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zoom RSS 一阿の 「澎湃寄する海原の」 10

<<   作成日時 : 2017/03/07 07:00   >>

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「海軍軍人で政治に関与するのは、海軍大臣ただ一人である。」という言葉は 兵学校時代よく聞きました。青年将校達の最高の憧れは、連合艦隊司令長官であり、決して海軍大臣や軍令部総長ではありませんでした。

さて、 伏見宮博恭(ひろやす)王のことを知らなければ、昭和の日本海軍を理解することは出来ないとよく言われます。博恭王は、明治8年伏見宮貞愛(さだなる)親王の第一王子として生れ、9才の時、華頂宮を継がれます。華頂宮博経(ひろつね)親王は伏見宮から出られ、華頂宮を創られますが、アナポリス(アメリカ)の海軍兵学校時代、訓練中負傷され、これがもとで亡くなります。伏見、華頂両宮家は協議の結果、勅許を得て、博恭王を華頂宮の後継者とします。

やがて博恭王は明治天皇の聖旨により、明治19年4月、築地・海軍兵学校の予科生徒となります。戦前は皇族男子は健康と能力さえ許せば、海軍将校か陸軍将校になるのが原則でした。その後、伏見宮博恭王はキール(ドイツ)の海軍兵学校に入られますが、その経歴は、海軍軍人の尊敬を集め、中心的存在とるのに十分なものがありました。

しかし運命が博恭王を艦隊派的お考えに導いて行きます。そして条約派的お考えの昭和天皇と微妙に違う立場にたたれます。(このことは後で述べます。)当時築地海軍兵学校は、浜離宮に向かい合う広大な地域を占めていました。現在は中央卸売市場 海上保安庁水路部 国立ガンセンター等になっています。博恭王が築地海軍兵学校で学ばれた3年間は、いわゆる鹿鳴館時代で生徒が華美に流れ、自由民権思想に影響されて、政治に興味を持つことを慮って、明治21年8月、江田島に移されました。

さて、博恭王は少佐のとき華頂宮から伏見宮に復帰されますが、 宮のご性格をよく現している事件が起きます。昭和2年8月24日 夜半、島根県 美保ヶ関沖の暗夜の海上で、連合艦隊の基本演習が行われていました。ワシントン軍縮条約によって、主力艦・空母を劣勢比率に制限された日本海軍では、必勝戦法の一つとして、夜戦が最も重視されていました。美保が関事件として知られるこの夜の大惨事は、水雷部隊の暗夜高速の襲撃運動中に起きました。駆逐隊の一番艦「神通」と後方から突進して来た駆逐艦「蕨」が衝突したのです。 「蕨」は火炎を発し、艦体が切断されて沈没、104人が死傷しました。

次いで軽巡隊二番艦「那珂」と突進中の駆逐艦「葦」が衝突しました。「葦」は三番砲から後部を切断され29人が死傷したのです。二隻の軽巡にも大損傷がありました。「神通」 艦長 水城圭次大佐は責任を感じて、同年12月26日、自刃して果てました。このとき、軍事参議官であった伏見宮博恭王は水城大佐の自刃に深く感動され、自ら水交社へ赴いて礼拝する意向を示されました。

海軍軍令部長 鈴木貫太郎は、岡田啓介海相と相談し、御付武官の差遣が適当であろうと御進言申し上げたのですが、伏見宮は自分の礼拝によって遺族が迷惑したり、世間が騒ぐことのないことを確認すると、通常礼装で、水交社に赴き、水城の霊に深く礼拝されたのでした。当時の皇族のお立場は今と全く違います。伏見宮と水城大佐は生前何ら特別の関係はなかったのです。

お若いころ、伏見宮は海軍少佐で、第三分隊長として「三笠」の後部砲塔を指揮されますが、東郷平八郎司令長官のもとに黄海海戦を戦って負傷されます。殿下(伏見宮)は海軍軍人として最も重要な操艦の技量にも優れ、周囲の敬意を集めるのに充分な能力を持ってをられたのです。やがて昭和7年2月海軍軍令部長に親補され、大東亜戦争前の日本海軍の政策決定に、重大な影響を与えるやうになられます。

ところで、第一次・第二次の世界大戦の基調をなすのは、イギリスとドイツの対立ですが、特にウィルヘルム二世の海軍政策とヒットラーの東方政策が、イギリスを刺激したことに起因すると言われています。日本は第一次世界大戦では、イギリスと同盟してドイツと戦い、第二次大戦ではドイツと同盟してイギリスと戦いました。前者では、勝利者の列に連なり、後者では国家を滅亡の淵に投げ込みました。

さて、昭和天皇が、国際協調を重視され、常に平和をお望みであったことは疑う余地がありません。昭和天皇の御生誕は、明治34年、翌年には日英同盟が締結されています。爾来20年間は、日英同盟の全盛期でした。また大正デモクラシーの時代でもありました。皇太子時代には、イギリスに外遊遊ばされ、イギリス王室とのご親交もお有りになりました。陛下が海軍条約派的お考えの持ち主であったことは、これらの背景と無関係ではありません。

しかし一方、伏見宮は、海軍軍令部長・軍令部総長であり、大東亜戦争の直前約10年近く、海軍部内ではほぼ絶対的な権威を持っておられましたし、昭和天皇といえどもこれを無視することは容易ではなかったのです。 日本を奈落の底に突き落とした日独伊三国同盟に昭和天皇は反対のお立場をとられ、伏見宮は賛成の側に回られます。前にも申し上げましたが、陸軍は明治以降ドイツに学び、海軍はイギリスを範としましたので、必然的にこの同盟に対して、採るべき道は違っていました。

陸軍は日独伊同盟に賛成し、海軍は反対でした。ただ既述のやうに、海軍の中でも、艦隊派は賛成の気持ちを持っていました。 ここで申し上げたいのは、観念的に是非善悪を決めつけ、サヨクリベラルのえらいおじさん達のやうに、戦争責任を追求して、極東裁判がどうの軍部がどうの、軍国主義がどうのと、「歴史の綾」 を無視して、無国籍人のごとく、子供っぽい断定で結論をだすことだけはしたくないのです。

日本の軍隊は万葉の「防人(さきもり)」の時代から歴史の中を流れてきました。それは、歴史と共にあります。進歩的有識者達が簡単に軍部を批判し、返す刀で「反省」「懺悔」のビラを撒き散らす様を見ると、私は詩人那珂太郎(海軍兵学校・国語教官)が「鎮魂歌」(藤村記念・歴程賞)で書かれた一節を思い出します。「・・・戦後の高みから、平和時の正論をもって、自らの心の痛みなしに批判し断罪する者が・・・」と。

我が分隊監事・野村 実 大尉(歴史学者・文学博士)も開戦までの微妙な成り行きを「万事塞翁が馬」という表現を使って歴史と対応させてをられます。 前ブログで述べましたが、山本五十六長官は、この日独伊同盟には絶対反対でした。全力を尽くして同盟阻止を画策します。しかし ほんの僅かの齟齬がこれを阻みます。

ところで、明治天皇はお年齢(とし)を召されてから、ご病弱な嘉仁親王(大正天皇)の行末を案じられ、伏見宮博恭王を親王の「相談相手」として起用なさるお心を持ってをられたと拝察されます。ある時、戦艦「朝日」の艦長であった伏見宮が士官室にこられた時、士官一同の前で、「自分は艦長としては、これがおしまいかも知れない。実は明治天皇の思し召しもあって、皇太子殿下の御相談相手になるかも知れない。それで、皆しっかりやって、『朝日』の成績を揚げてもらいたい。」と述べてをられるのです。

(明治44年) 昭和天皇は少年時代から、明治天皇や大正天皇とそのやうな関係におられた伏見宮博恭王の姿を見聞して成長されました。昭和天皇の即位大礼は、昭和3年11月でしたが、すぐあと12月4日に横浜港外で、大礼特別観艦式が行われます。伏見宮は即位大礼に参列された後すぐ海軍大将・軍事参議官として、お召艦、戦艦 「榛名」に乗艦し、昭和天皇が東京駅につかれるまで、ずっと天皇と共にありました。大正時代の日本海軍にとって、博恭王は昭和天皇の分身でさえありました。

博恭王が海軍軍令部長に就任すると、昭和天皇と博恭王の距離は益々接近され、博恭王の御発言は、海軍部内ではほぼ絶対的な権威を持っていましたので、前にも書きましたやうに、昭和天皇といえどもこれを無視することは容易ではなかったと、拝察されます。博恭王は日本海軍の誕生と共に歩まれ、日本海軍が消滅した敗戦の翌年亡くなりました。日本海軍の齢(よわい)とほぼ同じなのです。

しかも、昭和天皇は条約派的お考えを持たれ、博恭王は艦隊派的なお考えで進まれました。山本五十六、米内光政、各提督と伏見宮軍令部総長御退任の問題は次に述べます。昭和15年 ドイツの快進撃を見て、マスコミを始め国民の殆どが、ドイツ病にかかり、熱病に我を忘れていた時に、昭和天皇は如何に御宸襟を痛められ、日本海軍の条約派の提督達が苦慮したか。

大切なことは、目に見えないところにあります。 我々の先祖が国を守り国民を守るのに、どんなに苦労したか、そして命を擲ったか。それは歴史の底を流れて、日本国の潜在意識になっています。「やまとごころ」です。他の国の意識や観念に染まり、目に見えることだけに現(うつつ)をぬかし、リベラル リベラルと叫ぶのはとても危ない。日本は共産主義国家でもなくアメリカでもロシアでもありません。戦後70年間、我が国は変な方向に行ってしまっています。

早く元に戻らないと子孫に桜の美しい祖国を引き継げなくなります。北朝鮮が弾道ミサイルを三発日本の排他的経済水域に、正確に撃ち込んだその日に、小さな地方問題を手柄顔に、安倍叩きに余念のない共産党や民進党等々の面々をみていると、背筋が寒くなります。


ー つづく ー


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