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zoom RSS 一阿の 「澎湃寄する海原の」 9

<<   作成日時 : 2017/02/13 07:00   >>

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「Fleet in Being」 と言う言葉があります。戦前の帝国海軍が守ってきた考え方です。攻撃するのが目的ではなく、存在自体が国力であり国防になると言う考え方です。

僅か1年8ヶ月の兵学校生活では、海軍の幼稚園生で、とても戦前の深い帝国海軍の事情は語れません。ただ、戦後分隊会で話された野村実分隊監事(大尉・文学博士・「澎湃寄する海原の」5参照)のまことの言葉は伝へたいと思います。

海軍には、「艦隊派」と言われる海上艦艇に重きを置く保守的なグループと、大鑑巨砲にこだわらず国際条約を重視し「Fleet in being 」の考えを重視するグループがありました。この方々は、航空戦力を重視しました。山本五十六長官(元帥)もその一人です。生命をかけて終戦の工作をされた、鈴木貫太郎、米内光政 井上成美 、と言った提督は条約派です。人口に膾炙している方々には 堀 悌吉 山梨勝之進提督がいます。

堀悌吉は山本五十六と同期(32期)であり親友でした。山梨勝之進は今でも表参道の「水交会」のロビーに掛かっている扁額「君子交淡如水」(君子の交わりは淡きこと水の如し。=水交会の由来。)を書かれた方です。戦後、学習院院長、皇太子(今上天皇)の御養育係をされました。例のヴァイニング夫人が米国から派遣され、軍国主義にまみれた文化的後進国 日本の皇太子に民主主義を注ぎ込むのだ、と手ぐすね引いてやって来ますが、山梨勝之進に触れ、すっかり心が変わり、自分は思い上がっていたと反省しながら帰米したと言われます。

さて、山本五十六は何時艦隊派から条約派に変わったのでせうか?ロンドン海軍軍縮会議は昭和5年4月22日に調印され、山本は一行と共に北野丸で神戸に帰着しますが、その日(6月17日)港内の船上から反町栄一にあてて、「会議の成績に鑑み、汗顔の至りに御座候」と書簡をしたためています。これは前にも書きましたやうに、ロンドン ブロクナーハウスでの対立で、彼がこの条約に不満を抱いていたことを表しています。

この対立が、東京の海軍省と軍令部の対立に移り、やがてそれが倒閣運動に絡んで、政友会と民政党の対立に移行して行きました。帰国した山本は、かっての海軍大学校時代の尊敬する教官であった海軍次官・山梨勝之進や、同期の親友・海軍省軍務局長 堀悌吉が、気性の激しい軍令部長 加藤寛治や政治的策動の多い末次信正などに、「統帥権干犯」のスローガンのもとに攻撃されたのを知ります。山本は自分のいない6ヶ月間に海軍中央部で起こった変容ぶりに衝撃を受けたと思われます。山梨は末次と喧嘩両成敗の形で、軍令部出仕に退いていました。

「統帥権干犯」の言葉を新造したのは、後に二二六事件の黒幕として刑死した、北一輝です。 もともと、「統帥権」などと言う魔物には海軍軍人は関心はなかったのですが、政争には絶対中立であるべき海軍が、不用意に巻き込まれて行きます。前述しましたやうに、山本五十六は、純軍事的な考え方と交渉技術の上から、条約調印に反対したのですが、「政友会」の代議士達が、未熟な軍事理論を振りかざし、倒閣の目的だけの論陣をはるのを正視出来なかったでせう。

今もそのやうなことが、「民進党」の代議士あたりの発言にほの見えます。山本は帰国後、病気と称し、一切の面会を断ち、鎌倉の自宅に引きこもります。しかし 山本は条約調印が軍事的には、大して問題はない、と気づいたはずです。かれは航空兵力のことを考えておりました。気を取り直した山本に待っていたのは、海軍航空本部技術部長のポストでした。こう考えると、山本がロンドンから神戸に帰着した、昭和5年6月17日が、その考え方が艦隊派的から条約派的に移行した分岐点と考えられます。山本が本当に残念がり、後悔の臍を噛んだことが一つあります。

なぜこんな死んだ兒の歳を数えるやうなことばかり書くかと言いますと、今の識者と言われ、サヨクリベラルの人達が、一度も軍隊の経験もなく、軍隊がまるで国家や平和を壊す魔物のやうに思い込んでいる様子を見て、決してそうではないことを告げたいからです。

「戦闘」と言う言葉で、頭のテッペンから黄色い声を出して倒閣の目的だけの為に防衛大臣にくってかかる姿を見るにつけ、まるで87年前に逆戻りしたやうな錯覚に陥ります。軍隊と言うものは。共産党の言うやうな人を殺す集団でもなく、侵略を目的とする集団でもありません。帝国海軍はマスコミや政府の戦争指向に対し、昭和天皇の大御心を体して、最後まで戦争に反対したのです。昭和天皇は条約派的なお考えを持たれ、伏見宮は艦隊派的なお考えでした。このことは後で述べます。

陛下が如何に米内光政を信頼されたかは、よく知られています。「軍隊」と言うと、陸軍も海軍も混合し、艦隊派も条約派も知らず、反対 反対と叫ぶ人達は、本当に・・・「平和を愛する諸国民の公正と真義に信頼して、われらの安全と生存を確保」・・・出来ると信じているのでせうか。? どんなに苦しくても、自分の国は、自分で守る、と言うのが、自然の理ではないでしょうか。米国が守ってくれるのせうか、EUですか。ロシヤですか、中国が守ってくれるのですか。

我々はそろそろ共産党の観念と決別し、共産党と手を組んで倒閣のみに狂奔している民進党やこの種野党のヴェクトルを変えて行かないと、気がついた時には、時既に遅しの危険を味わはないとも限りません。 さて日本の帝国海軍は最後まで戦争に反対をしました。それはまだ国力が戦争に耐えるほど成熟していないと分析したからです。国力と言います。国力は戦力 経済力 外交力 政治力 文化力教養力 健康力等々色々あると思いますが、今でもその50%は戦力が占めているのではないでせうか。日本には戦力はありません。経済力その他、だけで、諸外国と対応するのは無理があります。

再軍備と言っても、航空母艦や戦車やミサイルを造れと言っているのではありません。 宇宙をも含め、日本国民の全知全能を集中して、自分たちの生命と安全と幸せを守る組織を創ると言うことです。機密を守ると言う一つをとっても、民間と軍隊では全く違うのです。戦後どれだけ大切な機密が盗まれたか? 。わが国がスパイ天国と言われる所以です。

さて、山本五十六が、ハワイ空襲の構想を、海軍大臣の及川古志郎に打ち明けたのは、昭和15年11月下旬でしたが、その時はまだ、あとでハワイを空襲することになる第一航空艦隊は、編成されていませんでした。

この時、海軍中央部は、連合艦隊司令長官と第一艦隊司令長官を分離する方針を検討していました。山本が兼務していた2つの司令長官のポストを分離し、また第一航空艦隊を新編する日は、昭和16年4月と計画されていました。山本は次のやうな書簡を、及川に出しています。「小官は本ハワイ作戦の実施に方りては、航空艦隊司令長官を拝命して、攻撃部隊を直率せしめられんことを切望するものなり。爾後、堂々の大作戦を指導すべき大連合艦隊司令長官に至りては、自ずから他にその人ありと確信するは、既に曩に口頭を以て意見を開陳せる通なり。

・・・この書簡の表面上の意味は、4月の編成換えの時、米内連合艦隊司令長官・山本第一航空艦隊司令長官でやって欲しい。と言うのですが、これだけでは、如何にも不可解なことが多すぎます。

その頃は、国家の政策として、まだ全くアメリカと戦争しやうなどと言う構想はなかったし、むしろ対米戦は避けなければならないと言うのが大勢でした。アメリカと戦ってはいけないと言う山本が、自身でハワイを空襲して、戦争を開始すると言うのは、如何にも合理的ではありません。また避戦派の筆頭の米内が、連合艦隊司令長官として対米戦を指揮すると言うのもなんとなく空想的です。しかしその裏をつめて行きますと、米内軍令部総長への深い伏線であったことがわかります。


ー つづく ー


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