝日」で主筆をしていたころは、まだこの新聞もいまのやうにひどくはなかった。また緒方は首相になる直前病を得て逝ってしまう。) 野村 実は言う。「米内への大命降下は、昭和天皇と湯浅内府との合作と考えていた。」 八角三郎にインタビューした時の彼の言葉であった。(昭和38年12月20日)

私はその後、入手出来る限りの資料を集めて検討し、「米内光政の離現役と復帰」 と題する論文にまとめた。この論文は、日本歴史学会の『日本歴史』に掲載され、さらにあとで、わたしの学位論文(慶応義塾大学)の一部となったが、結論は八角の言明と同様だった。野村分隊監事(オ305) が戦後 膨大な資料を読破分析して、学問的見地から帝国海軍のありようと精神を記述された。それは米内光政・山本五十六を中心にした帝国海軍条約派の歴史的な意義でもありました。おやじ(分隊監事)は分隊会でも押し付けがましいことは一切話されず 「この辺にしておきませうか?、つつけますか?」と聞かれるのでした。

個人的な思いや感情は厳しく排除されました。しかし逝かれる最後の分隊会でポツンと「田結は早くいってしまったからナ〜。」 と独り言のやうにつぶやかれたのでした。 個人的なことは一切口にされなかっただけに、私はふと不安を感じていました。教官はその年の暮れ亡くなられました。田結とは71期のクラスヘッド田結保大尉(府立一中より兵学校まで主席を通した英才。昭和17年10月、軽巡「筑摩」にて戦死・サマール沖。21才)のこと、野村実は同期次席。翌年の分隊会で奥様は「主人は海軍の歴史研究にほとんどその生涯を捧げ、私どもの私的な時間はございませんでした。」と申されるのでした。その時私は、ふと、「教官は信頼する期友田結大尉の代わりに、自分の人生をかけて戦前燻し銀のごとき光を放っていた帝国海軍条約派の歴史を研究されたのだ。」 と思いました。

戦後、戦勝国の対日政策に流された浅薄な評論が横行しましたが、「凡将山本五十六」はじめ目を覆うやうな海軍批判本が氾濫しました。歴史は勝者によって作られます。そのお先棒を担ぐのがマスコミです。司馬遼太郎と仲が良く、産経新聞の主筆から筑波大学に移った青木彰(75期)はよく言っていました。戦後のマスコミが堕落したのは、マッカーサーの言うことを聞いてをけば、兎に角安全だとの安易な風習が染み着いてしまったからだ、と。

我が国は二千六百七四年の歴史の中で初めて外敵との戦いに敗れました。そしてかっての敵の言うままに、 軍備に意を用いず、「平和」「平和」 と言い暮らして72年。防衛費がGNPの1パーセントを超えたと言っては騒ぎ 北朝鮮が優れた弾道ミサイルを開発したと言っては騒ぐざまは、国民の感情を煽って国家を破滅に導いた戦前と何ら変わらない姿です。応仁の乱の頃、「この頃都に流行るもの夜討ち 強盗 偽綸旨(りんじ) 下剋上する成り出者・・・」なる落首があります。公序良俗が乱れた時代です。

粕谷一希が今の世を応仁の乱に準えました。この乱れた時代に畏れ多くも皇室に関する典範をいらったり宮家についての定めを決めてはならんのです。パイプをくわえた敵軍の大将がまずやったことは、国体の解体 つまり天皇制の廃絶です。これは連合国の停戦条件を無視したものです、武装解除した国ではやりたい放題です。

しかし当時の日本国民の一億決死の尊皇の情と共産党勢力が今ほど強くなかったことからあきらめました。まして朝鮮戦争で武装解除した旧海軍の見事な機雷除去能力を見るにつけこれを味方につける利を悟ったのです。そして天皇の御退位を諦めました。まして第一生命ビルでの昭和天皇とのご対面。この時陛下は「私はどのような処遇を受けてもよい。国民の安寧をのみ願う。」 とのお言葉に、心を打たれ、迎えるときは、傲然と自室に座っていましたが、お帰りの時は、わざわざ一階の出口扉までお見送りするのです。

しかしその後彼は宮家の廃絶に走ります。今皇位を継ぐ宮家が少ないと民進党あたりが騒ぎますが、女性宮家創設の前にする事があるだろうと言いたい。国体を考えると安倍首相が皇室典範の基本的な改編を先にのばそうと言う方針は正しいと言わざるを得ない。昭和21年から24年までの東大経済学部の状態は全く共産党勢力下にあったと言ってもよい。河合栄治郎教授を追い出し共産党の教授連がGHQのバックアップの下猛威を振るっていました。口では学問の自由とか言っていましたがひどいものでした。

大内兵衛 有沢広巳・山田盛太郎 国を売った横田喜三郎 共産党ではないけれども 宮沢俊義 や南原繁 数えるときりがありません。推計学の泰斗 増山元三郎がこの手法はわが国のやうな利益主体の資本主義社会では数字が誤魔化されるから正確には有効ではない。本当に役立つのは、中国のやうな共産主義社会です。と講義する始末。日本教育のヒエラルキーの頂点をなす学校がこの始末ですから、後は推して知るべしです。


ー つづくー


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