ガラス瓶に手紙を入れて

アクセスカウンタ

zoom RSS 一阿の 「麻酔の話」T @/3

<<   作成日時 : 2013/06/25 07:00   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 19 / トラックバック 0 / コメント 0

20年ほど前、順天堂病院に茅 稽二と言う麻酔科の先生がゐた。日本麻酔学会の会長だ。飄々として面白い話をした。銀座ヨーソロで一杯やった時大事にしてゐた戦艦大和の切手を呉れた。日本の切手ではない。外国切手だ。「BHUTAN」と印刷されてゐた。日本に「大和」の切手が無くてブータンにあるのを不思議に思った。彼は亡くなったがこの切手は大切にしてゐる。兵学校の76期だった。東大 茅 誠司総長の甥だ。

さて75期の米山 卓兄が中野組(株)を経営してゐた頃、建築土木業界の江田島(海軍兵学校)出身者に連絡をして、為になる話を聞く会があった。茅 稽二さんが呼ばれたのはそんな時だ。演題は「麻酔の話」であった。芝にあった日本能率協会の二階で彼は話を始めた。

「敗戦直後の昭和21年私はかねて落語家になりたいと思ってゐましたが、銀座を歩いてゐて偶然「小さん」とすれ違いました。思はず弟子にして下さいと頼んだら案外簡単に弟子にして呉れました。小さんは可愛がって呉れて、自分で言うのもなんですが芸も段々身について来ました。(彼の「火焔太鼓」は抜群だった。)

そんな時小さんは私を呼んで、神楽坂の「をんな」のところへお給金をとどけるやうに言いました。それから毎月お給金の日になると私は神楽坂へ通いました。彼女は時々私を茶の間に上がるやう誘いましたが、これは危ないと思い決して上がりませんでした。

そんなことが一年ほど続いたある日、『一度くらい良いじゃござんせんか、』と 言う言葉で、つい上がってしまいました。お茶が出お酒が出つきだしが出るころになると、ついついそうなってしまいました。こんな噂はすぐ広まるもので、やがて師匠の知るところとなります。

「小さん」は烈火の如く怒り私を破門し、落語界から追放しました。私は好きな落語をやることが出来ません。泣く泣く故郷の厚木へ帰り、おふくろに事の次第を話しました。おふくろは偉いもんで、笑いながら 「お前もおやじに似てだらしがない。仕方がないから医者にでもなるか。」てんで医者になる覚悟を決めたんです。

私の家は代々医者をやってゐました。根が怠け者で専門を決めるときは「麻酔科」にしました。外科や内科に比べて呑気で楽だと思ったからてす。(尤もそれほど楽な仕事でないことがすぐに分かりがっかりしました。(笑))茅 稽二博士は突然真顔になってこう言うのです。

「皆さん麻酔の分子構造をご存知ですか?。そんなに複雑なものではありません。空気中によくある酸素とか窒素とか炭素とか鉄とかの組み合わせに過ぎないのです。だから皆さん空気 空気と言って重宝がり事実空気がないと生きてゆけませんが、一寸組成を変えたら麻酔みたいなものになるかも知んのです。

ところで昨今の世情は戦前の常識では考へられないほど乱れてゐます。昔吸ってゐた空気の組成が僅か変わっただけで思考が変わるかもしれんのです。空気は麻酔みたいなものです。さて最近の常識外れの世情や国情も空気の組成が気がつかぬくらい微量(わずか)変ったからかも知れんと考へることさえあります。」

勿論これは彼一流のブラックユーモアに過ぎません。ただ「平和」と言へばあたり構わず大手を振って歩けるやうな、国を代表する首相(菅直人)が国歌(君が代)反対論者であるやうな、そして中国の代表者との会談でうつむいたまま目も上げられない哀れな態度を見るやうな、わが国の歴史家の中に竹島は韓国の領土だと言う論を為す輩(やから)がゐるやうな、国家の大切な事を常に人権の土俵に引きずり込んであげつらうマスコミが常識となった世の中を見るにつけ正気の沙汰と思へないのは、茅 稽二博士だけではありません。

物事は目の前に現れることばかり見ていると、なにが何やら分からなくなりますが、茅先生のやうに大きく眺めると自然に分かってきます。90年前の日本は明らかに今の日本と違ってゐました。平成9年5月神戸の中学校の校門の前に近所の子供の首を切って置いた事件がありました。14才の少年です。世に「酒鬼薔薇聖斗の連続殺人事件」 と言います。

その後も陰惨ないじめは後を絶ちません。そしてこれらの弁護をするのは決って共産党系の左翼の弁護団です。子が親を殺し親が子を殺す事件は又かと言うほど増えました。戦前はそんな恐ろしいことは頭を過ぎることさえありませんでした。家族はお互いに慈しみ合い核家族なんて言葉もありません。

酒鬼薔薇聖斗なる犯人は14才です。愚老の14才の頃は運動会で肉弾三勇士(江下 北川 作江各一等兵)に習ひ運動会で鉄条網に向かって太い竹竿に微量の火薬を添付したやつを三人で抱いて突撃する真似をしてゐる頃です。今はこれを軍国主義と言ひます。当時は14〜5才にもなれば一朝事ある時は自分もお国に尽くしたいと思ってゐました。これを指導したのは陸軍の配属将校です。この配属将校を罵倒してヤンヤの喝采をうけたのが例の「妹尾河童」の「少年H」です。

爆弾三勇士については朝日を始め全てのマスコミが絶大な賛辞を贈りました。与謝野鉄幹が山田耕作が古賀政男が名曲を作ってくれました。愚老は未だに「廟行鎮」の肉弾三勇士の「・・折から凍る如月の二十二日の午前五時・・♪」の歌を口ずさんてゐます。

しかし時移れば「河童」 の軍隊馬鹿野郎呼ばわりとなります。奴は同じ神戸二中の四年後輩です。戦前戦前と言ひますが四年も違うとこうも考へが違ひます。しかし我々もえらそうなことは言えません。「75期」のクラスヘッドも次席も大学卒後共産党へ入党したのです。マッカーサーの引き連れて来た民間情報教育局の赤の連中の左傾化共産化教育の策略は熾烈を極めました。彼等は日本を根底から改造しやうと思いました。二度と日本に軍隊を持たしてはならん。それ程我々の父祖の軍隊は強かったのです。

戦後先ず大学で教わったことは共産思想でした。農政学では山田盛太郎が「皆さん日本の農民は資本によって搾取され、貧窮のどん底にありました。職のない者はみな軍隊にゆきます。資本は剰余価値を高める為に完全なる消費を伴う戦争へと走ります。戦争には軍人が要ります。資本は益々農家を搾取することになったのです。」と講義を進め、やがて例のローザ・ルクセンブルク(過激な共産主義女性闘士)の再生産表式へと学生を導くのでした。

これが昭和21年〜24年の大学の教育です。講和条約が締結されるまでの六年間は陛下の上にマッカーサーがゐましたから彼等は武力も後ろ盾に如何に日本文化を壊し思想を左傾化させるかに狂奔しました。やりたい放題をやったのです。教育の最高機関であった東大でも本来の保守の思想を持つ教授は一掃し共産党員か左翼思想を堅持する者かこれらに反対しない者以外は生息出来なかったのです。


(つづく)

*☆*゚ ゜゚*☆*☆*゚゜゚*☆*

続きが楽しみな方は
人気ブログランキングFC2ブログランキング のクリックをお願い致します。

※姉妹サイト【日本を】『日本解体法案』反対請願.com【守ろう】では、様々な活動を行っております。

何卒皆さまの温かいご協力をよろしくお願い申し上げます。

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 19
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い
ナイス ナイス ナイス ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
一阿の 「麻酔の話」T @/3 ガラス瓶に手紙を入れて/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる