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一阿の 「問わず語り」5

2015/08/23 07:00
戦後70年と言うが、戦前70年はどんな時代だったのか。「それは、明治八年、西郷隆盛が城山で自刃し、西南戦争が終結する二年前だ。」と教えてくれる人がいた。

爾来 明治政府は大日本帝国憲法を制定し、三権分立の近代国家を立ち上げ、国民の凄まじいエネルギーで日清、日露の戦いに勝利し、第一次世界大戦を経て、世界三大海軍国にまで成長した。帝国海軍の戦功もあり、第一次世界大戦後、独領であったマーシャル・カロリン・マリヤナの各諸島は日本の委任統治地になった。明治23年には教育勅語を発布し国民のチャンとした心の持ち方と暮らし方を教え教育の礎を創った。

私が戦後を生きて来て、何か口では言えない違和感を感じていたのは、「教育勅語の有無だったんだ。」とふと気がついた。

まだ小学生だった昭和8年、神戸の長田小学校では校門を入ると、築山があって、その中に「御真影」 と 「教育勅語」 が安置されていた。だから、我々小学生は、毎朝校門をくぐると黒松の植えられた小さな築山に頭を下げて、教室に急いだ。祝祭日には全校生徒は講堂に集まり、校長の「教育勅語」の奉読を聴いた。日本全国ほぼ同じ情景だったと想う。だから、 卒寿になる今でも「・・克(よ)く忠に克(よ)く孝に、億兆心を一にして、世世厥(そ)の美を済(な)せるは、此れ我が国体の精華にして、教育の淵源、亦実に此に存す。・・・」 と口をついて出ます。自慢ではなくて、昔の人は誰も皆そうだったのです。

孝と言う言葉が身に染み着いていましたので、戦前は子が親を殺し、親が子を殺すやうな空恐ろしいことは皆無でした。「忠」は難しいかもしれませんが、後段に「・・・一旦緩急あれば、義勇公に奉じ・・・」 とあります。

人権や私権のことのみに現を抜かすのではなく、私をすてて公の為に尽くすことです。 そして最後は 「朕、爾(なんじ)臣民と倶(とも)に拳拳服膺して咸(みな)其徳を一にせんことを庶幾(こいねが)う。」で結ばれます。陛下ご自身も、皆んなと一緒にこの教えを自分でやって見ます。と仰せになっているのです。

これは、明治天皇だけではなく、今上陛下や美智子妃殿下の日常を拝察すると、ずーっと継続遊ばされたことが分かります。世界中でこんな国はありません。 では何故戦勝国の米国GHQが昭和20年8月15日以降、我が国に上陸してこの「教育勅語」を全廃し学校で生徒に教えることを禁じたのでせうか。 それは至極簡単です。戦勝国(旧敵国)にとって都合が悪かったからです。何故悪いのでせう。日本があまりに強かったからです。

「・・父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し・・」 て来た静かで、和やかな国民が此ほど強いとは思わなかった。独・伊 が降伏した後は全世界を相手に日本一国で戦った。そしてそのお陰で、戦後東南アジアの多くの国は独立した。こんな不気味な強い国と二度と戦いたくない。このまま戦えば我が方、米国の戦死者は300万を超えると踏んだトルーマンは有条件降伏の話し合いを心に決めた。但しこの国は天皇を中心に強い家族制度で結束している。

そして我々キリスト教と違う訳の分からん多神教の神道と言うものを二千年来その血の中に引き継いでいる。こいつを徹底的に破壊せにゃならん。天皇制と家族制度と教育勅語。ただ朝鮮戦争の補給路を脅かす日本海の機雷の除去に見事な「技」を見せた日本の海軍力に驚嘆し、こいつは逆に利用した方が得だと思うやうになった。(敗戦の結果、役に立つ艦艇を全く保有しない日本海軍なのに!機雷除去一つとっても素晴らしかった。)且 ソ連との冷戦の危機もあって天皇制の廃止は諦めたが、「家族制度」と「神道」と「教育勅語」そして「古来からの文化」は徹底的な破壊を諦めなかった。

「問わず語り」ではなくて「理屈」でものを考えるやり方を尊び「契約」を社会の下に敷いて近代社会と称し民主主義 だの 自由主義だのと名ずけて、全く文化の違う日本の国を自分たち西欧の文化で通分する作業を始めたのだった。バックには圧倒的な軍事力があります。我が国内にも大正時代以降西欧文化に心酔したハイカラさん達が特に知識層には沢山いました。

最高の知性に恵まれた人達は小林秀雄のやうに、本来の日本に戻り、本居宣長のこころを知り、古来の日本文化に誇りを持ちますが、大半の知識層は中途半端です。戦勝国(嘗ての敵国)はここが狙い目でした。日本国民はまだ充分に資本主義も民主主義も咀嚼仕切れていませんでした。仏教や茶道を自家薬籠中のものにしたやうには行きません。

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(マックスウェーバー)は大塚久雄が訳しましたが、彼は資本主義社会の成熟に「人間類型」と言うことを言い出しました。例えばロビンソン・クルソー漂流記のやうに離れ小島に流れ着くと、難破した自分の帆船から小麦袋を運んできて再生産を始める民族と、鹿ヶ谷の別邸で、平家討伐の密談をしていたのを咎められ、治承元年、鬼界ヶ島に流された僧俊寛が、去りゆく舟に向かって、「返せ!」「戻せ!」 と泣き叫ぶ民族の差は歴然だと言うのです。

勿論これは物語です。しかしそう言う物語を作る国民性、人間類型に差があるのだと。そしてダニエル・デフォーを生んだ西欧には自然発生的に資本主義の再生産の芽が育ち、「能」の「俊寛」を作り上げた日本人には資本主義を育てる土壌を持たなかったと、 戦後の日本には「観念」を武装したマルクス・レーニン派と観念を西欧の知性でソティーしたマックス・ウェーバー派で満ち満ちていました。大学で習うことはこの二つです。

戦いに負けるとはこう言うことだったのか。日本人の変節のスピードの速さ。マッカーサー万歳、極東裁判、自虐史観、 自国の軍隊に対する罵詈雑言。護国の神となられた特別攻撃隊の御霊に対してさえ犬死扱い。これが70年も続きました。勿論先導したのはGHQであり旧敵国の戦勝国です。しかしその尻馬に乗って、国民を煽動したのは、NHKであり朝日であり毎日でありました。

物事には両面があります。般若心経にも「無無明亦無無明盡」とあります。「この世に本当は無明なんてものはない。しかしまた、この世には無明が盡きることもない。」。戦後、日本人はあまりに一方的にものを考え過ぎたのではないでせうか。戦前70年は支那「清」は阿片戦争で殆ど国家の態をなさず、朝鮮は資本主義が理解出来ず、混乱の極にありました。この中で日本は自国を護るため、急遽軍備を固め、近代武装を学び西欧の侵略を水際で防ぎました。そしてマニュファクトールから資本の再生産へと資本主義を咀嚼する努力をし、この富を完全に日本独自の経済構造の中へ組み入れたのでありました。大塚久雄が人間類型を言うなら日本には日本の資本主義があっても良いはずです。

ネーデルランドにはネーデルランドの ドイツにはドイツのフランスにはフランスのスコットランドにはスコットランドのそしてアメリカにはアメリカのそれぞれの資本主義があるやうに。戦前の70年はそれまで大和民族が2000年 温めてきたマグマが、一挙に噴き出したやうな、大変なエネルギーと発展がありました。

しかし日本は戦いに負けました。大体、歴史は戦いに勝った国(者)が造ります。だから戦後言われる日本の近現代史は戦勝国に都合のよいやうに書き換えられました。いや、我々が書いたと言うなら、それは大正時代に入って来た西欧の自然主義かマルクスレーニン主義にかぶれたハイカラさん達のカッコの良いしかし浮ついた歴史観です。それが証拠に戦後70年にもなるのに、いまだに旧敵国(戦勝国)に渡された憲法を後生大事に守っているではありませんか。

少し、情緒的になりました。しかしこれを桶谷秀昭の「昭和精神史」にとって見ると、「・・明治維新以降の文明の流れを、外来思想の播種種と収穫の交代と考えた。 明治30年代の中葉から種が播かれて、明治40年以降に自然主義と言う名で台頭した個人主義的近代思想の収穫期である。それは第一次世界大戦の終結する、大正7、8年頃まで続いた。次に播種期が来た。

新しい種は、マルクス主義と言う外来思想である。それは昭和の初頭の現時点まで続いている。では次に来るべき収穫期は、何時はじまるであろうか。このままでゆけば、もう少し間がありそうにも思える。外界に何かの大変動を生じて、それからの、激烈な影響を被れば、以外に早いかとも思われる。」 (一阿註、以上は生田長江の言葉) 「それは意外に早くやって来た。1929年、昭和4年に始まる世界恐慌が日本へ波及して、マルクス主義革命運動が台頭し、それに随伴する文化運動としてプロレタリヤ文学の隆盛をみた。

その運動の壊滅する昭和7、8年の頃から、日本および日本的なものとは何か、日本の伝統に帰れと言う問題意識が、論壇に登場するやうになる。外界の変動としては、満州事変と満州国の出現がある。生田長江の予言と、その根拠である文明史観に意味があるのは、昭和の敗戦までのさまさまの思想や文学が、昭和以前の明治、大正の文化現象の連続性において、予見されていることである。」 桶谷秀昭の言葉は続く。「昭和のマルクス主義の特徴は、世界恐慌の日本への波及から生まれたと言うよりも大正後半期の播種期の次に来るべき収穫期の必然現象として台頭した。

昭和のマルクス主義の特徴は、マルクス主義のロシア的であるレーニン主義が絶対思想として信奉されたことである。レーニンには19世紀の60年代まで農奴制を存続していたロシアの後進制に対する負い目と悲哀が隠されていたに違いない。革命による共産主義社会の実現こそロシアがヨーロッパへの負い目を克服する手段であった。マルクス主義のロシア的形態にはそう言う本能が潜んでいる。日本の昭和マルクス主義がロシアマルクス主義に嗅ぎつけ、レーニン主義として信奉したのはそう言う本能であったと思われる」。

私は、「問わず語り-2」で桶谷秀昭のことについて触れた。だからここで「昭和精神史(桶谷秀昭-文春文庫)」の数行を挙げましたが、出来ましたら通読なさることをお勧めします。

戦後70年・・・人類で始めて原子爆弾を落とされ、主要な都市と言う都市は無差別爆撃に遭い(勿論国際法違反)、あまつさえ共産革命思想を持った共産党員やそのシンパ、そして外来種にも似た個人主義- 人権論者に当然のごとく、反日の旗を振られ、屈辱的にも七年間は、異国の支配下にあった我が国。それでも大多数の国民はなんとか祖国を蘇らせようと必死の努力を重ね、そして、「 Japan as No.1」 と言わせる迄になった。

このやうに我が国を廃虚の中から立ち直らせたのは、敗戦までの70年に凄まじいエネルギーを発揮したわが先輩の延長戦上にあった国民である。戦前 戦後のこのやうな国民を生んだ教育は、江戸時代末期の藩校や寺子屋の教育であり、明治以降では「大日本帝国憲法の下での教育勅語を基礎におく教育」であった。

しかし美しかったあの故郷の「すすき」の原っぱが、醜い「せいたかあわだち草」の外来種の黄色に追いやられて無惨に消えてしまったやうに、次第に日本古来の心の風情も消えて行きつつあります。


― つづく―

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寝言の 「『いじめ』についての考察」

2015/08/16 07:00
 先日、中2の男子生徒が学友に「いじめ」られ、それを 苦にして列車から飛び降り、自殺する、と云う、悲惨な事件が起きた。 (ねごと)は又か、と残念に思うと、同時に大人たち(教師・校長・教育委員会・評論家、等)の反応と行動が「事無かれ」、「自己擁護」に終わっているのに、怒りを感じた。彼らの、常に説く「人の命の大切さ」が空虚になる。

 「いじめ」に依る自殺は、度々報道されて、然も、昔から改善の気配は全く、見えない。

 一般論として、政治、経済、を含め、人間活動の総て、その成果が上がらぬ時、人はその原因を追及する。この場合何故、熱意が無いのか?これが愚稿を思いたった、動機だ。
  
さて、昔から、と書いたが、(ねごと)が体験した、戦前はどうだったか?勿論、「からかい」はあったが、残酷な「いじめ」は見聞したことは、ない。それは友達が許さない。個人間の喧嘩は良くやった、記憶はあるが、暗黙のルールが有って、度を超えたものは、なかった。

 矢張り日本は武士道の国である。弱い者いじめは100パーセント認めないし、その行為 を黙認することも100パーセントあり得ない。

 非常に、簡単な、結論だが、総て、物事は、当事者が、決断しなければ、成功しない。「いじめ」も被害者・加害者が、心から納得し自分の行動を改めなくては、無くならない。商業・工業・役所、総てトップの訓示、や明文化された、規則、でスムーズに動くことはない。

(ねごと)は安易に考えては、いないが、子供達は無垢な心を持っている、人間に「性善説・性悪説」が有るが、無垢な心はどちらに向かうか、の分岐点なのだ。簡単に、あきらめられる問題ではない。

 然し当人達は未だ子供です。直ちに彼らの奮起を、期待するのは、無理です。「社会」全体の雰囲気を、敗戦前に戻す、事が大前提となります。

 それにしても、加害者側の動きは陰湿で大人びている。多人数を背景にメールも含め、被害者を孤立させ、追い込んでいる。自立精神を失わせるのだ。
 
我が国が憲法に縛られた姿に似ている。自立とは自分の考え。自分の力、で物事を為し遂げることだ。繰り返しになるが、国全体が敗戦前の雰囲気になることだ。その中の一つ「他人を思いやること」だ。

 3.11東北の大震災で外国人を感服させた、「民族性」だ。「民族性」は困難時に自然に出てくる。
 
 教育委員会、第3者委員会、の検証の記事が出ていないので、この件に関する、「考察」は未完ですが、一応終ります。


―おわり―


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一阿の 「問わず語り」4

2015/08/12 07:00
蛸壺や/はかなき夢を/夏の月
「笈の小文」にある芭蕉の句であることはご存知の通り。明石の人丸神社の石碑に記されている。

私は若い頃明石の隣の人丸にいたので、此の石碑を毎朝見て会社へ通った。夏になるとこの句を思い出す。明日の生命も知らない蛸の夢が哀れを誘う。日本人は皆まで言わない。問わず語りに相手に伝へる。俳句は特にそうである。支那大陸や朝鮮半島の人達は無関心だが、西欧の優れた文化人達が異質のこの

俳句に心酔したことはかってブログで述べた。リルケ や シュペルビエルを中心とする人達だ。リルケと言へば久保田万太郎の最後の句に、 「こでまりの/花に風いで来たりけり。」 がある。
久保田万太郎が急逝する直前、安住 敦は万太郎と一緒に車で青山墓地の近くを通った。ある屋敷の庭に「こでまり」の花が垂れ下がっていた。そこで 万太郎は こでまりの花に/風いで来たりけり と呟いたと言う。

万太郎は知性に優れた国際人ではない。寧ろ江戸下町情緒にどっぷりつかった人だ。この彼があのリルケの「風立ちぬ/いさ生きめやも」 のこころを呟く。日本人の所作だろう。敗戦後われわれが源氏物語いらいの温かい土の道を歩くことを許されず、理屈と観念で舗装されたコンクリート平和道路を歩かされ、今も歩いている。見るテレビと言へば、殆ど安保法案反対、平和大行進だ。昭和20年8月15日で日本の文化や歴史は強制的に中断されたと考える多くの人がいる。

しかし国家と言うものは、長い歴史と文化の上に立たなければならない。民主主義と言うなら平和と戦争のそれぞれの立場で、想いを述べ道を決めれば良い。ところが、日本の尊さ美しさ正しさを伝える貴重な書籍は7100冊も進駐軍に焼き払われたのだ。人呼んで「焚書の刑」と言う。勿論国際法では禁止された行為だ。学校では日教組の先生が自虐史観を教へマスコミは侫造に近い偏った情報を撒きちらす。大抵の人は、比較対照すべき資料が無いのだから洗脳されない方が不思議だ。

戦艦大和は八月七日沈みました。「大和」は此の目で見えます。我々は敗戦と同時に、目に見えない心のなかの「大和」も撃沈されたのではないでせうか。今、国会議事堂前で戦争法案反対と叫び首相官邸前で集団的自衛権反対を絶叫している集団を見ると55年前の安保闘争を思い出します。規模こそ違え、マスコミに踊らされ、感情的である点全く変わりはない。55年前安保反対を叫んだ人達がその後どうなったかを考へるとすぐ分かります。

戦後、労働運動華やかなりしころ、「むかし陸軍、いま総評。」 と言う言葉が流行りました。 わが国の海軍や陸軍が誕生したのは、慶應四年一月、京都で総裁・議定・参与の下に分課制が採用され、海陸軍務課が設置された1868年と考へるのが常識的ですから、日本の軍隊は僅か77年で消滅したことになります。日本の軍隊はそんなに悪かったのでせうか。それに比べ、共産党や総評や日教組や国民ではなく市民だと自称する反日の人達が猛威を奮っている時間は充分に長いのです。軍隊に在籍した経験のある愚老は確かに軍隊を全て良いとは言いません。しかしそれは改善すれば良いことです。

私の90年の人生は、僅か一年八ヶ月のこの軍隊の経験と記憶で支えられて来たやうに想います。戦後のどんな経験よりも純度が高いのだ。一度も軍隊の経験のない人が何を根拠に軍隊は悪で軍隊は残虐で軍隊は半人道的だ と決めつけるのですか。「軍」と言うものは如何に戦いに反対であっても(米内光政・山本五十六・井上成美各提督のやうに)国家が戦えと決めたら命の限り戦ふものです。 三百万人もの尊い人命の犠牲と祖先伝来の多くの財産を消尽して得た、この今の日本の国を2675年続いた本来の「心と姿」のまま後世に伝へなければならないのは当然です。

至る所、関東大震災の惨状を呈していた敗戦の国土の上に、自信を喪失し食べるものも無い国民に全く文化の異なる戦勝国の偉い人間が来て、これが自由主義だこれが民主主義だと強制的にコンクリートの高速平和道路を造り、従順な行儀のよい国民を走らせ続けました。そして70年。 軍隊は悪で。家族は酷い目にあわされた。あんなに愛された芸能人やスポーツ選手を殺してしまうとマスコミは毎日のやうに放送し、戦争反対 軍隊反対と叫ぶ。 特に朝日 毎日 は無道だ。そしてNHKは巧妙だ。

テレビでは不思議に祖国の為、母や父や弟や妹の為、喜んで命を捧げた人のことは一切出て来ない。90を過ぎた老人で当時不平不満を胸に一兵卒として戦っていたごく一部の声のみ取り上げ、あたかも此が軍隊であったかのやうに放映する。知らない人は本当かと思う。自分のことを言うのは恥ずかしいが、私の父は27才で他界、私は2歳、 母は24才だった。一生家を守り女手一つで私を育て上げた。いよいよ国が危なくなると私を国に捧げた。死んでこいと軍隊の学校へやった。私は運悪く死ななかった。
敗戦で神戸の神有電車は動かず、原爆惨下の広島から貨車で神戸に辿り着いたそのまま徹夜で有馬まで歩いた。母は有馬に疎開していた。「お母さん。申し訳ありません。」 と私は手をついた。

70年前の出来事です。それから40年ほどして、ある商社の友人に言った。「私は2ヶ月戦争が長引いていたら、死んでいたかも知れない。偶然生き残ってしまった。」すると彼は「あなたは生き残ったのではなく、死にそこなったのだ。」と言った。「その通りだ。」 と私は答えた。 やがてその友人の会社の社長が民主党全盛時代、中国大使になると言う。「国の代表として、彼はちゃんと国体を識っているのかな。」と言ったら 「国体って何ですか。」 と友人は聞いた。私は唖然とした。しかし笑っていた。

この男も商社では可なりの地位を占めていた。私はあの芭蕉の句を思い出していた。「蛸壺や/はかなき夢を/夏の月」 戦争反対! 人権人権! 平和 平和! 蛸壺で夢を見ているおめでたい人達。なんの備えも無しに・・・。 私の母校、旧制神戸二中はあの最後の沖縄県知事 島田 叡 さんを出したが、校歌は「名も千載にかんばしき/湊川原の片ほとり/黎明(あさけ)の光身に浴びて/希望に生ける健児あり。」で始まる。湊川原で散った楠木正成を偲ぶもので、そのメロディーは軍歌の「勇敢なる水兵」(日清戦争)そのままだった。戦前はごく自然に歌い何の違和感もなかった。

自慢めくが、同じ先輩 「小磯良平」や「東山魁夷」もこの校歌を高らかに歌ったのだ。この神戸二中が戦後間もない頃、一度だけ夏の高校野球の県代表に選ばれたことがある。優勝したのて選手も応援団も父兄も声を揃えて校歌を歌った。ところがどうだろう?!。 甲子園のスタンドを埋める観客のあちこちから失笑が起こり、やがてゲラゲラ笑い出したのだ。楠木正成はアナクロで「勇敢なる水兵」は軍国主義だと言うのだ。校長はすぐに校歌を変へた。だから我々32回生は自分の母校の校歌を知らないし、歌う気にもならない。今でも同窓会では「勇敢なる水兵」のメロディーに乗って声を張り上げる。卒業から72年、母校は104才になる。

我が国は、変な国になりつつあるのじゃないかな。戦前を充分に知っている私は、どうもこのままお迎えの車に乗る気がしない。戦後70年と言うが、戦前70年はいつだろうとふと考える。

― つづく―

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